#4 Fear――命綱
あともう少しで艦橋だ。でも、起きがけで"ノルンの座"から全力疾走してきたのに、ちっとも息が切れないって変なの。汗ばんですらいないみたい。今はそんなこと気にしてる場合じゃないけど。よっし、もう着く、見えてきた。ローテのこと待たせちゃったかな? え、なに? この甲高い音は。艦橋へと続く扉のかなり手前で、ヴァイセは鼓膜を叩いてくる警報音をすぐに察知した。船外活動管制卓に取り付いたヴァイセは、警報を止めながら表示画面を凄まじい速さで左から右へと流れてゆく、マザーからの電文を目で追いながら、途中で思わず呟いた。嘘でしょ。じゃあすぐに船外活動を中止しないと。
「ローテ、聞こえる?」
「感度は良好。いつもどおりよく聞こえるよ。それにしても今回の船外活動って――」
「いまは無駄話はしてられないの」
「なに? 急に。もしかして機嫌でも悪いの? マザーと喧嘩でもした?」
「いいから黙って聞いて。船外活動は即時中止よ。わたしたち重力遠心力均衡点から少しズレた地点にいるらしいの。だから危ないから中止するの」
なんで? どうして? こんなに緊迫してて心臓がどきどきしてるのに、脂汗も冷汗も出ない。ヴァイセは自分に苛つきながらまくしたてるように先を続けようとした。
「えっ? だってあたしもう外に出てるんだけど」
「じゃあローテ、今すぐ船に戻って。出来る限り早く戻って。でないとブラックホールに飲み込まれちゃう」
なんだよ、ヴァイセ。物凄い迫力だな。あまりにもいつもと違って、なんだか怖い。心配してるんだろうけど……。
「わかった、すぐ戻る」
とはいえ、あたしは猫ひねりは苦手なんだってば。わわ、やばいやりすぎた。ちょっとこれはまずい。命綱が暴れはじめた。こうなると姿勢を保てないんだけど……。
「痛っ!」
「なに? どうしたのローテ?」
「いや、痛くはなかったんだ……。たださ、命綱がバイザーに当たって割れちゃった。でも苦しくないしあたし生きてるよ。そんなことってある !?」
恐い。あたし死ぬのかな? 普通なら数十秒もしないで血が沸騰しはじめるはずだけど。でも、なんともないみたい……。ていうか本当にまずい。引力のせいなのかな? 命綱がまったく制御できない。このままじゃ……。
「ヴァイセ、恐いよ。あたし死んじゃうかも……助けて!」
「ローテ、落ち着いて。あなたは船外活動のプロでしょ!」
「そんなこと言われても、テザーが暴れてどうにもならないんだってば。だからって切り離すわけにもいかないのよ。それに背中に手を回せない……うわ、また当たっちゃう……。ヴァイセ大変なことになった」
「なに? どうしたの?」
「メットが真っ二つに割れちゃった。それにこのままだと、いつかテザーが切れちゃう」
「どこにいるのよローテ。見えないのよあなたが。どこもかしこも真っ黒でなにも見えないの。それに、そもそもここから"スカイア"は見えないのよ」
そうだ、カメラだ。ヴァイセは管制卓の上でほとんど無意識に両手を素早く動かしながら、ローテを映像に捉えようとした。
「ねえ、ライトも壊れちゃったからなにも見えない。真っ暗で船の方向すらわからないんだ。どうすればいい? 指示を出してよ」
「待って、今なんとかするから」
でも、そんな自信あるわけない。駄目だ、もう涙で前が見えない。ああ、でも見えた。だって赤い髪がひらひらしてるのがはっきり見えるんだもん。それに銀の涙が星みたいにたくさん光ってる。ここだよ、助けて。ここだよ、助けて。ねえ助けてよって。あたしを見捨てないで。ちゃんと言われたことなかったけど、愛してるって言ってる。わたしだって同じだよローテ。大好きなのになんにも出来ないで泣いてるだけ。ああ、切れちゃう。テザーが切れちゃうのがわかる。
