プロローグ ~『妹を優先する婚約者』~
要望を頂いたので、短編版を長編にしました。楽しんでいただけると幸いです
※第一章は短編をベースにして、長編向けに変更を加えたものとなっております
「また義理の妹を優先したのですね」
アリア・フォード伯爵令嬢がそう告げると、個室の扉を開けたばかりのカイルが、外套を脱ぐ手を止めた。
王都でも予約の取れないレストランの一室には、すっかり冷めた料理が並んでいる。白身魚の香草焼きは湯気を失い、銀の皿の上で脂だけが固まりかけている。グラスに注がれた葡萄酒も、誰にも口をつけられないまま、燭台の明かりを鈍く映していた。
「約束の時間から、二時間が過ぎていますよ」
「……悪かった、アリア。だが、仕方なかったんだ」
カイルは席に着くより先に弁明を始めた。
「セレーネの体調が悪化したんだ。義兄である僕が傍にいないと不安になるらしくてね」
セレーネは、グランツ家に迎えられた血のつながらない妹だ。捨て子だった彼女は、家族の誰よりもカイルのことを慕っており、その仲の良さは社交界でも有名だった。
「だから私との約束は後回しにしたと?」
「仕方ないだろ……セレーネは聖女候補だ。あの子には、国を救える力がある。放っておくわけにはいかなかったんだ」
カイルの口調には、悪びれた様子がない。
アリアは膝の上で重ねていた手をほどき、テーブルの端に置かれた予約票へ目を落とす。そこには、二人の名前が並んでいる。
カイルが騎士団の任務で忙しいことは知っていたため、会える日を何度も調整し、ようやく取れた席だった。
それでも、彼にとっては駆けつける価値のない約束だったのだ。
「セレーネ様がそれほど大切ですか……」
「体が弱いからね。兄として、僕が助けてあげないといけないんだ」
「婚約者を二時間待たせてでも?」
「君は強い人だ。それくらい待てるだろ?」
その言葉を聞いた瞬間、アリアは目を見開く。
君なら分かるだろう。
君なら許してくれるだろう。
君なら納得してくれるだろう。
何度も同じ言葉で片づけられ、そのたびにアリアは頷いてきた。
体調が悪いなら仕方がない。そう自分に言い聞かせ、空いた席を見つめる夜を増やしてきた。
けれど、目の前の料理はもう冷めている。アリアの中に残っていた感情も同じだった。
「カイル様、婚約は白紙に戻しましょう」
突然の申し出に、カイルの顔から余裕が消える。
「それは……」
「本日の約束を破られたら、婚約は白紙にして構わないと、カイル様のご両親にも許可はいただいております」
「待ってくれ。次こそは必ず君を優先する。今度こそは本当に!」
カイルは慌てて声をかけるが、アリアはもう立ち上がっていた。膝にかけていたナプキンを丁寧に畳み、皿の横へ置く。その仕草を見て、カイルの表情が強張る。
「そうおっしゃって、何度目になるのでしょう」
「アリア……」
「もう、両手の指では足りません」
アリアは声を荒らげたりしない。ただ、彼の前から一歩離れる。
「本当に放っておけない妹なんだ。君も知っているだろう。セレーネは……」
「ええ。存じております。義理の妹で、体が弱くて、国を救う聖女候補で、あなたが助けてあげなければならない人なのでしょう」
「ああ、そうなんだ」
「だからこそです。私ではなく、セレーネ様を優先してあげてください」
アリアは扉へ向かう。すると背後で椅子が床を擦る音がした。
「アリア、待ってくれ」
呼び止める声に、アリアは扉の前で振り返る。
婚約者だった男は後悔を顔に浮かべているが、そこにアリアへの申し訳なさは含まれていなかった。
「では、さようなら。これからもセレーネ様を大切になさってください」
アリアはそう告げて、個室を出た。
廊下には、焼きたてのパンと香草の匂いが満ちていた。けれど、もう食欲はない。店員が心配そうにこちらを見るのを軽く会釈で返し、アリアはまっすぐ出口へ向かう。
カイルとの婚約も、義理の妹だからと許し続ける日々も今夜で終わりにする。そう決めた彼女の足は軽やかだった。




