第二百十五話 重圧
秦軍は、すでに旧韓の南境を深く越えていた。
背後には南陽の穀倉地帯が広がり、そのさらに北には関中へと続く長大な補給線が伸びている。鄴より運ばれた穀、旧韓の倉より積み出された塩と乾肉、漢中から送られた馬糧、西涼より買い集められた軍馬――それらすべてが一本の巨大な流れとなり、六十万の軍勢を支えていた。
そして今、その流れは楚へ向かっている。
まだ楚都・寿春には遠い。
だが、確実に近づいていた。
進むほどに、道は長くなる。
補給は遠くなる。
ひとたび乱れれば、その影響は後方まで波及する。
六十万という数は力であると同時に、巨大な重荷でもあった。
夜になっても、列は完全には止まらない。
一度流れ始めた大軍は、容易には静止できないのである。
止まれば詰まる。
詰まれば滞る。
滞れば、後続すべてが歪む。
だから流し続ける。
ゆるやかにでも、絶えず。
それが、この軍を維持するための絶対条件であった。
夜闇の中、無数の松明が揺れている。
赤い火が荷車の車輪を照らし、馬の汗を鈍く光らせる。湿った土の匂い、獣の熱気、煮炊きの煙、兵たちの汗――様々な臭気が混ざり合い、夜気の中に重く沈んでいた。
疲労は、隠しきれなくなっている。
兵の声は少ない。
誰もが黙々と歩き、押し、運び、流れを維持することだけに意識を注いでいた。
それでも、列は整っている。
崩れてはいない。
だが――
重かった。
その感覚が、軍全体にじわじわと染み込み始めている。
主道へ集約された補給は、確かに管理しやすくなっていた。
第三補給線を閉じたことで命令系統は整理され、複雑だった輸送経路も単純化された。無駄な往復は減り、報告も統一されている。
本来であれば、効率は上がっているはずであった。
だが、現実は違う。
馬が保たない。
前方で、一頭の軍馬が膝を折った。
泡立った息を吐き、荷車を引いたまま地面へ崩れ落ちる。兵たちが慌てて綱を外し、積荷を支える。
「替えを!」
怒声が飛ぶ。
すぐに予備馬が引かれてくる。
対応は早い。
訓練も行き届いている。
問題はない。
――一件だけなら。
だが、別の場所でも同じ報が上がる。
車輪の破損。
軸の歪み。
馬の脱落。
兵の転倒。
どれも致命ではない。
だが、その“小ささ”こそが厄介であった。
誰も混乱しない。
誰も騒がない。
現場が処理できてしまう。
だからこそ、削られる。
呂明は、夜の列を歩いていた。
騎乗はしない。
自らの足で地を踏み、空気を感じ、流れを確かめる。
兵の顔色。
荷車の揺れ。
馬の呼吸。
それらを見れば、数字に出ぬ歪みが分かる。
主道は混み始めていた。
第三補給線を閉じた影響で、すべての流れがここへ寄せられている。
列は長く、密で、逃げ場がない。
わずかな停滞が、そのまま後方へ連鎖する。
視線を上げる。
松明の列は、闇の向こうまで続いていた。
まるで赤い河である。
大地の上を、ゆっくりと流れている。
だが、その流れは以前より明らかに鈍い。
「……重いな」
呟きが漏れる。
その時、背後から声がかかった。
「呂明殿」
振り返る。
そこに立っていたのは、補給統括を任されている将であった。顔には疲労が濃く滲み、目の下には深い隈が落ちている。
「兵の休息を増やすべきではありませんか。このままでは馬も兵も持ちませぬ」
「止めれば、さらに詰まる」
呂明は短く答えた。
「ですが、この進みでは……」
「分かっている」
理解している。
休ませれば、列は滞る。
流せば、消耗が増す。
どちらを選んでも削られる。
問題は、その二択を強いられていること自体であった。
呂明は、ゆっくりと視線を落とした。
脳裏に浮かぶのは地図である。
南陽。
旧韓。
主道。
閉じた第三補給線。
さらに南、楚北境へ続く長い道。
そして、そのすべてが、少しずつ噛み合わなくなっている。
「……誰かが、押している」
将は反応しなかった。
意味が分からなかったのだろう。
当然である。
敵はまだ見えていない。
戦も始まっていない。
だが、確かに圧がある。
呂明は再び歩き出した。
思考を巡らせる。
どこで寄せられたのか。
どこから歪みが始まったのか。
橋か。
側道か。
報か。
違う。
もっと前からである。
気づかぬほど小さく。
だが、確実に。
天秤を思い浮かべる。
均衡は、まだ保たれている。
だが、その針は以前より深く沈んでいた。
このまま重みが増せば、いずれどこかが耐えきれなくなる。
問題は――
敵が、それをどこまで計算しているかであった。
離れた丘の上から、呂南衡は夜の灯を見下ろしていた。
無数の火が連なっている。
それはまるで、大地に刻まれた赤い河であった。
秦軍は、旧韓の地を完全に越えつつある。
ここから先は、楚の北辺。
河川と湿地が増え、水運への依存が強まる土地である。
そしてそれは、騎馬と街道による高速輸送を得意とする秦にとって、徐々に不利となる地形でもあった。
「……寄せたか」
呂南衡は小さく呟いた。
第三補給線を閉じたことで、流れは単純化された。
だが同時に、負荷は主道へ集中した。
もはや一つの詰まりが、全体を揺らす。
崩れはしない。
まだ。
だが、余裕は消えている。
呂南衡は地図へ視線を落とした。
河川。
湿地。
補給拠点。
その中で、一箇所だけ異様に負荷が集中し始めている地点がある。
そこを押せば――
さらに沈む。
「……次だ」
その声は静かであった。
だが、確かな意思を帯びていた。
六十万は進む。
南へ。
楚へ。
整いながら。
削られながら。
それでも止まることなく。
だが、その流れは、もはや自然なものではなかった。
外から与えられた圧に抗いながら、無理やり押し流されている。
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