第四章 ~『流れている噂』~
暗黒街での試験を終えてから、数週間が過ぎた。
瘴気に覆われていた街は、アリアが地下礼拝堂の魔石を修復したことで息を吹き返した。ガルドの身柄はレナードが確保し、帳簿も押収されている。
すべてが順調かのように見えたが、そうとも言い切れない部分もあった。
ガルドの証言も、帳簿の内容も、神殿上層部に踏み込むには慎重な確認が必要になる。
レナードは調査のための書類を読み込み、関係者から話を聞いているらしいが、神殿上層部をまとめて断罪するには、まだ裏付けが足りない状況だった。
(レナード様が頑張っているのですから。私も負けていられませんね)
アリアは王宮の客室で、エミールが届けてくれた教本に目を通し、働く者たちの手荒れや小さな怪我を治す毎日を送っていた。
暗黒街のような大きな事件がなくとも、目の前に困っている人がいれば手を伸ばす。それが今のアリアにできることだった。
「アリア様、紅茶をお持ちしました」
朝の光が差し込む客室で、ミアが銀盆を手にして入ってくる。机の上には、アリアが読みかけていた神殿の教本が積まれている。
「ありがとうございます、ミア」
「今日は少し濃いめに淹れております。昨日も遅くまで頑張っていらっしゃったようですから」
ミアはそう言いながら、白磁のカップへ紅茶を注ぐ。琥珀色の水面が揺れ、湯気が立ち上る。だが、その動作には、どこかぎこちなさがあった。
「ミア。何かありましたか?」
アリアが尋ねると、ミアははっとしたように目を伏せた。
「アリア様に隠し事はできませんね……」
「ミアは顔に出やすいですから」
アリアがそう返すと、ミアは小さく肩を落とした。
「実はアリア様が聖女としての格に欠けるという、失礼な噂が流れていまして……それに乗じて、セレーネ様を聖女にすべきだという声まで大きくなっているのです」
聖女認定式での失敗で、セレーネは正式な聖女として認められなかった。
だが、それでも、セレーネが正式に聖女候補の地位を剥奪されたという話は聞いていない。神殿が再び候補として担ぎ上げたとしても不思議ではなかった。
「セレーネ様が私のライバルになるのですね……」
「アリア様の方が絶対に聖女に相応しいのに!」
「ふふ、ありがとうございます」
その穏やかな笑みに、ミアはまだ言い足りないという顔をしながらも、唇を引き結ぶ。
アリア自身が取り乱していない以上、自分だけが声を荒らげても仕方がない。そう分かっていても、胸の奥に残る悔しさまでは、すぐには消えてくれなかった。
やがて、扉が控えめに叩かれる。
「アリア様、エミールです。少しよろしいでしょうか」
「どうぞ」
アリアが入室を許すと、神官服を身に纏ったエミールが、数冊の本を抱えて姿を現す。彼は室内へ入るなり、ミアの表情とアリアの様子を見比べ、眉を寄せた。
「すでに、噂の件をお聞きになりましたか?」
「はい。ミアから聞いたところです」
「神殿内でも、同じ話が流れていて……セレーネ様が初代聖女の血筋であることを、改めて強調する声が増えているのです」
エミールは持ってきた本の一冊を開いた。そこには、王国の建国期に活躍した初代聖女についての記述がある。
「初代聖女は、王国全土を覆う大結界の基礎を築いた女性です。もともとは平民でしたが、魔物と瘴気に苦しむ民を救ったことで、後に聖女と呼ばれるようになりました」
「セレーネ様は、その聖女様の血を……」
「引いています。鑑定の魔術でも確認されていますから、そこに偽りはありません」
「だから、神殿はセレーネ様を推していたのですね……」
「理由の一つではあります。実力不足を補うには、血筋ほど分かりやすい看板はありませんから」
アリアは本の挿絵に視線を移す。
そこに描かれた初代聖女は、華やかな玉座に座っているわけではなかった。両手を広げ、魔物に怯える人々の前に立っている。背後には、まだ形の定まらない大結界が、国土を包む光として描かれていた。
代々の聖女は、その大結界を維持し、傷んだ部分を補修する役割を担ってきた。言い換えれば、初代聖女と同じものを新たに生み出せた聖女は、一人もいなかったのだ。
「おそらく神殿は、その血筋を盾にして、セレーネ様を再び推してくるでしょう」
「構いません。私はセレーネ様と競って勝つことを目的にしていません。助けられる人がいるから助けるだけですから」
目の前の噂に惑わされるのではなく、今、自分にできることを選ぶ。その姿勢に、ミアとエミールは顔を見合わせて、微笑んだ。
「私はこれからもアリア様を支えます!」
「僕もです。神殿で学んだ知識が、少しでもお役に立つのなら」
神殿が誰を推そうと、噂がどれほど広がろうと、アリアの進む道は変わらない。目の前に救える人がいる限り、彼女はその手を伸ばし続けるのだった。




