第13話「あなたの隣で見る明日」
国境の町から飛び立った黒竜は、澄み切った北の空を滑るように進んでいた。
ルミアはイリスの前に座り、その大きな腕に背中からすっぽりと包み込まれている。
上空を吹き抜ける風は氷のように冷たいはずだが、イリスの身体から発せられる魔力と体温が防壁となり、ルミアの肌には心地よい涼風としてしか届かない。
眼下には、陽光を反射してきらきらと輝く見渡す限りの雪原が広がっていた。
南の王国にいた頃、世界はいつも薄暗く、泥と淀んだ空気に満ちていた。
今のルミアの目に映る世界は、痛いほどに白く、そして純粋な光にあふれている。
背中に密着するイリスの胸から、力強い心音が一定のリズムで伝わってくる。
その音を聞いているだけで、ルミアの心の奥底に残っていた最後の不安の欠片すらも、風にさらわれて消えていくようだった。
「寒くはないか。風が強くなってきた」
耳元で降ってきた低い声に、ルミアはイリスの腕の上に自分の手を重ねた。
厚い革手袋越しでも、互いの熱が確かに交じり合うのを感じる。
「大丈夫です。イリス様が、こんなにも温かいですから」
ルミアが少しだけ顔を向けて微笑むと、イリスの黄金の瞳が柔らかな光を帯びて細められた。
イリスの腕がわずかに引き絞られ、ルミアの身体がさらに深く彼女の胸元へと沈み込んだ。
すべてを終わらせてきた。
自分の価値を否定し、都合のいい道具として扱い続けた故郷と、かつての婚約者。
彼らに背を向けたとき、ルミアの胸には不思議なほど何の未練もわかなかった。
ただ、目の前で手を差し伸べてくれるこの人のそばで、自分自身の命を燃やして生きていきたいという確固たる意志だけがあった。
◆ ◆ ◆
やがて前方の雪山の合間に、白銀の城塞がその偉容を現した。
太陽の光を受けて輝くその城は、ルミアにとって本当の意味での帰るべき場所となっていた。
黒竜がゆっくりと高度を下げ、城の中庭へと音もなく舞い降りる。
着地のわずかな衝撃をイリスが抱き留めて逃がし、ルミアは安全に竜の背から降ろされた。
中庭には、近衛部隊の副官であるセリアをはじめ、多くの騎士や侍女たちが整列して二人を待ち受けていた。
「お帰りなさいませ、陛下。そしてルミア様」
セリアが代表して片膝をつき、澄んだ声で出迎える。
全員の顔に浮かんでいるのは、主君と彼女が愛する少女が無事に帰還したことへの心からの安堵だった。
ルミアは丁寧に頭を下げ、ありがとう、と小さな声で応えた。
イリスがルミアの肩を優しく抱き寄せ、並んで城の回廊へと歩みを進める。
重厚な扉が開き、暖炉の火が燃える温かな空気がルミアの頬を撫でた。
ただいま、と心の中でそっとつぶやく。
その日の夜、ルミアは自室ではなく、イリスの私室に招かれていた。
部屋の中央にある大きなソファに二人で並んで腰を下ろし、静かな時間を共有している。
テーブルの上には、ルミアが淹れた温かい紅茶が二つのカップから甘い湯気を立てていた。
窓の外はすでに深い夜の闇に包まれ、雪が音もなく降り続いている。
部屋を照らすのは、壁の魔石ランプの淡い光と、暖炉でパチパチとはぜる火の粉だけだった。
「ルミア」
沈黙を破ったのはイリスだった。
彼女は紅茶のカップを置き、ゆっくりとルミアの方へ身体を向ける。
漆黒の髪が肩から滑り落ち、灯りを受けて艶やかに光った。
ルミアもまたカップを置き、イリスの黄金の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「今日、お前があの男に背を向けたとき……私の心臓は、どうにかなってしまいそうだった」
イリスの指先が伸びてきて、ルミアの頬にそっと触れた。
火傷しそうなほどの熱が、肌を通じてルミアの胸の奥へと流れ込んでくる。
「お前が自らの意志で過去を断ち切り、私の手を取ってくれた。それがどれほど私を救ったか、お前には分からないだろう。私はずっと恐れていたのだ。無理にこの北の地へ連れてきたことで、お前が私を憎むのではないかと」
イリスの声は低く、かすかに震えていた。
大陸の覇者として君臨する氷の女帝が、たった一人の少女に嫌われることを恐れて震えている。
その不器用でひたむきな愛情が、ルミアの心を甘く締め付けた。
ルミアは頬に添えられたイリスの手に、自分の両手を重ねた。
「私があなたを憎むことなど、決してありません。あなたは冷たい雨の中から私を救い出し、名前を呼び、温かい食事を与え、そして……私が私であることを許してくれました」
ルミアの指が、イリスの長い指の間にゆっくりと滑り込み、深く絡み合う。
「私はもう、誰かの痛みを代わりに背負うための道具ではありません。私はルミアです。そして私の力も、私の命も、すべてはあなたと共に生きるためにあるのです」
言葉を重ねるごとに、ルミアの瞳からひとすじの涙がこぼれ落ちた。
それは悲しみでも怯えでもない。
胸の奥から湧き上がる、純粋で温かな感情の結晶だった。
イリスは小さく息を呑み、もう片方の手でルミアの涙を拭う。
彼女の黄金の瞳もまた、水面のように潤んでいた。
「私の光。私の命。お前を愛している。この身が灰になるまで、お前だけを愛し抜くと誓おう」
イリスの顔がゆっくりと近づいてくる。
ルミアは目を閉じ、その熱を受け入れた。
重なった唇から、互いの深い吐息が混ざり合う。
それは、痛みを伴う契約でも、主従の誓いでもない。
ただ互いを必要とし、互いの存在によって生かされている二つの魂が、永遠に結びついた瞬間だった。
暖炉の火が柔らかく揺れ、二人の影を壁に一つに溶け合わせていく。
長く冷たい夜を越え、ルミアはようやく、誰も奪うことのできない本当の明日を手に入れたのだった。




