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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第十二章 楚天動乱編

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第二百十三話 連鎖

 列は、整っていた。


 少なくとも、外から見ればそうである。


 六十万の軍勢は、南へと向かって進み続けている。足並みは揃い、命令は滞りなく伝わり、各部隊は与えられた役目を果たしていた。


 だが、その内側では、目に見えぬ歪みが確かに積み重なっていた。


 それは、崩れではない。


 “揺れ”であった。


 ある補給隊で、小さな遅延が生じていた。


 本来であれば、前線に届くはずの穀車が、半刻ほど遅れている。原因は明確であった。先行部隊の消費が予測よりも多く、急ぎ補給を回す必要があったためである。


 現場の判断としては、正しい。


 遅れを取り戻すため、輸送速度を引き上げる。


 馬を増やし、兵を追加し、列を詰める。


 それもまた、正しい。


 だが――


 その“正しさ”が、別の歪みを生む。


 詰めた列は、やがて詰まりとなる。


 荷車同士の間隔が狭まり、わずかな停滞が全体へ波及する。先頭が一歩遅れれば、その遅れは後方へと連なり、やがて数十台分の滞りとなって現れる。


 さらに、それを解消するために、別の隊が動く。


 側道へ回り込み、先行しようとする。


 だが側道は狭く、ぬかるみも残っている。


 結果、そこでもまた遅れが生じる。


 誰も誤ってはいない。


 すべては、状況に応じた適切な判断である。


 だが、それらが積み重なった時――


 流れは、わずかに跳ねる。


 呂明は、その“跳ね”を見ていた。


 彼の視線は、個々の兵や車ではなく、全体の流れに向けられている。人の動き、物の運び、命令の通り方――それらが織りなす一つの“流体”として、この軍を捉えていた。


 そして、その流体が、規則から外れ始めていることを感じ取っていた。


「前列、間隔を広げろ。詰めるな」


 短く命じる。


 すぐに伝令が走り、指示は前方へと伝わる。


 詰まりかけていた列が、ゆっくりとほどけていく。


 一見すれば、それで問題は解決したように見える。


 だが、別の場所で同じ現象が起きる。


 報が届く。


「側道にて輸送遅延。ぬかるみ深く――」


 呂明は最後まで聞かずに手を上げた。


「主道へ戻せ。側道は切り捨てる」


「しかし、それでは――」


「戻せ」


 迷いのない声であった。


 命令は徹底される。


 側道に入った隊は引き返し、主道へと合流する。


 その過程で、さらに小さな混乱が生じるが、やがて収束する。


 ――正しい。


 どの判断も、間違ってはいない。


 だが、それでもなお、流れは一定にならない。


 呂明は歩を緩めた。


 列の中央、最も安定しているはずの位置で足を止める。


 目を閉じ、耳を澄ませる。


 足音が重なる。


 車輪が軋む。


 馬の息遣いが風に混じる。


 すべては、これまでと変わらぬはずの音であった。


 しかし――


 そのリズムが、微かに乱れている。


 一定であるべき拍が、わずかにずれる。


 早まる箇所があり、遅れる箇所がある。


 それらが互いに干渉し合い、全体として不規則な“波”を生み出している。


 呂明は目を開いた。


 原因は一つではない。


 橋でもない。


 道でもない。


 報でもない。


 すべてが、繋がっている。


 それは偶然では起こり得ない現象であった。


 天秤を思い浮かべる。


 この軍の均衡を測るための、己の思考の象徴。


 量る。


 均衡は、保たれている。


 崩壊の兆しはない。


 だが――


 静止していない。


 揺れている。


 外から触れられているかのように。


 その瞬間、呂明の中で一つの結論が形を持った。


 これは事故ではない。


 誰かが、意図して起こしている。


 呂明は、ゆっくりと前を見据えた。


 見えるのは、ただ続く軍列のみ。


 敵影はない。


 旗も見えない。


 だが、確かにいる。


 この流れに触れている者が。


 その存在を、初めて“敵”として認識する。


     


 同じ頃。


 離れた丘の上から、その流れを見つめる者がいた。


 呂南衡である。


 彼の目には、六十万の動きが一つの巨大な生き物のように映っていた。


 脈動し、呼吸し、わずかに乱れながらも形を保っている。


「……連なったか」


 小さく呟く。


 最初の遅延は、点であった。


 次に、それは線となり、いくつかの地点を結んだ。


 そして今、それらは互いに影響し合い、面として広がり始めている。


 遅れが遅れを呼ぶ。


 修正が新たな歪みを生む。


 その連鎖が、流れ全体に波を与えていた。


 だが――


「崩れぬ」


 感嘆とも、警戒ともつかぬ声であった。


 本来であれば、この段階で乱れる。


 命令は錯綜し、現場判断が衝突し、列は崩れる。


 それが、大軍の常である。


 しかし、この軍は崩れない。


 どこかに、芯がある。


 流れを繋ぎ止める、見えぬ支点が存在する。


 呂南衡は、目を細めた。


 その存在は見えない。


 だが、感じることはできる。


 歪みが広がるたびに、それを押し戻す力が働く。


 まるで、全体を俯瞰している者がいるかのように。


「……やはり、いるか」


 確信には至らない。


 だが、疑いは消えない。


 この戦は、もはや単なる兵のぶつかり合いではない。


 思考と構造がぶつかり合う場である。


 ならば――


 壊すべきは、流れではない。


 その“芯”である。


 呂南衡は、静かに息を吐いた。


「足りぬな」


 遅延は生まれた。


 無駄も積み上がった。


 連鎖も始まった。


 だが、それだけでは届かない。


 必要なのは、決定的な歪み。


 均衡を維持する一点を揺るがす、一手である。


 風が吹く。


 草が揺れ、視界の端で影が動く。


 戦は、まだ姿を現していない。


 だが――


 その深度は、確実に増していた。


     


 六十万は進む。


 揺れながら。


 削られながら。


 それでもなお、形を保ったまま。


 だが、その均衡は、もはや安定ではなかった。


 外から触れられ、内から軋み、わずかに歪んでいる。


 そして――


 その歪みは、やがて一点へと収束していく。

数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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