第五十六話 再び訪れた求婚
王宮の舞踏会ホールを抜け出し、外の階段を下りた先に広がるのは、左右対象の平面幾何学式の美しい緑の芝生が広がる王宮庭園。要所に置かれた華美な噴水をはじめとする石造りのオブジェや、色味鮮やかなバラの花がこの広い庭園に程よいアクセントとなっている。
広さのせいか、本当に非常にシンプルにも見える庭園だ。だが、ブライアンに手を引かれ歩くこの庭園を、陽の光の下で同じように散歩すればさぞ心地よいだろうとミランダは密かに想いを馳せ、思わずその頬を緩ませた。
そっと繋がれた手を辿るように見上げたブライアンの後ろ姿。どんなところでもその存在を失わない赤はもちろん、その下に広がるのはミランダの大好きな逞しい背中だ。その背でこの国を守り、人々の生活を背負い、そしてミランダを助け出してくれた優しい背中。初めて会った時から安心感を与えてくれたそれだが、今のミランダはそれに触れたくて堪らない。
ーこの人を支えたい…
そんなミランダが見つめる視線に気がついたように、ブライアンが顔だけ振り返り、ミランダに小さく首を傾げた。
「なんだ?」
「いえ、お庭に出てしまって良かったのかと思いまして。…ブライアン様と私は、婚約者ではありませんから」
「…………バルコニーなら良かったか?」
なんとなく気恥ずかしくて誤魔化すように出た少し意地悪な言葉。そんなミランダの悪戯っ子な物言いに、ブライアンも片眉を上げ、態とらしく戯けた言葉を返し、それにミランダも小さく肩を竦める。
気軽で、心地よい言葉の応酬。
最初は気負いすぎて会話するたびに疲れていたのに、今はもう、ブライアンとの小さなやりとりがミランダにとってかけがえのないものとなっていた。
「ブライアン様…」
「なんだ?」
「好きです」
そんな軽い会話のままにさらりと溢したミランダの告白。それに、思わず足を止めたブライアン。目を見開き、振り返ったブライアンに、ミランダはクスクスと笑みを浮かべる。
「前もお伝えしたはずですけど?」
「……あの時は本当に聞こえるかの小声だった」
照れ臭そうに、そんな屁理屈を言い返すブライアン。そんな耳元が赤くなったブライアンを、ミランダは目を細め、愛おしげに見つめた。
風がふわりと頬を撫でた。
春を終え、シーズンの終わりに近づいた風は、夜でも暖かく、2人を見守ってくれている。
「ミランダ、」
ブライアンの真剣な声に、今度はミランダは小さく首を傾けた。そんな彼女をじっと見つめたまま、ブライアンは繋いだままのミランダの手をそっと両手で包み込み、その場に片膝をついてミランダを見上げる。そうしてミランダを見つめるブライアンの瞳を、ミランダは前から知っていた。ずっと、ミランダをどんな時も見つめ続けた、太陽のような優しさと、触れるだけで焼き尽くされそうな熱情を含んだ、強く焦がれる男の眼差しだ。
「これから先、ずっと君と一緒に歩いていきたい」
相変わらず簡潔な言葉。
でも、それが意味することは全てそのブルーグレーの瞳が語っている。
思えばミランダは、マキューリオ伯爵家でこの瞳に見つめられた時から、ずっと囚われてきたのだろう。お姫様が王子様に一目で恋をしたように、ミランダはこの瞳に焦がされ、恋に落とされた。
出会ってしまった時点で、ミランダがどんなに誤魔化しても、それはきっと変わらなかった運命だった。そんなことを思いながらも、湧き上がる胸を満たしていくようなその感情が、ミランダの心を震わせ、嬉し涙となってその深緑の瞳から零れ落ちる。
ミランダの心などとうに決まっていた。もう迷いもしない。
ブライアンにとってミランダがそうであるように、ミランダにとってもブライアンは唯一なのだ。
涙が溢れるばかりで、言葉が出ないミランダ。それを仕方ないと愛おしそうに立ち上がり、涙を指の背で掬いとるブライアン。涙が止まらなくなってしまったミランダを"安心させる"ように、ブライアンはまた言葉を続ける。
「大丈夫だ。君に苦労はさせない。俺は君との婚約を発表するタイミングで、王位を捨て、臣下に降ると国王との話し合いで決まっている。その方がミランダも、君らしく生きれるだろう。俺も、そんなミランダを隣で見ていたいしな」
優しい声だった。
今までミランダが聞いたどの言葉よりも甘美で、ブライアンの熱が灯された言葉だった。
しかし、その言葉に、ミランダはピタリッと固まった。思わず、涙が溢れていることも忘れ、潤んだ瞳を溢れんばかりに見開き、目の前のブライアンの顔を真っ直ぐに見つめた。
浮かれていたのだろう。普段ならミランダの表情を読み間違えないブライアンが、それを純粋な驚きからくるものだろうと、苦笑いを浮かべながら冗談を言う。
「君の憧れた"王子様"ではなくなってしまうが」
ブライアンのミランダの変化にも気がつかない、そんな軽口に、ミランダは言いようもない憤りを感じ始める。
ー本当に…この人はっ!!
