廃管地下四階
また一つ地下に下りようと足を進める。《廃管地下四階》には、生ぬるい風が吹きこんでいた。
「おい、出口だ!」
ゼロもマリモもクロレラも、頬に風を感じた瞬間に足早に駆けだしていく。ネオンはそれを慌てて追いかけた。《廃管》の奥に、ほの暗い水辺が見える。どうやら最終階に到着したようだった。
「ああ、出口だよ、家に帰れる」
マリモの声に、ネオンは足を止めた。
家?
ネオンは急に市役所から来た男のことを思い出した。水玉模様のネクタイを締めた男だった。七三にわけた髪を微塵も乱れさせないその男は一人で現れた。「ではご同行願えますか」──「手ぶらでなくては」──「こんにちは。わたくし、シヤクショから参りました」、記憶を巻き戻して、何度再生をくりかえしても、そこで止まってしまう。
──シヤクショ……死役所?
その男は突然光と共に現れた。彼に会う前の景色を覚えていない。何も見えない。何も聞こえない。ただ暗く生暖かい場所だ。目を見開いて記憶をたぐりよせても暗い。記憶の中で耳を澄ましても音がない。これがマリモの言う楽園だというのだろうか。
ネオンの思考をさえぎるようにどぼん、と大きな音がした。クロレラが薄暗い水の中に飛びこみ、マリモが、ゼロが後を追う。
「待って!」
腕を前に伸ばしたところで、肩をつかまれた。
「出口へようこそ」
凛とした声にふりむくと、そこにはゴーグルを額に乗せた青年がいた。まるでカエルの目玉のように、二つのレンズは彼の頭上に乗っていた。
「お嬢さん、お名前は」
背筋がぴんと伸びたその男は、釣り竿を持っていた。
「ネオンです」
「いい名前ですね。でも、僕が聞きたいのはここでの名前ではなくて、本当の名前です」
ネオンは腕をだらりと下げた。
マリモなら赤沢絹子というだろう。クロレラなら、黒田聡と答えるだろうし、ゼロなら白井零侍と答えるだろう。どうして今まで気付かなかったのだろう? ネオンはようやく、己の名前がないことに気付いた。
「失礼、僕は青山六郎といいます。カエルと呼ばれています」
カエルは頭部に伸ばした指を当てた。敬礼されたのがわからずに、ネオンはただおろおろとした。その様子にふと苦い顔を見せて、カエルは水辺にそっと近付く。釣竿から糸を垂らして、水辺に投げこむ。青い縞模様の浮きがぽっかりと顔を出した。
「何をしているんですか」
ネオンの声に、カエルは「釣りです」と応えた。白いマフラーに顎をうずめて、ふうと息を吐きながら、カエルは動きを止めた。眠っているのかと思い、顔を覗きこむ。目は開いていた。呼吸のたびに肩を上下に小さく揺らしている。ときおりゆっくりとまばたきをし、また水面を見つめる。
「たまご」
ふとその言葉が浮かんで、ネオンはカエルの横に座りこんだ。
マリモ、ゼロ、クロレラ──すべて丸いものだ。ネオン管の中の電球だって丸い。
「私たちは、卵なのですね」
《廃管》の切れ目から黒い空が見えた。星の光を消してしまうほど強く光るのは赤色灯で、ネオンはクロレラを思い出しながら、口の中にないガムをくりかえし噛んだ。マリモの香水の匂いが鼻先をかすめて、ゼロの低い声が耳をくすぐった。彼らは外の世界に旅立った。カエルは何も答えずに、ただ、呼吸にあわせて釣竿を上下に動かしていた。
「カエルさんも、卵ですか?」
カエルは黙って首を横にふって、ネオンに右手を見せた。指と指のすきまには水かきがついていた。
「マリモの言った通り、私らは楽園から追放されたらしいですね」
視界を赤い光がかすめた。水の中で、魚の目が赤く光っている。
いずれ全てを忘れて水の中を泳ぐ日のことを思い、ネオンはカエルの次の言葉を待った。
「前世の記憶というのは困ったものです」
カエルはようやく重い口を開いて、頭をかいた。ゴーグルがほんの少しだけずれて、斜めになった。
「閻魔大王様は死に際の記憶を消されました。それは次の世に強い憎しみや恐怖を残さないためです。けれど、僕はどう死んだかを思い出してしまった」
特攻隊員だったのです、とカエルは白いマフラーに顎を隠したまま、ためいきをついた。
「釣りをしているうちに気付きました。以前と似たようなことをしていると」
静かに笑って、カエルは脚を投げだした。ブーツの底が水辺に触れて、水面に波紋を作った。
「蛙が釣りと笑う者もいるけれど、仲間を一人でも多く助けたいのです。きっとそれは、今も昔も変わらない」
魚を釣ったあと、カエルがどうなるかは訊かなかった。きっと本人もわかっているだろう。それを口にさせるのは酷だ。
ネオンは己の体をかき抱く。自らを包む薄い膜がうねったのがわかった。この膜を破れば、自分も水の中に旅立つことになる。
「私には記憶がありません」
「輪廻をたどってきた人は元の世界に戻ろうとして陸に上がる。けれど《廃管》以外の記憶のない者は、旅立つことができないのです」
水面に映った赤い光が波に揺られて歪んだ。体中に染み渡るような赤色は、母体にいる頃には見えなかったものだ。自然に順番が来て呼ばれ、あるいは無理に──ぎしぎしと母蛙の体をしめつけて、父蛙が卵を吐きださせて、それぞれの魂は《廃管》にたどりつく。
「遠くの街からこの池に届く光は、ネオンサインといいます。あなたと同じ名前です。管の中から動かずに、ただ光を放って朽ちてゆく」
淡々とした言葉が水面に広がって輪を作る。ネオンはただ他人事のようにその言葉を聞いた。カエルは哀れむでも悲しむでもなく、ただそこにあること自体に意味があるのだと言うように、釣竿を揺らした。
「ネオンサインへ向けて泳ぎなさい。そうすれば、あなたもきっと陸にもたどりつけるから」
「カエルさんは?」
カエルはただ「忘れないでいてください」とだけ言った。それが別れの言葉だと悟って、ネオンは腕を大きく伸ばす。膜が伸びて形を変えたのがわかった。
カエルの横を通り過ぎて、ネオンは水面へと向かう。カエルの釣り竿にぶらさがった青い縞模様の浮きをこえた頃、ネオンを覆う膜がはじけた。あっという間に浸水してくる。生ぬるい水が肌を粟立たせた。皆はもう、広い池の中を泳いで陸へと向かっているだろう。
ネオンが見上げた湖面は、静かに街の光を受けて輝いていた。
<おわり>




