#8 Mystic――禁断の森
"フリッグの座"にやって来たヴァイセは、既に下げられた左側のレバーに素早く目を走らせた。それから、まだ下がっていない中央と右のレバーを見つめて、深く息を吸い込んで肩があがるのを視野の端に捉えたあと、大きな溜息をついた。躊躇ってる場合じゃない。やってもやらなくてもいつか壊れるかもしれないんだったら、わたしはやる。それがきっと生きるってことなんだと思う。ごめんなさい、マザー! 薄闇のなかで、ヴァイセは両の掌が中央のレバーに触れている感触を確認すると、瞼を閉じて力一杯にレバーを押し下げた。
「やっちゃった……」
でも、とりあえずはなにも起こらないみたいね。いや、そんなことないか……。気のせいかもだけど、肩のボタンの光が強くなったみたいだけど……。あれ? レバーの上になにか書いてある。左から順に、ウルズ、ヴェルザンディ、スクルド……。そっか、そういうことだったんだ。レバーが邪魔で見えなかったけど、そういうことだったんだね。ヴァイセは浮き彫りになっている文字を、指で愛おしそうに撫でながら、マザーが優しげに時間について語っている声が、耳奥に蘇ってくるのをどうにもできなかった。……それで肩のボタンが輝き出したの? もう昔の母娘には戻れないんだね。なら、これ以上は必要ないかも。そうすればマザーも死なないですむだろうし。当面のエネルギーは確保できたって直観もある。よし、艦橋に行こう。
ああ、だけど身体がとっても怠いし頭が重い。それに意識も朦朧としてるみたい。やっぱりどのみち壊れちゃうのかな? でも行かなきゃ。なんだか世界がぼやけてるし、床と天井が入れ替わってるように見えるけど……。それどころか、両側の壁が捩れたり捻れて絡まりあってるんだけど……。いや、それどころじゃない。手が足のとこにあるし、肩から肘が生えてるみたいだし、膝の先に腕がある感じがする。それに、お腹の真ん中から突き出した首の先に頭があるみたいだけど、これどうなってるの?……。ああそうか、特異点に近づいてるからかな? 胃がむかむかするしお腹の内蔵がこんぐらがって、そのうえ目と耳と鼻、それに舌がぐるぐる追いかけっこしてるみたいだけど……。それに、感情がぐちゃぐちゃに混ざりあって、なにを感じてるのかもわからなくなってきた。わたしちゃんと艦橋に向かえてるのかな? お腹の底から笑いが込み上げてくるのに、背中が恐怖で引き攣ってる。かと思えば、どこだかわからないところが火傷しそうなほど熱い、というより激痛がするのに、また他のところは凍えて震えたり痙攣したり引き擽ってるよね? 吐き気がないのは助かるけど……わたし壊れちゃうの? ローテ、助けて!
ああ、やっと艦橋が見えてきたみたいだけど、窓の外もおかしなことになってる。宇宙が濃緑色の斑模様だよ。おどろおどろしくて不気味な暗い森みたい。それに、目がチカチカする。きっとこれは幻覚なのよ。濃緑色の宇宙と黒い宇宙が交互に瞬くように見えるんだけど、これはなに? あれ? 連星ブラックホールはどこ? あそこにあるのは黒いまん丸だけど? じゃあ「合」がはじまったのかな? そういうことなのかな?……。あれ? また宇宙が森に見えてきたけど、そんなことより航路の計算しなくっちゃ。それで、これが操縦装置の制御盤でいいのかしら? うーんと、1+1は……15でよかったわね。ええ? そんなわけないじゃない。なに言ってるのわたし? 頭が変になってる? でも、全然計算ができないみたいね。3+3はどう? うんと……3億3千万3千3百33.3333……かな? 馬鹿じゃないの! なによそれ。それじゃ永遠に計算が終わらないじゃない……。駄目だ。考えると気が狂いそうになるし、脳天から心臓が飛び出して、脳が胸のところでばくばくしてる。でも、なにか考えないで済む方法があるはずよ。だけどそうするとローテを助けられなくなっちゃう。いや、そうでもない? だって「合」が終わったなら、事象の地平線を超えてしまったものは、いつか必ず中心に集まるんじゃなくて? そうしたらまたローテに会えるんじゃない? でも、このままだとその前に気が狂うか壊れちゃう……。ああ、そうだ、いいこと思いついた。歌でも歌ってやり過ごせばいいんだ。
わたしの小鳥は 宇宙 赤く染め
お外は真っ暗 凍えて 恐い
――おい、止めろって! そんな下手な歌!
誰? 森のなかから声がしたみたいだけど……。
――儂か? 儂はドワーフじゃ。この森の住民だが、恐いって言い草はないだろう。儂らは善良な民なんじゃ。恐いのはお前らの方だろうが。儂らのことをチビだの、鼻がでかくて不細工だの髭面だの、とことん見下しおってからに。そんな風だから儂らは身を守るために、泣く泣くお前らに嫌がらせをせざるを得なくなってるだけだ。それなのに、小人は恩知らずだの驕慢だのと吹聴しおってからに。ちょっとそのことについて苦情を言いに来ただけじゃ。
変な人。わたし、小人を嫌ったことなんてないのに。まあいいや。
小鳩は小鳥 慰め
恐くはないよ ゆめ ジュネパース
ジュネパース ジュネパース
――恐くない、恐くないって言ってるのは、恐いからじゃないのかい?
あれ? また森から声がしたけど、誰?
――私らはハーフリングって種族でな。この森に住んでる。たまたま歌声が聞こえたから、覗いて見たらあんたがいたってわけだ。あんたらにとっては、私らはいてもいなくても変わらないんだろうけどな。恐い、恐い、恐いといいながら、自分を励ましてみたりする人間てのは変わってるな。まあその辺りは、小さくもなく大きくもない私らと、どこか似てるんだろうけど、あんたら人間はどっちかっていうと、どっちつかずが嫌いみたいだけどな。
この森、いろんな種族がいるみたいね。賑やかでいいね。まあいいや。
ジュネパース ジュネパース ジュネパース
お外は真っ白 温くて 優しい
ふくろう 小鳥 慰め
わたしの小鳥は 宇宙 白く染め
ふくろう 宇宙 慰め ゆね
――おっと、そこまでだよ。その先は歌っちゃいけない。
え、どうして? このあとが一番素敵なのに……。そこにいるのは誰?
――我らはエルフと呼ばれている。見たところ、君はエルフではないね。だからその先を歌ってはいけないんだ。それは、我らが種族にしか許されていないんだよ。だからって、君ら種族が歌自体を歌ってはいけないのではない。それはわかってるはずだ。君ら種族のなかに、とても稀だけど歌の極意を知っている者もいる。だけど、そういう人は自然と歌を口ずさんでしまうんだ。言っていることはわかるね? とにかく、それを伝えようと思って声をかけたんだ。
それはそれは、ご親切にありがとうございます。でも、そう言われちゃうと、極意っていうのが俄然気になってきちゃった……。あれ? でももう誰もいないや……。それに宇宙がまた変なことになってるみたいだけど……。