ブライアンはいつもそうだ。いつもミランダのことを優先し、自分のことは二の次なのだ。朝のお茶会だって、忙しい合間を縫ってなんとか時間を空けているようなものだった。ミランダが不機嫌になり、お詫びで城下町に出た時だってそうだろう。社交にも普段はあまり出ないのに、ミランダの出る夜会には必ず顔を出していた。噂だって、ミランダが傷つかないように苦心していた。そして何より、マクスウェル侯爵家の騒動で自分が一番忙しくて大変なのに、最後までミランダのことを気にしていた。
ーなんで、いつも、いつもいつもいつも……
ミランダはブライアンを支えたいのだ。共に人生を歩んでいきたいのだ。ブライアンに甘やかされ、囲われ、寄り掛かってまで幸せになりたいとは、1ミリだって思っていない。
ーなんで私の為に…今まで自分の努力してきたことをっ!!
ミランダは怒っていた。
それはもう頭からは湯気が出ているのではないかと言うくらい顔を真っ赤に染め、掴まれていない手を握り込み、怒りで体を戦慄かせて、全身でその怒りを表現していた。
そんなミランダの異変で、ブライアンは初めてミランダが怒っていると気がつき、狼狽えた。
「ミ、ミランダっ?」
ブライアンの少し上擦った呼びかけに、ミランダは真っ向から怒りに燃えた深緑の瞳で、ブライアンを睨み上げる。
「ブライアン様、私………とても怒っております」
そのギラギラとした光を放つ瞳と、怖い顔に反して、ミランダの声は低く、淡々とその心を語っている。
そんな怒り心頭なミランダの様子に、ブライアンは息を呑み、何も言えずに固まっていた。
「貴方様はいつもそうです。私に何も話さず先回りして…私を、籠の鳥にでもなさりたいんでしょうか?」
一度言葉にしてしまったらもう止まらない。ミランダの怒りは悲しみは、どんどんその心で膨れ上がり、噴火し、それは激しさを増して暴れ回る。
「私、確かにブライアン様に言いました。お慕いしていますと、好きですと。でも、だからと言って貴方様に守ってとも、甘やかしてとも一言だって言っておりません。むしろ私は、貴方を支えたくて、もっと精進しなければと思っていましたのにっ!!」
そこで、ミランダは一度言葉を区切り、自身の心を必死に落ち着けようと、深く深く息を吐き出した。しかしそんなため息にも、ブライアンはビクッと小さく身体を震わせる。
「…頭を冷やしてくださいませ。そして、私が何に対して怒っているのか、きちんとブライアン様が理解されるまで、将来のことは保留とさせて頂きます。私も今、平静な態度が取れませんので、今日はこれで失礼させて頂きます」
そうブライアンが聞いたこともない低く絞り出すような声でミランダは一息で言い切ると、その勢いのまま掴まれた手を振り払い、そのままブライアンに背を向け、どんどん離れていく。
茫然とそれを見つめていたブライアン。しかし、すぐに正気を取り戻したブライアンは慌ててミランダの背中を追いかける。
「待て、ミランダっ」
「ついてこないでっ!」
「王宮でも1人は危ないっ!送るっ」
「……勝手になさってくださいっ」
静かなはずだった夜の庭園が、2人のそんな言い合いのせいで、ほんの少し騒がしくなり始める。
その後、当然のようにラストダンスを踊ると思われた2人が、まさかそれよりずっと前に2人揃って会場を後にしたことで、別の騒ぎが王宮に巻き起こしたのはそのしばらく後のことだった。




