第二百十一話 遅延
流れは、なおも保たれていた。
六十万は進む。
足は止まらず、列は途切れず、命は命として、規則の中に収まっている。
だが――
その内側で、わずかな“重さ”が生まれていた。
渡河である。
川は広くはない。
深くもない。
橋もある。
それだけで、本来ならば問題はないはずであった。
先行の軽装部隊は、すでに渡り終えている。
歩兵も、列を乱さず通過している。
止まってはいない。
ただ――
遅れていた。
車輪が沈む。
わずかに。
ほんの指の厚みほど。
だが、それで十分であった。
荷を積んだ車は、重い。
引く馬は力を要し、踏み込みが乱れ、次の一歩が鈍る。
一台が遅れる。
それだけならば問題はない。
だが、その一台が列を押し、後ろを詰まらせ、さらに後方へと影響が波及する。
止まらない。
だが、確実に遅れる。
それが、繰り返されていた。
兵は言う。
「通れる」
事実である。
渡れないわけではない。
橋は落ちていない。
道も断たれてはいない。
だからこそ、問題は表に出ない。
呂明は、その場に立っていた。
視線は、橋ではなく、列に向けられている。
動きはある。
流れもある。
だが、その流れは、どこか鈍い。
目に見えるほどではない。
だが、触れれば分かる。
そんな違和であった。
「どれほどだ」
短く問う。
「半刻ほどの遅れにございます」
半刻。
誤差の範囲である。
六十万という規模においては、むしろ整っていると言ってよい。
だが――
呂明は、答えを返さなかった。
橋に近づく。
踏みしめる。
感触を確かめる。
硬い。
だが、わずかに沈む。
均されているはずの土が、均されきっていない。
削られた形跡はない。
崩れた跡もない。
ただ、微妙に、噛み合っていない。
誰かが、触れている。
そう思ったが、口には出さない。
言葉にすれば、それは意味を持つ。
意味を持てば、形を与えてしまう。
まだ、その段階ではない。
「補助を出せ」
命じる。
兵を増やし、車輪を押させ、渡河を円滑にする。
遅れは縮まる。
半刻が、わずかに戻る。
だが――
それで終わらない。
後続が、再び遅れる。
別の地点でも、似た報が入る。
渡河ではない。
道である。
わずかなぬかるみ。
わずかな段差。
どれも致命ではない。
だが、同じように、遅れる。
呂明は、歩き出した。
橋から離れ、列の中へと戻る。
修正はなされた。
命令は通った。
それでもなお、残るものがある。
――遅れている。
天秤を思い浮かべる。
量るべきは、重さではない。
均衡。
この流れが、どれほど保たれているか。
どこで歪むか。
測る。
数は、出る。
安定。
維持。
問題なし。
そう示される。
だが、その数は、揺れていた。
わずかに。
だが確かに。
定まらない。
呂明は、目を閉じた。
深くは踏み込まない。
ここで測りすぎれば、逆に見誤る。
そう判断した。
歩みを再開する。
流れを見る。
遅れはある。
だが、崩れてはいない。
まだ、支えられている。
それも確かであった。
「……どこからだ」
呟きは、誰にも届かない。
高所から、その流れを見ている者がいた。
遠い。
だが、十分に近い。
六十万の動きは、隠しきれるものではない。
呂南衡は、目を細めた。
橋は落ちていない。
道も断たれていない。
だが、遅れている。
わずかに。
確実に。
「……通れるか」
誰にともなく問う。
答えは、すでに知っている。
「通れる」
だからこそ、意味がある。
視線を移す。
別の列。
別の道。
同じように、わずかな遅れがある。
連鎖ではない。
だが、孤立もしていない。
呂南衡は、息を吐いた。
「……浅い」
まだ、足りない。
流れは保たれている。
修正されている。
あの程度では、崩れない。
だが――
「見ている」
呟く。
その先にいる者を思い浮かべる。
どれほどで気づくか。
どう動くか。
何を捨て、何を残すか。
それを見るための一手であった。
風が、流れる。
草が揺れ、音が生まれ、すぐに消える。
その中で、呂南衡は静かに立っている。
戦は、まだ始まっていない。
だが――
すでに、触れている。
流れは、続く。
六十万は止まらない。
遅れはある。
だが、崩れない。
その均衡は、まだ保たれていた。
だが――
それは、確実に削られている。
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