#11 Eternity――回帰
光も音も消え去りかけている漆黒のなかで全力疾走しながら、ヴァイセは手に持っているライトの頼りなさに苛立った。光条の先にできる丸く切り抜かれた、ぼやけた真鍮色の通路が、上下左右に激しく揺れるのを必死に安定させようとしたが、どうにもならない。なんとかかんとか行く先を捉えてはいたが、それも時間の問題に思えてきた。ライトの光量が少しずつ翳っていくのに気づいたヴァイセは、口から怒りを迸らせた。だが、その幽霊じみた仄かな声は恨みの吐息のようだった。悪罵は籠もって遠くから微かに迫ってくるようでもあり、耳元で妖魔が大声をあげているようでもあった。確かなのは、靡く髪が頬を擦り、足の裏が床を蹴って、全身が突き上げられたり、投げ落とされる感覚だけだ。もうライトなんて無益だと思ったヴァイセは、何度か行き来した、"ヤヌス"と艦橋を繋ぐ通路の朧気な地図を脳内に描きながら、ひた走った。お願い、間にあって! ローテの傍で死なせて。それを叶えてくれるなら、もうなにも望まないから。そうじゃなかったらローテと一緒に天国に行くのでもいい。もう贅沢はいわない。だって、背中のびりびりもまた弱くって、消えそうなんだもん。それに手足の感覚もなくなってきてる。これがマザーが言ってた行き倒れってやつなの? ねえ、今そんなことどうして考えついたの? わたしおかしくなってる。じゃあ狂い死ぬの? それとも通路を曲がりきれなくて激突して、身も心もばらばらになって壊れちゃうの? でも、あともう少しなんだよ。この先を右に曲がって、その先をもう一回右に曲がって、その先をもう一回右に曲がって、目の前の扉を開ければ、そこにローテがいるの。ねえ、どうして通路をまっすぐにしてくれなかったの。ああ、ライトの命が尽きた。わたしの命の光ももうすぐ消えそう……。扉が見えるけど、あれはなんの扉? 真っ黒に濃紺の飾りなんか入れてるけど、悪趣味すぎるよ。きっと地獄の扉ってあんなのなんだろうね。でもいい、地獄でもいい。ローテと一緒ならそこが天国だから。わたし、迷わず開けるよ。この先でなにが起こっても平気。だってもう十分すぎるほど恐い思いしたもん。ローテはどこ? どこよ? ああそうだ、まだロボットアームに掴まれたままだった。肩のボタンさん、消えないでね。もう少しだけ待ってね。自らが放つ朧気な黄緑色の光と無音の世界で、ヴァイセはロボット・アームの操作盤へと辿り着くと、傍に置かれていた救急カートの上に黒い宇宙服姿のローテを横たえさせた。二人の肩にある四つのボタンだけが弱々しく微光を放っていた。
「ローテおかえり。そして、ただいま。これでいつまでも一緒にいられるよ。ごめんね、いつまでも待たせて」
ヴァイセが口にした声は、もはや彼女自身の耳にさえ届いていなかった。周囲からの音と四つの蛍火と、互いが背中で感じ合っていたびりびりが、ほとんど同時に消えてゆくのを感じながら、ヴァイセはローテの荒れて乾ききり罅割れた唇に、息絶え絶えの自分の唇をそっと重ねた……。
真の闇と無音――。ほんの微かに唇を揺れ昇ってくる微熱。柔らかい頬の手触り。絡み合う髪と髪の擽ったさ。幽微に染み込んでくる背中の痺れ。見つめ合う金と銀の瞳が照り返しあう光――。あれ? 天国も地獄も現実と変わらないの? わたしたち死んだんでしょ? でもさっきと変わらないような……。
「ローテ、ここどこ?」
…………。
「ふうん。あのね、わたしもどこだかわからないけど、まあいいかって思う。ローテは?」
…………。
「ああ、ごめんごめん。長いこと暗くてふわふわして寒いとこにいたのに、わたし気がきかないね。すぐに温かいところに連れていくね。もういいよ。無理して目を開けていないで。少しゆっくり眠るといい。そうしたらまた元気になれるから」
