第12話「過去への決別と差し出す手」
イリスの背中に守られるようにして立ち、ルミアは静かに深呼吸を繰り返した。
さきほどまで彼女を支配していた過去への恐怖は、イリスの放つ熱と魔力に守られ、すでに微塵も残っていない。
イリスの外套から漂う澄んだ雪の匂いが、ルミアの心を完全に落ち着かせていた。
「き、貴様……北の女帝だな」
氷の棘に周囲を囲まれ、身動きが取れなくなったレオンが、震える声で吠えた。
「俺は南の王太子だぞ。その女は我が国の罪人であり、俺が連れ帰る正当な権利がある。お前が勝手に横取りしたのだ。今すぐその女をこちらへ引き渡せ」
死の恐怖に直面しながらも、レオンは自分の立場だけを拠り所に虚勢を張り続ける。
イリスは冷たく見下し、ゆっくりと右手を持ち上げた。
彼女の指先に、濃密な魔力が凝縮されていく。
周囲の空気が軋みを上げ、レオンの顔色が絶望的な青白さに染まった。
「お前たちがルミアに何をしたか、私はすべて知っている。その薄汚い口で彼女の名を呼ぶことすら、私にとっては万死に値する大罪だ。生きて祖国の地を踏めると思うな」
イリスの指先から、絶対零度の冷気が放たれようとした。
このままでは、レオンもその従者たちも、一瞬にして永遠の氷像へと変えられてしまうだろう。
誰もが息を呑み、死の訪れを予感したそのときだった。
「イリス様」
ルミアの小さな手が、イリスの外套の裾をそっと引いた。
イリスの動きがピタリと止まり、彼女はわずかに振り向いてルミアを見る。
その瞳に宿っていた凄惨な殺意が、ルミアを見た瞬間に柔らかな戸惑いへと変わった。
「どうか、その御手を汚さないでください」
ルミアの声は澄み切り、かすかな震えすら帯びていなかった。
彼女はイリスの背後から静かに歩み出た。
イリスが心配そうに手を伸ばしかけたが、ルミアは微笑んで小さく首を横に振る。
ルミアは、へたり込むレオンの数歩手前で立ち止まり、彼を真っ直ぐに見下ろした。
「ル、ルミア……そうだ、お前が俺を助けろ。俺はお前の婚約者だ。お前は俺のために生きるのだ」
レオンはすがるような目でルミアを見上げる。
しかしルミアの目に映る彼は、もはや抗えない権力者でも、恐怖の対象でもなかった。
ただ自分の非を認められず、他人に責任を押し付けるだけの、小さく惨めな人間に過ぎない。
「私はもう、あなたの国には戻りません。あなたのために生きることも、誰かの身代わりになって痛みを背負うことも、すべて終わりにしました」
ルミアの言葉は静かだったが、その響きには決して揺らぐことのない強い意志が込められていた。
レオンの顔が怒りで赤黒く歪んだ。
「ばかなことを言うな。お前がいなければ、我が国は瘴気に飲まれて滅びるのだぞ。お前は聖女としての義務を放棄する気か」
「私が国を浄化していたこと、ご存知だったのですね」
ルミアの問いに、レオンは言葉を詰まらせた。
「でも、あなたは私に何も告げず、ただ無能だと罵り、雨の中で私を捨てました。その結果が今のあなたの国です。それは、あなたがご自身で背負うべき結果です。私には関係ありません」
かつてのルミアであれば、国が滅びると聞けば自己犠牲の精神で立ち上がっていたかもしれない。
だが今の彼女には、守るべき大切な人がいる。
自分を本当に必要とし、慈しんでくれる人のそばで、自分自身の命を大切に生きると決めたのだ。
「ルミア。俺を見捨てる気か。お前のような役立たずを、今まで養ってやってやった恩を忘れたのか」
見苦しく喚き散らすレオンに背を向け、ルミアは静かに立ち去ろうとした。
もう、彼にかける言葉は一文字たりとも残っていなかった。
ルミアが振り返ると、そこにはイリスが立っていた。
イリスの黄金の瞳には、ルミアの強さを讃えるような、深い愛情と安堵が満ちている。
イリスは革手袋を外した右手を、ルミアに向けて静かに差し出した。
「行こう、ルミア。私たちの家に」
ルミアはふわりと微笑み、イリスの差し出したその大きな手の中に、自分の手を重ねた。
イリスの指がルミアの指に絡みつき、決して離さないと誓うように強く握りしめられる。
その温もりが、ルミアの身体の隅々にまで幸福を運んでいく。
「はい、イリス様」
二人が歩み去ろうとする背後で、イリスが視線だけをレオンに向けた。
「その命だけは助けてやる。ルミアの慈悲に感謝することだ。だが、この北の地に二度と足を踏み入れることは許さない」
イリスの魔力が解放され、レオンと従者たちを凄まじい突風が吹き飛ばした。
彼らは国境線の外側まで無様に転がり、命からがら南へと逃げ帰っていくしかなかった。
彼らを待ち受けているのは、崩壊していく祖国での、絶望に満ちた未来だけだ。
ルミアはもう、振り返らない。
イリスと手を繋ぎ、白銀に輝く城への帰路を歩む。
空には雲ひとつなく、ルミアの心の中もまた、どこまでも澄み渡るような晴れやかな光に満ちていた。




