#5 Neverland――境界
ヴァイセは艦橋に走り込むと、すぐさま操縦装置を前にして椅子に座り、ローテの姿を捉えているカメラ映像から、得られたデータを基に航路を計算して、自分でも驚くほど速く正確にキーを叩いて進路を指示した。よしこれでいい。そう思ったとき、床から這い上ってくる振動を感じた。マザーは邪魔できないと思いながら、脳裏では《イクテュエス・ジュゴン》の後部にある、七基のプラズマ推進機が真っ赤な炎を吹き出している光景を見ていた。疲れてしまったのだろうか? 絶望してしまったのだろうか? あるいは死んでしまったのか? ローテからの音声通信は途絶えたままだった。ヴァイセは張り裂けそうな胸で呻吟しつつ背中のびりびりを感じ取りながら、カメラの映像に目を注ぎつづけた。けれども、一向にローテとの距離が縮まっているようには見えない。きっと相対論的な時空間の歪みのせいだろうと、納得しようとするが、どうにも気が済まない。目の前に浮かび上がってくるのは、青褪めて窶れた頬を引き攣らせて、紫色になった唇を震わせながら、届かないと知ってもなお助けを呼び、見えないと知ってもなお情熱的な銀の瞳でヴァイセを探しながら、長い赤い髪を真空に漂わせているローテの姿だった。でもわたしには、ちゃんと聞こえるよ。聞こえるんだよ、ローテ。『お外は真っ暗で寒くてふわふわしてて、いまあたしブラックホールに飲み込まれてるんだよ。すごく恐いのわかってる?』ってちゃんと聞こえてるよ。だったらせめて……わたしも声を届けよう。そうだ、そうしようと思いついたヴァイセは、モニターの映像のなかの赤い髪をした人影と、さっき目の前に浮かんだローテを重ね合わせながら、歌い出した。
わたしの小鳥は 宇宙 赤く染め
お外は真っ暗 凍えて 恐い
小鳩は小鳥 慰め
恐くはないよ ゆめ ジュネパース
ジュネパース ジュネパース
ジュネパース ジュネパース ジュネパース
お外は真っ白 温くて 優しい
ふくろう 小鳥 慰め
わたしの小鳥は 宇宙 白く染め
ふくろう 宇宙 慰め ゆね
ヴァイスース ヴァイスース ヴァイスース
ごめんね、ローテ。いまわたしに出来ることはこれだけなの。だってそれに、言ってくれたんだもん。『いい歌声だったよ。久し振りに聞いた気がしたけど、そうでもない?』って。嬉しかった。とっても嬉しかった。いつでも歌ってあげるよ、わたし。でも、もう見えなくなっちゃった。とたんに目頭が熱くなり、涙に濡れるとなにもかもが溶けて無くなりそうな感覚に捕らわれたヴァイセは、必死に喪失の恐怖を追い払おうとした。真鍮色の艦橋の空中に金の涙でできた星々が、いくつも煌めくのが見えた。ああ、同じだ。ローテと一緒だ。色は違うけど涙が星になるのは変わらないんだね。大丈夫。まだ背中が感じてるから。わたし頑張るよローテ。強くなる。耐えてみる。でも、無理かもしれない。もうなにがなんだからわからなくなってきたよ。全身を這い上ってくる異様な倦怠感に苛まれながら、ヴァイセは人影の見えなくなったモニターに、ローテの面影を探しながら何度も何度も繰り返し歌った。声が出ているのか掠れてきたのかも曖昧模糊としてきたとき、黒い靄に包まれていくのを感じながら、意識が闇に飲み込まれていくのを微かに感じていた。
霞んだ宇宙に浮かぶ《イクテュエス・ジュゴン》が見える。ぼんやりした船体の半分は影に覆われ、半分は光に照らされている。あれ、おかしいな? 船の色が違う。でも形は同じだ。いくつかある艦橋やハッチの位置も同じだ。でもなにかが違う。なんだろう? ああ、色だ。船体は白だったはずなのに、この《イクテュエス・ジュゴン》は赤い。噴射されるプラズマの色は赤だったはずなのに、白い。
それになんだか、この《イクテュエス・ジュゴン》は大きくて綺麗な赤い花みたい。白いプラズマの噴射光は、まるでお花のまんなかにある柱頭が露に濡れてる真珠みたい。霞は晴れてきたけど辺りは真っ暗で、すぐそこに双子の黒いブラックホールがあるみたいだけど、なにかが違う。わたしの見知っているのとどこかが違う。わかった。ブラックホールは「合」を迎えてもうすぐひとつになるのよ、だから暗いのになんだか恐くないんだ。丸いってだけで安心感が湧くのかもしれない。でも、赤い宇宙船なんてこれまで一度も見たことない。だから、これはきっと夢なのよ。でも、さっきの船は全部が赤かったんじゃないかな? いや、半分は赤かったけど、もう半分は緑色だったんじゃない? ねえ、わたしとローテを繋いでたあの黄緑色の光みたいに。でも多分これは夢なのよ。でなかったらなんなの? 誰か教えてくれるといいんだけど、きっと誰も教えてくれないんだろうな……。
「なんだかわからない変な夢。それに、ここ狭くていや。魘されるのもいやなの……」
ヴァイセが目覚めたとき口にしたのは、これまで何度も唱えてきた呪文のように耳に響いて聞こえた。わたしいつのまに繭の中に入ったんだろう? だって艦橋で眠ってしまったはずなのに。それになんだか不思議なくらい落ち着いてる。もしかしてもう非常事態や緊急事態ではなくなったから、また汗をかいたりするの? とにかく起きないとと口の中で囁きながら、ヴァイセはカプセルの蓋を開いて半身を起こした。ご丁寧に肩のケーブルまで繋いでる。自分でやった記憶なんてないのに。習慣てやつなのかな? なんだか不気味。他の人がわたしの中に隠れ住んでるみたい。それに……背中のびりびりが少し弱くなってる。ローテとはもう会えないのかな? やっぱり死んじゃうのかな……。なのにどうしてわたし、ケーブルなんて繋いで寝てたの? なんだかすべてが混乱してる。少し冷静になれるといいんだけどと思いながら、ヴァイセは繭から出て、ゆっくりと"ノルンの座"から船内通路へと身体を運んでいった。
「何ひとつ変わってないのに、ローテだけがいない」
そう声に出して呟いたとき、ヴァイセは真鍮色の壁や天井が、微かに木霊を返してくるのを耳にしたことが虚しかった。だから、それっきり口を開く気になれないまま、目的もなく船内を彷徨い歩きはじめた。




