第五章 ~『庭園での焼き菓子』~
カイルが去ってから少し間を置いてから、アリアは面会室を出る。扉の閉まる音が背後で響いた。
廊下で待機しているはずのミアの姿がない。おそらくカイルを出口まで案内しているのだろう。
控えていた護衛にアリアは軽く会釈を返し、磨かれた白い床を進み出す。
客室へ戻ろうかとも思ったが、今は少しだけ、何も考えずに風に当たりたかった。アリアは庭園へ向かう回廊へ足を向ける。
(相変わらず綺麗ですね……)
王宮の庭園には、淡い青の花が咲いていた。
石畳の道に沿って花壇が続き、風が通るたびに、花弁がかすかに揺れる。アリアはその前で足を止め、面会室に残っていた張り詰めた息を、ゆっくりと吐き出した。
(これで諦めてくれると良いのですが……)
アリアは心の中で呟きながら花壇から顔を上げる。すると庭園の奥にある四阿に人影を見つける。
白い柱に蔦が絡む四阿の中にいたのは、レナードだった。丸いテーブルの上には書類の束と、紅茶の入ったポット、焼き菓子の皿が置かれている。
アリアが四阿に近づくと、レナードも気づいたのか顔を上げる。
「レナード様もここにいらっしゃったのですね」
「執務室ばかりにいると、どうにも肩がこるからね。天気の良い日は、ここで仕事をすることにしているのさ」
レナードはそう言って、脇に寄せた書類を軽く整える。執務中だったのは明らかだが、アリアが来たことを迷惑に感じている様子はない。
「アリアは?」
「少し風に当たりたくなりまして」
「なら、ちょうどいい。焼き菓子が余っているんだ。よければ一緒にどうかな」
レナードは皿を示しただけで、答えを急かさなかった。
その距離の取り方に、アリアの肩から力が抜ける。カイルは自分の望みを先に押しつけてきたが、レナードはいつも選ぶ余地を残してくれる。
「では、少しだけご一緒してもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ」
アリアが四阿へ入り、向かいの椅子に腰を下ろす。皿の上にはマドレーヌが並んでいた。貝殻の形をした生地には焼き色がつき、近づくと蜂蜜とバターの甘い香りがした。
「甘いものは平気だったかな?」
「大好きです」
「よかった。疲れた時には、甘いものを取った方がいい」
アリアはマドレーヌを一つ取り、口に運んだ。しっとりとした生地が舌の上でほどけ、蜂蜜のやわらかな甘さが広がる。
「……カイル様との面会での疲れが取れた気がします」
思わず漏れた言葉に、レナードは紅茶のカップを置いた。
「彼はどうだった?」
「謝られているはずなのに、私を見ている感じがしませんでした」
面会室で見たカイルの顔が脳裏に浮かぶ。身なりは整えていたが、やつれた目元や、急ぐように重ねられた言葉は、アリア自身ではない何かを求めているように見えた。
「カイル様は、私と婚約していた頃の自分に戻りたかったのかもしれません」
レナードはしばらく黙り込んでいた。否定も同情もしない。ただ、アリアの言葉を受け止めてから、庭園の外れへ視線を向ける。
「彼は今、騎士としての立場を失いかけている。処分はまだ審議中だが、以前のように護衛任務へ戻れる見込みは薄い。心情的にも追い詰められているはずだ」
「だから、私に……」
「心が弱っている時ほど、人は過去の安心できる場所に縋りたくなるのかもしれない」
レナードはそこで言葉を切り、アリアを見た。
「けれど、それを君が受け止める理由にはならない」
「……レナード様は、いつも私の気持ちを先に考えてくださるのですね……おかげで、心の中で絡まっていたものが、少しずつほどけていく気がします」
「それなら、よかった」
レナードは穏やかに答え、すぐに視線を紅茶へと移した。その自然な反応が、アリアには心地よかった。
「今日はカイル様と一人で会ってよかったと思っています」
「そうなのかい?」
「はい。彼と向き合って、ようやく分かりました。私の中で、あの婚約は本当に終わっていたのだと」
面会室でカイルに告げた拒絶は、怒りではない。ただ、自分に未練がないと確かめるための言葉だったのだ。
「過去をなかったことにはできませんが、過去に戻るつもりもありません」
レナードはしばらく何も言わなかった。その沈黙はアリアの言葉を待っているのではなく、彼女の決意を乱さないためのものだった。
やがて、レナードはカップを置き、アリアへ向き直る。
「君の中で答えが出たようで良かったよ」
しばらく二人は、花壇を眺めながら紅茶を楽しむ。
レナードは仕事の書類に手を伸ばさず、アリアも無理に何かを話そうとはしない。並んで同じ景色を見ていられるだけで、心の中に充足感が満ちていくのだった。




