#1 Inside Out――内から外へ
おびただしい星々が煌めくことのない漆黒の宇宙。
瞬く燭光ひとつない黒い楕円形はもう見慣れていたが、ヴァイセは胸の奥で疼きを感じていた。巨大な黒い星に吸い込まれたら終わり。双子のブラックホールの近傍にあって、安全なのは重力遠心力均衡点だけ。宇宙船 《イクテュエス・ジュゴン》は、ふたつの黒い星が作り出す地点に留まりながら、真空の闇を漂っている。五つあるうちのひとつ、L5は比較的安定しているが、危険なことに変わりはない。少しでも航路を外して事象の地平線を超えてしまえば、その先でなにが起こるかはわからない。吸い込まれた後にどうなるのかもわからない。ヴァイセは疼きが恐怖なのだと気づいて身震いした。
ブラックホールに飲み込まれた観測船はいくつもあったが、それらから漏れ伝わってきた正規の報告などひとつもない。あったとしても、幻覚症患者の妄言に似た話が、千々に思い出されるだけだった。
「それにしても、どうして船外活動のときの宇宙服は黒なのかしら? どこにいるのか見えなくて困るのよ」
大きな丸い舷窓越しに、あちらこちらへと視線を走らせても、艶のない黒い天鵞絨が広がっているだけだった。
「だけど、このときだけが楽しい時間なんだよね」
耳小骨を伝わった呟き声に被さるように、ローテの声が割り込んできた。
「すべて順調よ。船は何ひとつ問題なし。これからそっちに戻るけどそれでいいわね?」
どこ? どこにいるの? 目を皿のように見開いてもなにも見えない。でも、この声がローテなのは間違いない。確かなこと。いつものことだけど不思議と胸が高鳴る。船内にいるときは心と身体を守るために、カプセルで横になっているばかり。それと比較すると船外活動のときは、お喋りができるから嬉しいのかな?
「ねえローテ。もう少しなにか話さない?」
「それはいいけど、ハッチはすぐそこだから、そんなに長くは無理じゃない? わたしも話したい気分なんだけど」
「じゃあ、収容ハッチを変えるってのはどうかな? いつもは"サリルス"だけど、"カルデア"にとか」
「わかったわ。大した手間じゃないから、構わないよ。それにしても"ヤヌス"はいつまで開かずの扉なんだろうね。一度だって使用許可が出たことがないってのは、この船の不思議のひとつだね」
ローテはいつだって優しい。危険な作業を買って出てくれる気丈夫で、本当に頼りになる。でも、話しながら出迎えに行くのはありかな? だって早く会いたい。ヴァイセは艦橋の椅子の感触から離れて、壁面と一体化したような真鍮色の扉に目を向けて歩きだした。膝をすっぽり覆って腿のまんなかまである純白のロングブーツの踵が、真鍮色の床を叩く音が妙に心地いい。船内の空気が末広がりになった白銀のショートボブの髪を揺らして、頬に擦れてくすぐったい。こそばゆい。生きている感覚。でも、ちょっと狡いかも。だっていまローテは真空の宇宙でなんの手応えもないまま、頼りない命綱だけで少しでも均衡が崩れたらブラックホールに吸い込まれてしまう恐怖と戦いながら、こっちに向かっている。多分、わたしの息遣いさえ聞こえてないだろ。わたしって我儘すぎる? でも、ローテも話したい気分だっていってた。踊るような歩調のせいか、腰や胸と一体化しているように張り付いている純白の服の背中にある、蜻蛉のように透明で小さな羽が揺れるのを感じる。あなたも喜んでいるの? きっとそうね。だって背中がびりびりしてる。いけない。話したいっていったのに……。
「ねえローテ、移動のほうはどう?」
「順調だよ。さっき四本ある命綱が絡まりかけて冷やひやしたけどね。つまり、すぐにハッチに着いちゃうってことだね」
なんだかやるせない。ローテは感覚のない暗闇のなかでヴァイセの声のありかを探るように、身体をくねらせながら思った。規則は破るためにあるって言葉があるけど、そうもいかない。もっとも船に戻っても幾分か時間はあるんだけど、あたしなにを焦ってるんだろ。まあいい、どっちにしても帰らないことにははじまらない。しっかしヘルメットにあるライトの及ぶ範囲しか見えないってのは……。
「痛っ!」
「なに? どうしたのローテ?」
「いや、ちょっと船体にぶつかっただけ。心配いらないよ。なにしろこの宇宙服は恐ろしく強靭で頑丈だからね」
ヴァイセは突然、舷窓の向こうでぽつりとひとつ光っている星に目を奪われた。ブラックホールが近いからか、久し振りに見た瞬く煌めきは、まるでなにかを口ずさんでいるように見えた。あれって、はと座のμだっけ?
「でも、感覚があるって素敵じゃない?」
突き当たりにある真鍮色の扉は、その先が気密室だと知らせているように、ヴァイセには輝いて見えた。
「なにそれ? 痣をつくるのはあたしだけどね」
「そういう意味じゃないよ。でも内緒」
「内緒ねえ」
まったく呑気なんだからヴァイセは。でも、それがいいところ。さあ、あと少しだ。でも猫ひねりは苦手なんだよと、ローテは胸のうちで呟きながら収容ハッチの"カルデア"に取りつきはじめた。
「もうすぐ着くよ。さん、にい、いち、はいっと!」
《イクテュエス・ジュゴン》の外板を踵で捉えたローテは、黒い宇宙服の指先でハッチの脇にある計器盤を手際よく操作して、開いた扉の先へ進むと、船内でまた計器盤のボタンに指を走らせてハッチを閉じた。
「ふーっ、これでひと息つける」
ローテは耳に強く響いた独り言から、空気に包まれているのを実感していた。




