第1話「冷たい雨と終わりの宣告」
登場人物紹介
◇ルミア
没落した名家の令嬢。
美しい銀髪と翠の瞳を持つ。
他者の傷や病を癒す能力を持つが、その力が類まれなものであるため周囲には正しく理解されず、長年家族や婚約者から道具として搾取され、虐げられてきた。
自己肯定感が低く常に怯えているが、根は優しく芯の強さを秘めている。
◇イリス
大陸北方を支配する帝国の女帝。
漆黒の髪と黄金の瞳を持つ、大陸最強と謳われる魔心の持ち主。
冷酷無比な氷の女帝として恐れられているが、幼い頃に命を救ってくれたルミアに対してだけは別人のように甘く、底知れない執着と溺愛を注ぐ。
◇レオン
ルミアの元婚約者である王太子。
傲慢で自己中心的な性格。
ルミアの力を都合よく利用しつつも彼女を見下し、婚約破棄と追放を宣告する。
しかしルミアを失ったことで自身の領地と立場が崩壊していくことになり、破滅の道を歩む。
冷たい雨が泥を跳ね上げ、ルミアの銀糸の髪を容赦なく濡らしていく。
足元のぬかるみに膝をつく彼女の耳に、かつて愛を誓ったはずの男の冷ややかな声が響いた。
「無能な君との婚約は、今日このときをもって破棄する。直ちにこの国から立ち去れ」
見上げる視界は水滴で歪み、息をするたびに喉の奥がひりつく。
王太子であるレオンは、傘を差し掛ける従者の隣で見下すようにルミアを睨みつけていた。
彼の華やかな外套には雨粒ひとつ飛んでいない。
対照的に、ルミアの薄いドレスは泥水を含んで重く垂れ下がり、芯まで冷え切った身体から体温を奪い続けている。
彼女の唇が震え、何かを紡ごうとかすかに開いた。
『どうして……』
声にならない問いは、雨の音にかき消されていく。
ルミアはこれまで、国のため、そしてレオンのために自身の身を削ってきた。
彼女の持つ治癒の力は、対象の傷や病を治す代わりに、その苦痛を自らの身体に引き受けるものだと見なされていた。
兵士の刃傷を塞げば、ルミアの肌に鋭い痛みが走る。
民の流行り病を癒せば、彼女自身が数日間にわたって高熱にうなされる羽目になる。
それでも彼女は、聖女としての責務を果たすために祈り続けた。
誰も彼女の痛みに寄り添うことはなく、ただ都合のいい道具として使い潰されてきた。
限界を超えて力を振り絞った結果、いつしか彼女の手からは光がこぼれなくなり、ただの無力な娘として王宮の隅に追いやられていた。
「聞こえなかったのか。役立たずの君に居場所はないと言っているんだ」
レオンの革靴が、無造作にぬかるみを蹴り上げる。
跳ねた泥水がルミアの頬を打ち、冷たい筋となって首筋へ伝い落ちた。
周囲を取り囲む近衛兵たちも、誰ひとりとしてルミアに同情の目を向けない。
むしろ厄介者がいなくなることを喜ぶような、冷酷な気配が空間を満たしていた。
肺の奥底に溜まった息を、ルミアは震える唇から細く吐き出した。
指先から感覚が消え失せ、視界の端が暗くにじみ始めた。
このまま泥の中に倒れ伏して、すべてを終わらせてしまいたい。
そんな諦めが彼女の心を覆い尽くそうとした、そのときだった。
厚く垂れ込めていた雨雲の奥で、低い風のうなりが響いた。
空気を震わせる重低音が、石畳を足元から揺らした。
レオンが怪訝そうに空を見上げ、近衛兵たちが一斉に剣の柄に手をかけた。
「何だ、今の音は」
レオンの問いに答える者はいない。
次の瞬間、強烈な突風が王城の中庭を吹き抜けた。
雨粒が真横に弾け飛び、ルミアの身体が風の力で泥の上を滑りそうになる。
頭上を覆い尽くしたのは、夜の闇をそのまま切り取ったような巨大な影だった。
滑らかな黒い鱗を持つ竜が、分厚い翼を折りたたみながら、ルミアとレオンの間に音もなく舞い降りる。
周囲の兵士たちが恐怖で震え上がり、一斉に後ずさった。
レオンすらも言葉を失い、従者の後ろに身を隠そうと足をもつれさせた。
黒竜の背から、ひとりの人影がゆっくりと降り立った。
風に煽られてひるがえる外套の奥から、漆黒の髪が滑り出る。
薄暗い雨のなかで、その者の双眸だけが、溶けた黄金のように鋭い光を放っていた。
「見つけた。私の、たったひとりの光」
低く、しかし驚くほど澄んだ声が雨音を切り裂いた。
大陸の北方に君臨し、誰もがその名を口にすることすら恐れる氷の女帝。
イリスが、ルミアの目の前に立っていた。




