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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第十二章 楚天動乱編

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第二百十話 見えざる手

 流れは、保たれていた。


 六十万という質量は、なおも大地を南へと押し出している。足並みは揃い、車列は途切れず、命令は滞ることなく伝わる。


 遅れはある。


 だが、それは崩れには至らない。


 わずかな歪みは生じているはずであった。人がこれだけ集まり、これだけの距離を進めば、必ずどこかに淀みが生まれる。完全な流れなど存在しない。


 それでもなお、止まらない。


 呂明は歩きながら、その理由を測り続けていた。


 補給が届く。


 それは当たり前のことではない。


 荷を引く牛馬の息は荒く、車輪は泥に沈み、革袋は摩耗し、穀は減る。道は均されておらず、天候は選べず、距離は容赦なく人を削る。


 それでも、届く。


 必要な分だけ、過不足なく。


 それが一度や二度ではない。


 日を跨ぎ、距離を重ねても、なお途切れない。


 呂明は一度、歩を緩めた。


 視線は、前ではなく後ろへと向けられる。


 連なる車列。


 揃えられた袋。


 刻印の一致する木箱。


 混ざりのない穀。


 質の揃った矢羽。


 疲労の度合いまで計算されたかのような馬の入れ替え。


 すべてが、整いすぎていた。


 ――違う。


 それは偶然ではない。


 維持されているのではない。


 維持している者がいる。


 呂明は理解していた。


 だが、その理解は“自分がそうしている”という自覚ではない。


 ただ、そうでなければ成立しないと知っているだけである。


 指示を飛ばす。


 わずかな遅れを修正する。


 列を分け、流れを均す。


 それはこれまでと何も変わらない。


 だが、ほんのわずかに違う。


 触れたときの感触が、以前とは異なっていた。


 滑らかすぎる。


 抵抗が、薄い。


 本来ならば、もっと重く、鈍く、歪むはずの流れが、どこまでも素直に整っていく。


 それは効率ではない。


 統制である。


 呂明は、目を細めた。


 誰かが、外から触れている。


 その確信だけが、静かに沈んでいく。


 天秤を思い浮かべる。


 重さを量るためではない。


 均衡を見るためのもの。


 この流れが、どこまで持つか。


 どこで崩れるか。


 測る。


 だが――


 数は、揺れた。


 安定している。


 だが、安定しすぎている。


 持続は可能。


 だが、持続しない。


 矛盾した結果が、同時に現れる。


 呂明は目を閉じる。


 それ以上、深く測ることはしない。


 ここで踏み込めば、何かを見誤る。


 そう判断した。


 流れは続く。


 止まらない。


 止められない。


 それは変わらない。


 だが、その内側に、見えない手が入り込んでいる。


 それだけは、確かであった。


     


 南方。


 楚の陣営から離れた丘の上で、その光景を見ている者がいた。


 軍列は、遠い。


 だが、その動きは隠しようがない。


 地を這うように連なる線は、ただの兵ではない。


 国の形をした流れである。


 呂南衡は、それを見下ろしていた。


 風が吹く。


 草が揺れ、衣がかすかに鳴る。


 その音の中で、彼は目を細める。


 観察しているのではない。


 読んでいる。


 どこから来て、どこへ流れ、どこで滞り、どこで再び動くのか。


 すべてが見えるわけではない。


 だが、十分であった。


 補給を断てばよい。


 そう考えたのは、最初であった。


 道を荒らし、輸送を襲い、流れを切る。


 戦場においては、常道である。


 だが――


 通じない。


 いくつかは成功する。


 車列を遅らせ、荷を奪い、兵を散らす。


 だが、それで終わらない。


 遅れは埋められ、欠けは補われ、流れは何事もなかったかのように再生する。


 個の勝利が、意味を持たない。


 呂南衡は、静かに息を吐いた。


 視線を、さらに奥へと向ける。


 鄴。


 旧韓。


 漢中。


 西涼。


 名としてではない。


 流れとして、それらが繋がっている。


 穀が集まり、道を渡り、兵に届く。


 馬が生まれ、選ばれ、入れ替わる。


 武具が作られ、整えられ、均される。


 それらすべてが、一つの意思のもとに動いている。


 ばらばらではない。


 切り離せない。


 崩すならば、一つでは足りない。


 すべてを同時に崩さなければならない。


 だが、それは――


 人の手で触れられる範囲を超えていた。


 呂南衡は、目を閉じた。


 そして、わずかに笑う。


 理解したからこその笑みであった。


「……違う」


 小さく、呟く。


「これは、軍ではない」


 目を開く。


 その先にあるものを、正しく言葉にする。


「国そのものが、動いている」


 ならば、どうする。


 真正面からぶつかれば、押し潰される。


 削ればいい。


 そう考えた。


 だが、削っても埋まる。


 ならば――


 歪ませるしかない。


 流れそのものを、わずかに狂わせる。


 整いすぎた均衡に、ひびを入れる。


 それが唯一の道であると、呂南衡は理解した。


 そして、もう一つ。


 この構造を作り上げている者の存在。


 それを、彼は知っている。


 報告があったわけではない。


 だが、分かる。


 思考の流れ。


 選び方。


 捨て方。


 その癖は、あまりにもよく似ている。


 似すぎている。


「……父上」


 名は呼ばない。


 呼ぶ必要がない。


 すでに、確信している。


 この戦の内側で、流れを支えている者。


 それが誰であるかを。


 風が、止んだ。


 草が揺れを止め、音が消える。


 その静寂の中で、呂南衡は一歩だけ下がる。


 前に出る戦ではない。


 ここから先は、削る戦である。


     


 流れは、なおも続いていた。


 六十万は崩れない。


 乱れは生じる。


 だが、それは瞬時に均される。


 見えない手が、それを整えている。


 誰もそれを知らない。


 知る必要もない。


 ただ進めばよい。


 それだけで、この軍は前へと押し出される。


 呂明は歩いていた。


 変わらぬ速度で、変わらぬ視線で、流れを追う。


 だが、その内側で、わずかな確信だけが残っている。


 外から触れられている。


 崩されようとしている。


 それでも――


 まだ、崩れない。


 六十万は、動いている。


 それを支えるものは、あまりにも強固であった。


 そして――


 その強さを、最も正しく理解している者が、敵の側にいた。

数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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