第一章 ~『聖女候補の誘い』~
カイルが言葉を失う中、レナードは祭壇の奥へ目を向けた。
セレーネの祈りが途絶えてから、王都を守る結界には乱れが残っている。神殿を満たしていた光も安定せず、床に刻まれた紋様が明滅を繰り返していた。
この状態が続けば、王都の外縁から魔物や瘴気が入り込む恐れがある。
「アリア、もう一つ頼みがある」
レナードの言葉を受け、アリアが彼へ顔を向ける。
「王都の結界を安定させるため、君の力を貸してほしい」
「私に、ですか」
「ああ。現状、君にしかできない」
アリアは、空いたままの補佐席へ目を向けた。これまでも同じように頼まれ、善意で魔力を流してきた。
「それは、客人である私へのお願いでしょうか?」
「違う。王家から君への正式な依頼だ」
「正式な依頼……」
「後日、報酬も用意する。君の善意だけに頼るつもりはない」
アリアはレナードの顔を見つめた。
補佐席に座るのが当然だと思われてきたアリアにとって、その言葉は意外なものだった。
命じられるのではない。
何も説明されないまま、力だけを求められているのでもない。
レナードはアリアの意思を確かめたうえで、力を貸してほしいと頼んでいる。
「勝手な頼みだとは承知している。それでも、今だけは協力してくれないか」
「殿下、頭をお上げください」
「だが……」
「お引き受けいたしますので……」
「良いのかい?」
「はい。この国は好きですから。私の力で守れる人がいるのなら、協力いたします」
アリアは補佐席には向かわず、祭壇の中央へ歩き出した。
参列者たちが道を開ける。
先ほどまで聖女候補と呼ばれていたセレーネは、床に膝をついたまま、近づいてくるアリアを見上げていた。
その傍らには、手から滑り落ちた聖杖が転がっている。
「杖をお借りします」
アリアが聖杖を拾い上げた瞬間、その先端に淡い光が宿った。
神殿内から驚きの声が上がる。
セレーネが握っていた時には消えかけていた光が、アリアの手に渡っただけで勢いを取り戻していた。
アリアは祭壇へ進み、聖杖を両手で構える。
飾られた祈りの言葉は口にしない。
ただ、王都を守る結界へ向けて、自らの魔力を流し込んだ。
床に刻まれた紋様が一斉に輝く。
神殿の柱を伝って光が駆け上がり、天井に描かれた紋様へ広がっていく。途切れかけていた光の線が結ばれ、王都全体を覆う結界が本来の形を取り戻した。
「結界の乱れが消えた……」
「たった一人の魔力で?」
「これほどの力を持つ方が、補佐に徹していたのか……」
参列者たちの声が神殿のあちこちから上がる。
セレーネは聖衣の裾を握りしめ、祭壇の中央に立つアリアを見上げていた。
カイルもまた、目を逸らすことができずにいる。
自分たちが当然のように頼り、軽んじていた相手が、どれほど大きな力を持っていたのか。二人は今になって、目の前で思い知らされていた。
やがて、床を満たしていた光が落ち着く。
アリアは聖杖を祭壇へ置き、手を離した。
結界は、もう揺らいでいない。
「ありがとう、アリア」
祭壇へ上がってきたレナードが、アリアへ告げる。
「君が力を貸してくれなければ、王都にどれほどの被害が出ていたか分からない」
「正式な依頼だとおっしゃいましたから」
「ああ。約束は必ず守る」
レナードの返答に迷いはなかった。
「それから、もう一つ提案がある」
「また王家からの正式な依頼ですか?」
「いや。今度は、王都結界を預かる私からの提案だ」
レナードはアリアの前へ進み、片手を差し出した。
「アリア・フォード。私のもとで、聖女候補として働かないか?」
「殿下のもとで、ですか?」
思いもよらない提案に、アリアは目を見開いた。
カイルが弾かれたように顔を上げる。セレーネも聖衣の裾を握りしめたまま、信じられないものを見るようにレナードへ目を向けていた。
神殿にも大きなざわめきが広がる。
「君には、正式な聖女になるだけの力がある。私はそう考えている」
「ですが、聖女として認められるには、神殿の審査が必要なのではありませんか?」
「ああ。今日、結界を安定させたからといって、すぐに聖女へ任命することはできない」
レナードは神官長へ視線を向けた。
「聖女候補として実績を積み、必要な審査を受け、最後に認定式を行う。それが正式な手順だ」
「では、殿下のもとで働くというのは……」
「王家が君を聖女候補として推薦し、正式な聖女になれるよう支援するということだ」
「お待ちください、殿下」
神官長が慌てて口を挟む。
「聖女候補の選定と育成は、これまで神殿が担ってまいりました。王家のもとで働かせるなど、前例がございません」
「その神殿は、セレーネが自らの力だけでは結界を維持できないことも、体調不良を装っていたことも見抜けなかった」
レナードの声が低くなる。
「それどころか、十分な確認もしないまま聖女認定式まで進めている。それでも、これまで通り神殿だけに任せるべきだと言うのかな」
「それは……」
神官長は答えられず、視線を伏せた。
レナードは再びアリアへ向き直る。
「もちろん、君の意思を無視するつもりはない」
「断ってもよいと?」
「当然だよ。君の力を必要としているからこそ、君自身の意思を尊重したい」
アリアはレナードの顔を見つめた。
補佐席に座るのが当然だと思われてきたアリアにとって、その言葉は意外なものだった。
命じられるのではない。
誰かを支える役目を、当然のように押しつけられているのでもない。
正式な聖女を目指す道を示したうえで、進むかどうかはアリア自身に委ねられている。
「なぜ、私を聖女にしたいのですか?」
アリアが尋ねると、レナードは少しだけ口元を和らげた。
「君の力が国に必要だから、という理由は否定しない」
「正直なのですね」
「隠したところで、君には見抜かれそうだからね」
レナードは祭壇へ目を向けた。
「だが、力だけが理由ではない。君は誰にも評価されないまま、王都の結界を支え続けていた。今日も、自分を軽んじた者たちのためではなく、王都で暮らす人々を守るために力を貸してくれた」
「私は、できることをしただけです」
「それを当然だと思わない者のもとで、君には働いてほしい」
アリアはすぐには答えなかった。
聖女という地位に、興味を持ったことはない。
これまでは、いずれ家族になるセレーネを支えられれば、それでいいと思っていた。
けれど、自分の力によって守れる人々がいることを知った今、その道から目を逸らす理由もなかった。
「私で良ければ、お受けします」
アリアは笑みを浮かべると、レナードの手に自らの指を重ねた。
誰かの祈りを支えるだけだった少女は、その日初めて、自分の名で聖女を目指す道を示されたのだった。




