幕間 ~『カイルに与えられたチャンス』~
グランツ家の訓練場で、木剣が地面へ落ちる音が響いた。
カイルは肩で息をしながら、泥のついた木剣を見下ろしていた。何度握り直しても、手に馴染んでいたはずの柄が、今はひどく重く感じられる。
「もう一本、頼む」
向かいに立つ騎士見習いが、困ったように視線を伏せた。
「カイル様、今日はもう……」
「まだ動ける」
「ですが、これ以上はお身体に障りますし、それにその……」
「なんだっ!」
「い、いえ……」
腫れもの扱いのカイルから距離を置きたいが、それを言い出せない。
そんな遠慮が滲んだ声だった。
以前なら、カイルに対してそんな物言いをする者はいなかった。グランツ家の嫡男であり、神殿の護衛任務を任され、聖女候補セレーネの義兄としても知られていた彼は、誰もが、将来を約束された騎士として扱ったからだ。
だが今は違う。
護衛任務から外され、正式な処分こそまだ決まっていないものの、騎士団内での評価は地に落ちている。
稽古場で向けられる視線にも、かつての敬意はない。腫れ物に触れるような沈黙ばかりが、カイルの周囲にまとわりついていた。
「……もういい。下がれ」
「し、失礼いたします」
騎士見習いは深く頭を下げ、逃げるように訓練場を去っていった。
カイルは落ちた木剣を拾う気にもなれず、その場に立ち尽くした。汗が顎を伝い、土の上へ落ちる。
鍛錬をすれば悩みが消えると思っていたが、剣を振れば振るほど、神殿での光景が鮮明に蘇った。
アリアを軽んじた愚かな騎士として、第二王子レナードに断じられた日のことだ。
「ただセレーネを守ろうとしただけだ。僕だけが責められることではないはずだ!」
怒りを含んだ声は、誰の耳にも届かず、訓練場の土に吸い込まれる。
そうなるはずだった。
だが、その言葉に応えるように、入口の方で靴音が響く。
「随分と荒れているな、カイル・グランツ」
聞き覚えのある声に、カイルは弾かれたように顔を上げた。
訓練場の入口には、神官服をまとった老人が立っていた。深い皺の刻まれた顔には穏やかな表情が浮かんでいるが、その目は、泥にまみれたカイルの姿を見定めるように細められている。
カイルは慌てて姿勢を正し、訓練場の入口へ駆け寄った。
「オズワルド大神官長……なぜ、こちらに!」
「そう恐縮せずともよい。お前に話があって来た」
「私に話ですか?」
「ああ、騎士としての立場。取り戻したくはないか?」
いきなり突きつけられた言葉に、カイルの喉が鳴った。
「……どういう意味でしょうか」
「言葉通りだ。お前は今、護衛任務を外され、王家と騎士団の処分を待つ身であろう。このままでは、騎士としての未来も危うい」
痛いところを突かれ、カイルは返す言葉を失う。
グランツ家は代々、騎士の家系だ。父も祖父も、王家に剣を捧げてきた。その家の息子である自分が、騎士としての道を失うなど、あってはならないはずなのに、その危機は迫っていた。
「ですが、私の処分はまだ確定しておりません」
「だからこそ、今のうちに手を打つのだ……騎士として復帰する道は一つではない。王家や騎士団からの評価が落ちたとしても、神殿には神殿の推薦枠がある」
「神殿の……推薦枠ですか……」
「聖務に関わる騎士としての道だ。興味はあるか?」
カイルは思わず顔を上げた。
完全な復権ではない。それでも、剣を握り、騎士として立てる道がある。その事実だけで、暗く塞がっていた道筋に光が差したような気がした。
「本当に私が……」
「儂が口添えすれば容易いことだ」
「ありがとうございます!」
カイルはその場で頭を下げた。汗と土に汚れた姿のまま、オズワルドへ縋るように礼を取る。
「ただし、儂も慈悲でこのような申し出をしているわけではない。ある条件を飲んでもらう」
「条件ですか……」
「アリア・フォード。あの娘と、再び婚約を結ぶことだ」
「そ、それは……」
カイルはすぐには答えられなかった。聞き間違いだと思いたかったが、オズワルドの目は冗談を口にする者のそれではない。
