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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第十二章 楚天動乱編

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第二百十五話 重圧

 秦軍は、すでに旧韓の南境を深く越えていた。


 背後には南陽の穀倉地帯が広がり、そのさらに北には関中へと続く長大な補給線が伸びている。鄴より運ばれた穀、旧韓の倉より積み出された塩と乾肉、漢中から送られた馬糧、西涼より買い集められた軍馬――それらすべてが一本の巨大な流れとなり、六十万の軍勢を支えていた。


 そして今、その流れは楚へ向かっている。


 まだ楚都・寿春には遠い。


 だが、確実に近づいていた。


 進むほどに、道は長くなる。


 補給は遠くなる。


 ひとたび乱れれば、その影響は後方まで波及する。


 六十万という数は力であると同時に、巨大な重荷でもあった。


 夜になっても、列は完全には止まらない。


 一度流れ始めた大軍は、容易には静止できないのである。


 止まれば詰まる。


 詰まれば滞る。


 滞れば、後続すべてが歪む。


 だから流し続ける。


 ゆるやかにでも、絶えず。


 それが、この軍を維持するための絶対条件であった。


 夜闇の中、無数の松明が揺れている。


 赤い火が荷車の車輪を照らし、馬の汗を鈍く光らせる。湿った土の匂い、獣の熱気、煮炊きの煙、兵たちの汗――様々な臭気が混ざり合い、夜気の中に重く沈んでいた。


 疲労は、隠しきれなくなっている。


 兵の声は少ない。


 誰もが黙々と歩き、押し、運び、流れを維持することだけに意識を注いでいた。


 それでも、列は整っている。


 崩れてはいない。


 だが――


 重かった。


 その感覚が、軍全体にじわじわと染み込み始めている。


 主道へ集約された補給は、確かに管理しやすくなっていた。


 第三補給線を閉じたことで命令系統は整理され、複雑だった輸送経路も単純化された。無駄な往復は減り、報告も統一されている。


 本来であれば、効率は上がっているはずであった。


 だが、現実は違う。


 馬が保たない。


 前方で、一頭の軍馬が膝を折った。


 泡立った息を吐き、荷車を引いたまま地面へ崩れ落ちる。兵たちが慌てて綱を外し、積荷を支える。


「替えを!」


 怒声が飛ぶ。


 すぐに予備馬が引かれてくる。


 対応は早い。


 訓練も行き届いている。


 問題はない。


 ――一件だけなら。


 だが、別の場所でも同じ報が上がる。


 車輪の破損。


 軸の歪み。


 馬の脱落。


 兵の転倒。


 どれも致命ではない。


 だが、その“小ささ”こそが厄介であった。


 誰も混乱しない。


 誰も騒がない。


 現場が処理できてしまう。


 だからこそ、削られる。


 呂明は、夜の列を歩いていた。


 騎乗はしない。


 自らの足で地を踏み、空気を感じ、流れを確かめる。


 兵の顔色。


 荷車の揺れ。


 馬の呼吸。


 それらを見れば、数字に出ぬ歪みが分かる。


 主道は混み始めていた。


 第三補給線を閉じた影響で、すべての流れがここへ寄せられている。


 列は長く、密で、逃げ場がない。


 わずかな停滞が、そのまま後方へ連鎖する。


 視線を上げる。


 松明の列は、闇の向こうまで続いていた。


 まるで赤い河である。


 大地の上を、ゆっくりと流れている。


 だが、その流れは以前より明らかに鈍い。


「……重いな」


 呟きが漏れる。


 その時、背後から声がかかった。


「呂明殿」


 振り返る。


 そこに立っていたのは、補給統括を任されている将であった。顔には疲労が濃く滲み、目の下には深い隈が落ちている。


「兵の休息を増やすべきではありませんか。このままでは馬も兵も持ちませぬ」


「止めれば、さらに詰まる」


 呂明は短く答えた。


「ですが、この進みでは……」


「分かっている」


 理解している。


 休ませれば、列は滞る。


 流せば、消耗が増す。


 どちらを選んでも削られる。


 問題は、その二択を強いられていること自体であった。


 呂明は、ゆっくりと視線を落とした。


 脳裏に浮かぶのは地図である。


 南陽。


 旧韓。


 主道。


 閉じた第三補給線。


 さらに南、楚北境へ続く長い道。


 そして、そのすべてが、少しずつ噛み合わなくなっている。


「……誰かが、押している」


 将は反応しなかった。


 意味が分からなかったのだろう。


 当然である。


 敵はまだ見えていない。


 戦も始まっていない。


 だが、確かに圧がある。


 呂明は再び歩き出した。


 思考を巡らせる。


 どこで寄せられたのか。


 どこから歪みが始まったのか。


 橋か。


 側道か。


 報か。


 違う。


 もっと前からである。


 気づかぬほど小さく。


 だが、確実に。


 天秤を思い浮かべる。


 均衡は、まだ保たれている。


 だが、その針は以前より深く沈んでいた。


 このまま重みが増せば、いずれどこかが耐えきれなくなる。


 問題は――


 敵が、それをどこまで計算しているかであった。


     


 離れた丘の上から、呂南衡は夜の灯を見下ろしていた。


 無数の火が連なっている。


 それはまるで、大地に刻まれた赤い河であった。


 秦軍は、旧韓の地を完全に越えつつある。


 ここから先は、楚の北辺。


 河川と湿地が増え、水運への依存が強まる土地である。


 そしてそれは、騎馬と街道による高速輸送を得意とする秦にとって、徐々に不利となる地形でもあった。


「……寄せたか」


 呂南衡は小さく呟いた。


 第三補給線を閉じたことで、流れは単純化された。


 だが同時に、負荷は主道へ集中した。


 もはや一つの詰まりが、全体を揺らす。


 崩れはしない。


 まだ。


 だが、余裕は消えている。


 呂南衡は地図へ視線を落とした。


 河川。


 湿地。


 補給拠点。


 その中で、一箇所だけ異様に負荷が集中し始めている地点がある。


 そこを押せば――


 さらに沈む。


「……次だ」


 その声は静かであった。


 だが、確かな意思を帯びていた。


     


 六十万は進む。


 南へ。


 楚へ。


 整いながら。


 削られながら。


 それでも止まることなく。


 だが、その流れは、もはや自然なものではなかった。


 外から与えられた圧に抗いながら、無理やり押し流されている。

数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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