ローテの肩を両手で抱いていたヴァイセは、黒い宇宙服の胸が僅かに上下するのを目に留めてもう一度キスすると、立ちあがって救急カートの把手を掴んで歩きはじめた。ここがどこだって構わない。見知ったところみたいだから、見知ったままにするだけと呟いたヴァイセは、その声が自分の耳に聞こえてきたのに気づいた。結局、天国も地獄も現実も変わらないってことなのね。なんだか損した気分。死んだあとのこと、美化しすぎちゃったみたい。そういえばローテもマザーも言ってたっけ。『空想家すぎるところがあるから、気をつけないと』って。ふふーんだ。いいんだってば。わたしはローテさえいればそれでいいんだから。あ、でも今のこの状態だと、マザーの助けが必要だ。結局、わたしたちは死んでもまだ母娘なんだろうね。ヴァイセは耳に心地よく響く救急カートが立てる車輪の音を聞きながら、来たときに見た光景とは逆の左へ左へ、さらに左へと螺旋を描くように通路を降り下って、その先にあると思える"ノルンの座"を目指しはじめた。
「あらら、この先はご遠慮くださいだ。そういえばそうだった。来るときは必死だったから、気づきもしなかったけど、ここは走り抜けの難所だったっけ」
直角に折れ曲がった通路が救急カートの行方を遮っているのに気づいたヴァイセは、躊躇うことなくローテを両腕で胸に抱きかかえて、先へ先へと進みはじめた。あれ? ローテの肩のボタンが強く光ってる。わたしのもだ。それに、周りが明るくなってきたみたいだし、背中がびりびりしだした。変なの。人騒がせね。生だの死だの、天国だの地獄だの、みーんな現実にあるだけじゃない。わたしなにを恐れていたんだろう。わかってみれば馬鹿みたい。
「ね、ローテ」
わたしちゃんと両腕で感じてるよ。思ってたよりずっと軽いけど、満足感はとっても重いの。うんとね、責任感ていうらしい。マザーが言ってた。でも、『その重さに耐えて持ち上げたときの爽快感は素晴らしいよ』だったかな。ローテ、もう少し待ってね。"ノルンの座"まではあとちょっとだから。ほらもう見えてきた。あそこがわたしたちの食堂兼居間と寝室で、生まれたところでもあるのよ。そうだ、ローテはまだ知らなかったかな? わたしたちがあそこで生まれたって。本当だよ、嘘じゃないよ。だからね、最後はそこへと還るんだよ。あれ? 空想しすぎかな? うふふ、いいのいいの。もう着いちゃうから、これ以上お伽噺はしないから安心して。
「マザー、ただいま。そして、おかえり、娘たち。あのね、ローテが弱ってるから面倒を看てあげて。わたしじゃ力不足なんだ」
独り言を口にしながら、ヴァイセは繭の揺り篭に黒い宇宙服姿のローテを横たえると、カプセル調整器の操作盤にあるキーを指先で叩いて、ローテに必要であろう処置のプログラムを入力した。
「ああ、そうだ。わたしが設計した時計の組み込みもしておこうかな。それと、"フリッグの座"の封印と解除用の錠前と鍵も作っておこう」
よし、これでいい。あとは、いつもどおりローテの両肩とわたしの両肩を、マザーを介して繋ぐだけでいい。でも、マザーが映ってたモニターが消えてるけど、大丈夫かな?
「ねえ、マザー。怒ってるの? それとも無視してるの? わかった、わたしに愛想を尽かしたんでしょ?」
「……」
まさか、死んじゃったんじゃないよね? いや、そんなことないでしょ。だって世界には現実しかないんだから、死んだふりしてるだけでしょ。まあいいや。気にしても仕方ない。あれ? でも話しかけたらモニターの電源が入ったみたいだけど。なにか言いたいことでもあるのかな? ん? なにか映し出そうとしてるの? なにかのメッセージ? 違う。これは艦橋の主モニターと同期してる映像でしょ。だって、そう表示されてるもん。でもだからどうしたの? 宇宙に咲く赤い柱頭をした白い大きなハイビスカスの花がどうだっていうの? もう驚かないってば、そういうのを見ても。でも綺麗だね。真ん中にある星みたいに光ってるのは、露に濡れて煌めいている珊瑚みたい。ずっと見ていたい気もするけど、もうわたしもさすがに限界。頭が朦朧として身体も重くて鉛みたいなんだよ。だからまた後でね。ふらふらしながら、ヴァイセはローテの両肩にケーブルを繋いで、自分もまた繭に入ると横になって両肩にケーブルを繋いで、繭の蓋を閉じた。