「私は彼女にひどいことをしました。何度も待たせて、何度もセレーネを優先して……今さらアリアが許すはずがありません」
「だからこそ、誠意を見せればいい」
オズワルドは、カイルの後悔など最初から織り込み済みだという顔で頷いた。
「今度こそアリア・フォードを優先すると告げればよい。過ちを認め、心から悔いていると示せば、耳を傾けるであろう」
「それは……」
アリアは、それほど単純な女性ではない。カイルはそう思い、わずかに眉を寄せたが、同時に、胸の奥には別の疑問も生まれていた。
大神官長であるオズワルドが自ら足を運び、自分とアリアの復縁を勧める。その理由が見えなかったからだ。
「……神殿は、なぜ私とアリアの復縁を望むのですか?」
カイルの問いに、オズワルドはすぐには答えなかった。
だが沈黙はいつまでも続かない。やがて彼は重々しく口を開いた。
「アリア・フォードに一人の女性として幸せになってもらいたいのだ」
「幸せですか……」
「聖女の務めは重い。結界の維持、瘴気の浄化、神殿との折衝など、若い令嬢一人に背負わせるには、あまりにも酷な役目だ」
「ですが、アリアは自分で聖女を目指すと決めたのでは?」
「人は目の前の役目に追われていると、無意識に望んでいる幸せを見失うものだ」
オズワルドは、訓練場の奥へ視線を向けたまま続ける。
「結婚し、家に入り、穏やかに暮らす道もある。かつて婚約者だったお前が手を差し伸べれば、あの娘も考え直すかもしれぬ」
「ですが、私の言葉を聞くとは……」
「夫となる男の言葉ならば、無視はできまい」
夫。その響きに、カイルの指がわずかに動いた。
かつては当然の未来だと思っていた。アリアが自分の妻になり、グランツ家へ嫁いでくる。彼女は落ち着いていて、家の者にも好かれていた。両親も、アリアなら安心だと何度も口にしていた。
その未来は、もう手の届かないところへ消えたはずだったが、オズワルドはそれを取り戻せると言っている。
「アリアが聖女になる流れを止められなかった場合は、どうするのですか?」
「その時は、聖女となった後の振る舞いを改めさせて欲しい。神殿と無用に対立しない。それを言い含めてくれるだけでよい」
「つまり、神殿のためにアリアを説得しろと?」
「神殿のためだけではない。お前自身のためでもある」
オズワルドはそこで初めて、カイルへまっすぐな視線を向けた。
「お前は騎士としての未来を失いかけている。アリア・フォードもまた、過酷な道へ進もうとしている。ならば、互いに手を取り合えばよい。お前は騎士として復帰し、あの娘は令嬢としての幸せを取り戻す」
言葉だけを聞けば、救いのようだった。
アリアに謝りたい感情は決して嘘ではない。
レストランで待たせたことも、何度もセレーネを優先したことも、思い出すたびに胸が重くなる。
けれど、その後ろには、もっと切実な焦りがあった。
騎士に戻りたい。もう一度、周囲から認められたい。グランツ家の嫡男として、恥じない立場へ戻りたい。その願いからは目を背けられなかった。
「……本当に、神殿は私を助けてくださるのですね」
「儂が直々に来た意味を考えるがよい」
オズワルドの声に、カイルは拳を握った。
大神官長であるオズワルドが自分のために動いてくれた。
その事実は、今のカイルにとってあまりにも大きかった。見放されたと思っていた自分に、まだ価値があるのだと示された気がした。
「分かりました。アリアとの復縁を目指します」
「よい返事だ」
オズワルドは満足げに頷く。
だが、オズワルドの目に映っているのは、救うべき若者ではない。神殿のために動かせる便利な駒。ただそれだけだった。
「カイル・グランツ。これは、お前に残された数少ない機会だ。逃すでないぞ」
「……はい」
カイルが深く頭を下げると、オズワルドはそれ以上何も言わず、背を向けて去っていく。訓練場には、カイル一人が残されるのだった。




