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第六章 ~『大結界の奇跡』~


 アリアは祭壇へ近づくと、砕けた聖石の前に膝をついた。大結界は消え去り、観衆が混乱に包まれる中、アリアだけは冷静なまま聖石へ両手をかざす。


「私なら壊れた物体も治せます」


 指先から淡い光があふれ、石床に散った破片へ吸い込まれていく。


 アリアの魔力に触れた破片は、震えながら互いに引き寄せられていく。欠片が光の中で浮き上がり、砕けたはずの聖石は少しずつ元の球形を取り戻していった。


「聖石が元に戻っている!」

「これが聖女候補の力なのか……」

「なら、大結界も……」


 民衆の間に、かすかな希望が広がる。


 貴族たちも身を乗り出し、神官たちは祈るように聖石を見つめた。誰もが、聖石さえ戻れば大結界も元に戻るのだと信じていた。


 だが上空に変化はない。


 拳ほどの大きさをした聖石は、元の形を取り戻している。表面に傷はなく、割れた跡もない。だが、空を覆っていた大結界の光は、戻らなかった。


「聖石は直ったはずなのに……」

「なぜ大結界が戻らないんだ!」


 ざわめきが広がる中、レナードが祭壇へ駆け寄り、聖石を見つめた。


「もしかしたら、これは……」

「原因が分かるのですか?」

「君のおかげで聖石そのものは修復された。けれど、壊された瞬間に、その中に留められていた魔力が霧散してしまったんだ」


 その言葉で、アリアも理解する。


 聖石は、王国全土を覆う大結界を支えてきた器である。だが、器を直せても、壊された瞬間に失われた中身までは戻せない。


 オズワルドは大結界が戻らないと悟った途端、口元を歪め、喉の奥で笑い始める。


「無駄だったな、アリア・フォード」


 その声で、貴族たちの顔色がさらに青ざめる。彼らは自分の領地にいる家族や領民たちの顔を思い浮かべていた。


「我が領地は北の森に面している。結界が失われれば……」

「瘴気が流れ込むぞ!」

「辺境の砦は、魔物の群れを防ぎきれるのか……」


 民衆も同じだった。


 母親が子供を抱き寄せ、神官たちは無力さに打ちのめされるように、壊れた結界の空を見上げている。


(私が皆さんを救わないと……でもどうすれば……)


 その時、アリアの頭の中に過去の出来事が蘇る。それは、暗黒街で瘴気に苦しむ人々のために、小さな結界を張った記憶だ。


 大結界と比べれば規模は小さい。だが結界を生み出すこと、そのものには成功していた。その自信が彼女の背中を押してくれる。


「レナード様、試してみたいことがあります」

「何をするつもりだい?」


 その問いに、アリアは空を見上げてから、まっすぐに答えた。


「私が、新しい大結界を作ります」


 その宣言に、広場が静まり返った。


 誰もが言葉を失う中、オズワルドだけは違った。彼は喉の奥で低く笑い、馬鹿げた夢物語でも聞いたかのように顔を歪める。


「何を言い出すかと思えば……初代聖女ですら一生を懸けて築いた大結界だぞ。神殿の教えも受けておらぬ小娘に、何ができる!」


「いいや、アリアならできる」


 オズワルドの嘲笑を、レナードの声が遮った。彼はアリアの隣に立ち、聖石を掲げる彼女をまっすぐに見つめている。


「僕はアリアを信じている。君なら必ず成し遂げるはずだとね」


 その期待を受けて、アリアは微笑むと、聖石に自らの魔力を注ぎ込み始めた。


 淡い光が、聖石の内側から灯る。


 最初は小さな光だったが、アリアが魔力を流し続けると、その光は輝きを増していく。やがて、王都神殿から一本の光の柱となって空へと昇っていく。


 光は上空で広がり、やがて王国全体を包み込んでいく。アリアの魔力が、まったく新しい結界を空に生み出そうとしていた。


(魔力が吸い取られて……)