「もう駄目みたい。さっきテザーが太腿に当たって宇宙服が破けた……。なのに、なんであたし生きてるの? ヴァイセのことも、背中の羽でちゃんと感じられてる……」
「ローテ! 諦めちゃだめ。なんとかするから……」
ああもう、なんて嫌な嘘をついたんだろう。艦橋から一歩も動けない臆病者の癖に。一度だって船外活動の経験さえないのに、どうやって助けるっていうの。
ああ……切れちゃう……。二人は命綱が切れる感触をどこかで感じ取りあっていた。
「ヴァイセ、助けて!」
「今行くわ、ローテ!」
だんだん小さくなっていく姿をカメラ越しに見てるだけしかできないなんて……。いっそのこと宇宙服に着替えてわたしも船を飛び出すほうがいいのかな?……。でも待って。ならこの船で行けばいいんじゃない? そうだ、その手があった。でも、その為にはマザーを説得しないと……。一か八かよと脳裏で自分に言い聞かせたヴァイセは艦橋を駆け出し、"ノルンの座"を目指して全力疾走しはじめた。でも、きっとマザーは受け入れない。拒否する。だったらどうするの? そうね、それならそれで手はあるわ。やれるだけのことをやるだけよ。もう着いたわ。一体百メートルを何秒で走ったんだろう。驚くような速さだったことは間違いない。まったく乱れていない呼吸にはもう違和感すらない。でも、その理由くらいは知りたい気もするけど、それどころじゃない……。
「ねえマザー、相談があるんだけど。ローテがブラックホールに飲み込まれたの。だから、この船で救出に行きたいんだけど、許可をくれない?」
「……」
「どうして黙ってるの? なにもかもがおかしいの、もう気づいたよ。ねえマザー、わたしたち何者なの? 生きてるの? 人間なの? それとも他のなにかなの? 答えてよ」
「……」
「なぜわたし、全力疾走しても汗ひとつかかないの? なぜ息切れしないの? なぜローテは宇宙服の腿の部分が破れても、ヘルメットが割れても生きてるの?」
「非常事態や緊急事態のとき、あなたがたの能力は制限を受けなくなります」
「じゃあどうして普段は汗をかいたり息切れするの?」
「普段は、能力を制限しているからです」
「それで、ローテを助けるのに、船をブラックホールに向けてくれるの?」
「……」
「答えてよマザー」
「……」
「どうして答えないの?」
「……」
「都合が悪くなると喋らなくなるなんて狡いわ。もういい。だったらわたしたちなりのやり方をするから」
そうよ、もうなにがなんだからわからなくなってるけど、ローテがいなければ生きていけないのは確実なんだから。マザーなんていなくったってなんとかする。この奥にある"フリッグの座"は、恐らく"マザーウルズ"の制御室よ。わたしもうわかるんだから、どうすればいいか。口から呟きを溢しながら、膝を着かなければ進めない狭い通路を、禁断の間を目指して奥へ奥へと這い進んでいった先で、ヴァイセは行き止まりにぶつかった。ここよ、間違いない。それで、三つあるレバーのどれを下げればいいの? 左? 右? 真ん中? それとも全部? わかるわ、わたしにはわかるの。これよ! と声を立てながら、ヴァイセは目を閉じて手に触れたレバーを押しさげた。すると、いままで"ノルンの座"から微かに流れ込んでいた光が翳った気がした。しかし、非常灯が点いたのか、しばらくするとまた微かな光が戻ってきた。
「ひとまずこれでなんとかなるはず。つぎは艦橋にいって操船しなきゃ」
もうなにも恐くないし苦しくもない。いつまでだっていくらだって走れるし、寝ないでいることだってきっとできる。そう自分に言い聞かせたヴァイセは、狭い通路を這い進んで薄闇から抜け出すと、すぐに立ちあがって艦橋へとひた走りに走った。ローテ、ちゃんと感じ取れてるよ。背中がびりびりしてるのがわかるよ。これがなくならない限り、わたしたちきっと大丈夫。待ってて、必ず助けるから。




