#2 yumeyune――ゆめゆね
触れた途端に、ひんやりした冷たさが流れ込んできたヘルメットを両手で外し、二本一組で腰に装着された命綱を右手で外し、さらに左手で二本一組の命綱を外して自由になったローテは呟いた。
「この感覚、何回経験してもたまらないね。危険から解放された安堵っていうのかな」
さあて、待ち人は来てるのかな? これまで一度だっていなかったことなんてないとローテは思ったが、湧き上がる喜びと微かな不安を胸に抱きながら、薄暗い気密区画から先へと足を踏み出した。真鍮色の床と壁と天井に一瞬目がくらんだが、彼女はその光彩の向こうに、膨らみ袖から伸びた袖口のフリルを揺らして近づいてくる、純白姿のヴァイセを見つけた。あたしも人のこといえないけど、わかりやすい外見だよね。白とか銀じゃないのは金の瞳だけ。でも、それが魅惑的なんだ。あたしらの共通点といえば、両肩にある発光する小さなLEDボタンだけ。蛍みたいにちかちか黄緑色に光って、ほらここに居ますよって教えてるみたいな。もっともこの黒い宇宙服を着てるとちょっと不気味なコントラストだけど、それは仕方ない。
「おかえりローテ。無事で良かった!」
心のどこかで心配してたんだろうけど、会ってみるとそっけないんだよね。ローテはお互いの内心を探ったあと言った。
「お外は真っ暗で寒くてふわふわしてて、油断するといまにもブラックホールに飲み込まれちゃうんだよ。すごく恐かったのわかってる?」
ヴァイセはきゅっと心臓が縮こまるのを感じた。
「心配してたに決まってるじゃない! どうしてそんな意地悪いうの? ローテが船外活動に出る度にわたしだって死にそうな思いしてるのに。顔に出さないだけだよ……」
「だからいつもいってるじゃん。その背中の羽はお飾りなの? それで感じ取れるでしょ? 飛べないって意味ではお飾りだけど」
「生体信号受信機ね」
「そう、ちょっと後ろを向いてみて」
純白の服の背中にある小さな透明な羽をじっと見つめてから、ローテはゆっくりと手を伸ばして触れた。
「うわっ、びりびりする! やめてよ! 刺激が強すぎて死んじゃう!」
ヴァイセは、白い服に施された銀の装飾が放った光に照らされた頬を引き攣らせて、思わず悲鳴をあげた。
「あたしの生体信号が感じられたみたいだね」
「なにニヤニヤしてるの……。ちょっとローテ、後ろを向いてみて」
おかえししてあげるわ……。
本当にお馬鹿さんなんだから。あたしが宇宙服着てるって気づいてないのかな?
「狡い……」
「んじゃ、いつものとおりにしよっか。さあ行こう」
全身白ずくめヴァイセは右手で、黒ずくめのローテは左手で、互いが繋がっている微熱を感じながら、両肩にあるLEDボタンの微弱な光で互いの感情を読みとりつつ、言葉を交わしながら、《イクテュエス・ジュゴン》の中枢人工知能がある、"ノルンの座"に向かって真鍮色の船内通路を歩いていった。
あーあ、この観測任務はふたつのブラックホールに「合」が起こるまで終わらないっていう話だから、当分こういう不安と緊張がつづくのね。でも、ローテと一緒にいられるのは嬉しい。わたし、どっちを望んでいるんだろう? ときどきわからなくなる。いや、よくわかってないのかもしれない。でも、一緒にいられればそれでいい。それだけは確か。それにしても黒い宇宙服はやっぱり嫌だな。でも、それもあと少しの辛抱。
「じゃ、ヴァイセ、ちょっといってくるね。船は問題なし。航路のほうはあなたの担当だけど、そっちに異常がないならそう報告に時間はかからないと思うよ」
「航路は異常なしだよ。だからここで待ってる」
「うん、わかった」
ローテは黒い宇宙服のまま、真鍮色の床に設置された繭のようなカプセルに身を横たえ、操作盤に触れて蓋を閉めはじめた。
さてわたしは……座って待つとしますか。完璧に出来たといえる航路チェックの苦労を思い出しながら、ヴァイセは蓋が閉じてしまったカプセルの横に置かれた、もうひとつの繭に視線を落としてから、その縁に腰掛けた。どこかに冷たい感触があった。
「じゃあ、わたしもいつもどおりということで……」
深い呼吸で上下している胸と肩を目の端に捉えてから、彼女は歌いはじめた。
わたしの小鳥は 宇宙 赤く染め
お外は真っ暗 凍えて 恐い
小鳩は小鳥 慰め
恐くはないよ ゆめ ジュネパース
ジュネパース ジュネパース