 アリアの指先は震えていた。聖石を支える腕にも力が入らず、額には汗が滲んでいる。体の奥から魔力を引き出すたび、胸の内側を焼かれるような痛みが走った。


 それでも、彼女は止めない。


 この光が途切れれば、王都だけではない。街道も、港町も、鉱山も、農村も、辺境の砦も、すべてが瘴気と魔物の脅威に晒される。


「アリア様、頑張ってください!」


 エミールが声を張ると、若手神官たちも一斉に膝をつき、祈りの姿勢を取る。


「私たちも、アリア様の成功をお祈りしております!」


 民衆の中からも声が上がる。その言葉が、アリアの背中を押してくれた。


「私は……成し遂げてみせます!」


 聖石から放たれる光がさらに強くなり、空に広がる淡い光の膜が輝きを増していく。


 それは初代聖女の大結界に似ていた。


 けれど、同じものではない。アリアの魔力が新しく生み出した、王国全土を守るための大結界だった。


「広がっている……」

「王都だけではないぞ……」

「王国全土へと結界が!」


 貴族席から驚きの声が漏れる。


 やがて、空へ伸びていた光が大きく脈打つ。誰もが空を見上げたまま、しばらく声を失っていた。


 その沈黙を破ったのは、駆けてきた騎士の声だった。


「殿下! 伝令の魔術で報告が届きました! 東の街道で魔物の群れが結界に弾かれたとの報告がありました!」


 貴族たちがざわめく間もなく、別の騎士が駆け込んできた。


「港町より報告! 瘴気が晴れ、船も倉庫も無事とのことです!」

「北の鉱山からも急報です! 坑道へ流れ込んでいた瘴気が消え、作業員が救われました!」

「辺境の砦からも伝令! 結界が戻り、砦へ迫っていた魔物は撤退したとのことです!」


 次々と届く報告に、貴族たちは息を呑んだ。目の前の少女が自分たちの領地を救ったのだと、ようやく理解したのだ。


「あり得ぬ……」


 オズワルドが、呆然と空を見上げていた。その声は、先ほどまで広場を支配していた大神官長のものとは思えないほど、掠れている。


「大結界を生み出すなど……あり得ぬ……」


 だが、目の前の光景がすべてだった。


 呆然としていた老いた顔が、次第に歪んでいく。


 受け入れられない現実が、絶望ではなく怒りへと変わった。


「アリア・フォード……お前さえいなければ!」


 怒号と共に、彼はアリアへ向かって手を振り上げた。


 だが、その手が届くより早く、レナードが間に入った。


「アリアを傷つけるなら、僕が許さない!」


 低く放たれた声と同時に、レナードはオズワルドの腕を捻り上げた。


 老いた身体が大きく傾き、神官服の裾が石床を擦る。オズワルドは逃れようともがいたが、力の差は歴然だった。


「殿下!」


 駆けつけた騎士たちが、祭壇へ雪崩れ込む。


 彼らはレナードの動きを妨げないよう左右から回り込み、オズワルドの両腕を押さえた。かつて大神官長と呼ばれた男は、騎士たちに押さえ込まれ、その場に膝をつかされた。


「離せ! 儂は大神官長だぞ! 神殿の頂点に立つ者だ!」

「いいえ」


 アリアは聖石を胸に抱いたまま、膝をついたオズワルドを見下ろした。


「あなたは、自分の権威を守るために皆を人質に取り、王国を滅ぼそうとした大罪人です」

「小娘がっ!」


 オズワルドは怒鳴り返す。しかし、広場に響いた声は、誰の心も動かさなかった。


 レナードが騎士たちへ視線を向ける。


「暗黒街での不正、大結界の破壊だけじゃない。きっとほかにも余罪はあるだろう。そのすべてを、王宮で明らかにする。連れていけ」

「はっ!」


 騎士たちがオズワルドを引き立てる。彼はなおも何かを叫んでいたが、その声に耳を傾ける者はいなかった。


「アリア、まずは感謝を。君のおかげで王国は救われた」

「私はできることをしただけですから」


 謙遜するアリアに対してレナードが微笑みかけると、祭壇の前へ進み出た。広場のすべての視線が、彼らへと向けられる。


「皆、聞いてほしい。本日、アリア・フォードが新しい王国の大結界を築いた。王都だけではない。辺境に至るまで、王国全土が彼女の結界によって守られている」


 その言葉に、民衆の注目がアリアへ集まる。


 聖石を胸に抱き、指先を震わせながらも、祭壇の上に立つ少女。先ほどまで絶望に沈んでいた人々は、その姿を見つめ、彼女が何を成し遂げたのかを改めて噛みしめる。


 レナードは一度だけアリアへ目を向け、それから広場全体へ視線を戻した。


「そこで改めて宣言する。王家はアリア・フォードを正式な聖女として認めたい。異議ある者はいるか?」


 その問いかけに真っ先に反応したのはエミールだ。彼は胸に手を当て、深く頭を下げる。


「異議はありません。アリア様こそ、聖女にふさわしい方です」


 続いて、若手神官たちからも声が上がる。


「私たちも異議はありません」

「アリア様を聖女として認めます」


 神官席の奥では、年老いた大神官たちも立ち上がっていた。彼らは互いに顔を見合わせ、やがて結論を下す。


「我々も異議ありません。神殿として、アリア・フォードを正式な聖女と認めます」


 その一言が、広場の空気を変えた。


 張り詰めていた沈黙がほどけ、民衆の間から歓声が上がる。誰かがアリアの名を呼ぶと、それに応えるように、次々と賞賛が重なっていった。


「アリア様!」

「結界をありがとうございます!」

「王国を救ってくださった聖女様に感謝を!」


 人々の声が、大祭壇へ押し寄せる。


 それは神殿の命令でも、貴族たちの判断でもない。恐怖の中で救われた者たちが、自らの意思でアリアへ向けた感謝だった。


「アリア、君からも一言をお願いできるかな」

「分かりました」


 アリアは一歩前へ出る。


 民衆、貴族、神官たち。広場に集まった人々の視線を一つずつ受け止めてから、深く息を吸った。


「この国で暮らす人々の力になれるよう、これからも全力を尽くします。どうか、よろしくお願いいたします」


 アリアは深く頭を下げた。


 その瞬間、神官たちは祈りの姿勢を取り、貴族たちは胸に手を当て、民衆は涙を拭う。


 この日、広場に集った人々は、新たな聖女を受け入れた。


 血筋でも、神殿の権威でも、誰かを従わせるための力でもない。苦しむ者へ手を伸ばし、王国を守るために立ち上がった一人の少女を、彼らは聖女と呼んだのだ。


「おめでとう、アリア」

「ありがとうございます、レナード様」


 それ以上の言葉は、二人には必要なかった。空に広がる新しい大結界の下で、アリアとレナードは同じ未来を見上げていたのだった。


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