第11話「招かれざる影と氷の怒り」
空は抜けるように青く、冷たい風が雪原を撫でていく。
ルミアは帝国の国境近くにある城下町の広場に立ち、民草の様子を視察していた。
彼女の身を包むのは、イリスが特別に仕立てさせた最高級の白い防寒着だ。
ふかふかの銀狐の毛皮が首元を温め、足元は雪の冷たさを通さない柔らかな革の長靴で守られている。
「ルミア様、こちらへどうぞ。足元が滑りやすくなっております」
近衛部隊の副官であるセリアが、ルミアの少し前を歩きながら道を指し示す。
ルミアは微笑みながら頷き、慎重に雪道を進んだ。
広場には多くの民が集まり、ルミアの姿を見るなり深い敬礼を捧げている。
かつての彼女であれば、これほど多くの視線を浴びれば足がすくみ、息ができなくなっていたことだろう。
だが今は、彼らの目にあるのが純粋な敬意と親愛であることを知っている。
ルミアの心は穏やかで、春の日差しのように温かかった。
『イリス様は、今日の午後には政務を終えて合流してくださるはず』
ルミアはイリスと離れて過ごす数時間が、ひどく長く感じられるようになっていた。
イリスの大きな手、低い声、自分を見つめる黄金の瞳。
それらを思い出すだけで、胸の奥が甘く疼く。
そのときだった。
広場の入り口の方から、ひどく場違いな騒ぎ声が聞こえてきた。
セリアが鋭く反応し、剣の柄に手をかけてルミアの前に立ち塞がる。
数名の近衛騎士たちも一斉に陣形を組み、ルミアを守るように周囲を囲んだ。
「どけ。俺は南の王国の王太子だ。この国の客人に対して無礼であろう」
怒声とともに現れたのは、ひどく泥と雪にまみれた一団だった。
先頭を歩く男は、華やかな外套を着てはいるものの、あちこちが破れて薄汚れている。
青ざめた顔に無精髭を生やし、目は狂気じみた光を帯びていた。
ルミアの心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように大きく跳ねた。
あの声、あの歩き方。
忘れたくても忘れられない、過去の恐怖の象徴。
レオンだった。
「ルミア。そこにいるのだろう。探したぞ」
兵士たちの隙間からルミアの銀髪を見つけたレオンは、歓喜とも怒りともつかない表情を浮かべて大股で歩み寄ろうとする。
セリアが鋭い声で制止した。
「止まりなさい。ルミア様に気安く近づくことは許しません。それ以上踏み込めば、賊とみなして斬り捨てます」
セリアの抜いた剣の切っ先が、レオンの喉元に向けられる。
しかしレオンは傲慢な笑みを浮かべ、セリアの剣を鼻で笑った。
「下賎な騎士が、誰に向かって剣を向けている。俺はルミアの婚約者だ。その女は我が国の所有物であり、連れ戻す権利がある。さあルミア、こんな雪国はもうたくさんだ。さっさと帰るぞ。お前がいないせいで、我が国の領地が瘴気まみれなのだ。今すぐ戻って、すべて浄化しろ」
その言葉は、ルミアの背筋に氷の刃を滑らせた。
身体の奥底に眠っていた記憶が、生々しい痛みとなって蘇る。
薄暗い部屋、冷たい視線、身体を焼くような苦痛、そして『役立たず』という罵声。
ルミアの呼吸が浅くなり、視界の端が暗く明滅し始めた。
指先が震え、どうにか落ち着こうと自分の手を握りしめた。
『嫌……戻りたくない。あの暗闇には、もう……』
ルミアの怯えた様子を見て、レオンは自分が優位に立ったと勘違いした。
彼はセリアの剣を強引に払い除け、ルミアの腕を掴もうと手を伸ばす。
「さあ、来い。俺に逆らえばどうなるか、お前が一番よく分かっているはずだ」
レオンの汚れた手が、ルミアの白い袖に触れそうになったその瞬間。
空気が、文字通り凍りついた。
太陽の光が降り注いでいたはずの広場が、一瞬にして深い影に覆われる。
上空から、凄まじい風圧とともに漆黒の巨大な質量が舞い降りた。
黒竜の着地の衝撃で雪が爆発したように舞い上がり、レオンとその従者たちは悲鳴を上げて地面に転がった。
舞い散る雪煙の中から、一人の人影がゆっくりと歩み出る。
軍服の上に漆黒の外套を羽織り、夜の闇を溶かしたような黒髪を風に揺らす女帝。
イリスの黄金の瞳は、これまでにルミアが見たこともないほど冷酷な光を放っていた。
彼女が歩みを進めるごとに、足元の石畳から巨大な氷の棘が放射状に伸び、レオンの兵士たちの足を縫い留めていく。
「誰の所有物だと」
イリスの声は低く、静かだった。
だが、その声には空間そのものを引き裂きそうなほどの途方もない殺気が込められている。
レオンは尻餅をついたまま、恐怖で歯の根をガチガチと鳴らし、言葉を発することすらできない。
イリスはレオンを一瞥すらすることなく、ルミアの前に進み出た。
彼女の大きな手が、震えるルミアの肩を優しく包み込む。
その瞬間、ルミアの身体にまとわりついていた冷たい恐怖が、イリスの体温によって嘘のように溶け去っていった。
「遅くなってすまない。私の不在を狙って、薄汚い虫けらが這い出てくるとはな」
イリスはルミアを自分の背後に庇うように立ち、初めてレオンの方へと視線を向けた。
その瞳は、もはや生き物を見るものではなかった。
路傍の石を、あるいは踏み潰すべき不浄なものを見下ろす、底知れぬ零度の眼差しだった。