そのとき、ヴァイセは突然の寒気に肌が粟立つのに気づき、不透明だった繭の蓋が透けて、黒い靄が膨らんでいくのを目にした。しかし、唇はそれとは関係なく知りもしない歌詞を紡ぎつづけた。
ジュネパース ジュネパース ジュネパース
お外は真っ白 温くて 優しい
ふくろう 小鳥 慰め
わたしの小鳥は 宇宙 白く染め
ふくろう 宇宙 慰め ゆね
ヴァイスース ヴァイスース ヴァイスース
ローテは? あ、終わったみたい。ちょうどよかった? ヴァイセはまだ居座る夢幻の淡い霧に包まれたまま、カプセルの蓋が開くのをぼんやり見つめていた。
「いつものローテだ」
「いい歌声だったよ。久し振りに聞いた気がしたけど、そうでもない?」
「ほんと? よくわからない」
ヴァイセが目の前に見たのは、全身赤ずくめの服装で長い赤銅色の髪を波打たせ、銀の瞳で見つめ返してくる情熱だった。ローテがカプセルのなかで上体を起こすと、背中にある小さな透明の羽がちらりと見えた。
「嬉しい!」
「ちょっとちょっと……羽には触らないでよ! 死ぬほどびりびりくるんだから」
というか今日はいつもより……。どうしたんだろう、ヴァイセ? 確かにあたしも黒い宇宙服はあんまり好きじゃないけど、そんなに喜ぶこと? 変なの。
「とにかく報告は無事に済んでなにひとつ問題はなし。となるとまた暇になるけど、どうする?」
「しかたないよね。横になって時間を潰すのが一番なのはわかってるけど、なんだか気が進まない」
白い膨らみ袖の両肩と赤い膨らみ袖の両肩にある、黄緑色のLEDボタンが二人の感情のように柔らかな光を漏らすのに、ヴァイセは慰めを感じていた。わたしたちの唯一の共通点。儚くひ弱な篝火。そしてわたしたちが眠ってるあいだもわたしたちを繋いでいる光。
「どうしたの? 肩なんか見て? なにか気になるの?」
「ううん、なんでもない」
ヴァイセは慌てて首を振ったあと言った。
「やっぱり寝るのが一番みたいね。なにか異常があればマザーが起こしてくれるし。わたしたちも心身を消耗しないでいられるから。それに先は長いみたいだし」
「そうね。なにか他にやることでもあればいいんだけど。例えばさっきみたいな歌をつくるとか」
といってもあたしは駄目だな。ヴァイセみたいに歌えないから。身長も体重も体型も、顔立ちだってそっくりで、違うのは髪の色と長さと瞳の色だけ、性格はだいぶ違うけど……。
「いずれにしても、あたしには無理。だから、寝てる間に無意識であっても歌が聞けるのは幸せかもしれない」
そうなのかな? だってそれって聞いてても聞いてないようなものじゃない? けど、ローテがそういうなら、それでいいんだけど。
「じゃあ、またいつもどおり、準備をしますか」
「そうね。なんだかんだいって、いつもどおりがきっと一番いいんだよ」
満面の笑みをローテに返したヴァイセは、自分の繭の向きを睡眠位置に移動させようと、操作盤に指先を運びはじめた。頭を向けあうのがやっぱり一番いいのかな? いままでいろいろ試してきたけど、どうもそれがいいらしい。ケーブルでマザーを介して両肩のボタンを繋ぐのにも便利だし。そう思いつつ、あるいは思わずに、二人は互いの両肩にあるボタンにある差込口にケーブルを繋いだ。
「じゃあ、次の船外活動地点のL4まで、おやすみだね」
「そういうことだね」
「ねえ?」
「ん?」
ああもうじれったい。ヴァイセったらわかってるくせに、こういうときだけ純情ぶって。
わあ、ちょっと……眠るまえにそんなことしたら寝付けなくなるじゃない! って言ってみても……わたしだって……。
二人はしばらく唇に熱を感じたままじっとしていた。
ねえ? どうして泣いてるの? そうだ、ヴァイセの涙はヘリオドールみたいな金色だ。しばらく見てなかったから忘れてた。静かで冷たそうで白雪みたいなのにとっても温かい。でもどうして泣いてるの? 駄目だ……釣られて涙が出そう。でも悲しいんじゃない。きっと波長かなにかね……。
なんでよ、ローテ? 紅薔薇みたいでちょっぴり棘々しいくせに、どうしてそんなに醒めて澄んだ銀色の涙を流すの? ムーンストーンが震えてるみたい。もしかして傷つけたかな? そんなわけないはず……。
二人は指先に熱を感じ、それが治まったあと呟きあった。
「……それじゃあ、おやすみ」
「またね……ハニー」
似通った声が重なりあい絡まって解けていくのを耳にしながら、ヴァイセとローテは繭の蓋が閉まっていくのを見つめていた。




