第四十一話 月夜の迷子を照らす光
ミランダが目を覚ますと、また日が沈み、夜が訪れていた。
どんなに眠りたくないと願っても、限界を過ぎれば身体は正直、気がつくと意識が飛んでいる。たぶん、何も食べれてないのもあるのだろう。食べ物が喉を通らない今、身体は手っ取り早く手に入る睡眠という欲求に、その全てを委ねているのだ。
一睡もせずに迎えたあの日の朝、ミランダはいつもよりほんの少し早く朝食を作り、掃除をし、アルフレッドとダニエルが起きるのを待とうと思っていた。そう、思っていたのだ。けれど、その時間が近づくにつれ、ミランダは怖くなった。
ー自分の口から、あの男との婚約のことを話さないといけないのは…
嫌だった、それを話すのが。
怖かった、2人にも見捨てられるのが。
アルフレッドが泣きながらどうしようもないのだとミランダに訴えたら、ミランダはきっと受け入れざるを得ない。ダニエルがメルロー子爵家存続のためにやむを得ないと判断し、またミランダを突き放したら、ミランダはそれに追い縋ることはできない。
2人に、"ミランダだから大丈夫"と言われてしまったら、もうミランダは"良い子"のミランダでいるしかなかった。
だから、逃げた。
2人から、現実から。
嫌だと、アイツが憎いと、汚い感情を晒して"要らない子"として2人に切り捨てられるくらいなら、自分の心が閉じるのを待って、"良い子"で全てを受け入れたかった。
だから、外でアルフレッドが泣いていても、ダニエルが切実に訴えても、
そして、
ブライアンが必死に、『心配だ、無事を確認させてくれ』と懇願しても、ミランダは外へ出なかったし、出れなかった。
ブライアンに会ったら最後、ミランダはなりふり構わず彼に縋って、助けを求めてしまうだろう。そして、彼に溺れてしまうだろう。
そして何より、負の感情に囚われた自分をブライアンに見られるのは、ミランダには絶対に耐えられなかった。
ーもし、アイツみたいに、私の汚い心を見たブライアン様が"要らない"と言って私を切り捨てたら?
想像するだけでも、死にたくなるほど辛く、苦しかった。
だったらブライアンには決して会わず、マクスウェル家に嫁ぎ、あの一家を道連れに死んだ方がよっぽどマシだった。
夜は特に怖かった。
暗い部屋にひとりでいると、ずっと心細くて、寂しくて、もうない温もりを探して、ミランダは自分の手を握り込んでしまう。どんどん薄くなっていく指の噛み跡。それがブライアンとの関わりを表すようで、ミランダは気が狂いそうになる。
寝てしまってブライアンの夢など見た日には、もう耐えられなくなると思うと、ベッドに横になることさえ躊躇した。
深夜をまわり、皆が寝静まったと確信してから、ミランダはいつもノロノロと屋敷を徘徊する。
キッチンに行き明日の朝食を作り、溜まっていた洗濯物をとりあえず洗って干し、目についた部分を掃除する。動いてないと考え込んでしまってダメなのだ。昼間、意識を失う時以外に聴こえてくる声を。扉の向こうにあるであろう温もりを。
聞いたらダメだ、考えたらダメだと思うのに、耳を塞ぎ、目を閉じてもミランダの欲深い心は容易くそちらへと反応する。
アルフレッドにギュッと抱きしめて欲しかった。ダニエルの手に頭を撫で欲しかった。ハンナに笑いかけて欲しかった。でも、それ以上に、ブライアンに手を繋いで、優しく微笑み、自分の名を呼んで貰いたかった。
でも、それはミランダが良い子だった時に貰えたもの。こんなに負の感情に染まったミランダには、受け取ることが出来ないもの。
ーなら、せめて、彼らには…軽蔑されたくない。見捨てられたくない。
ひとりの夜はとても寒い。
ネグリジェだけだと容易く凍える身体の上から毛糸で作った上着を羽織り、ミランダは今日もまた誰もいないメルロー家の廊下へと滑り込む。色々動き出す前に、未練がましく縋りたがる、醜い心を慰めるため、ミランダは必ずそこを訪れていた。
自分の部屋のすぐ隣、時間の止まった姉の部屋を。
小さな音を立て、月明かりに照らされたアメリアの部屋へとミランダは足を踏み入れる。
そこはいつも通り、悲しいくらいに静かだった。
昨日と何も変わっていない、アメリアの部屋。彼女の机に置かれた日記に手を滑らせ、またミランダは思うのだ。
ー姉様は、どうだったのだろう。
そこに書かれているのは、ミランダも知らなかったアメリアの心。そして、今のミランダと同じように苦しんでいた姉の苦悩。
7年前にも1度目にしていたはずなのに、今になって当時の姉の気持ちがミランダには気になって仕方がない。
ー姉さんはなぜ、そんなに強くいられたの?
そして、ミランダの予想が正しいのなら…
「…ミランダ」
その声に、ミランダは思考を停止した。
いるはずのない声だ。
ここはメルロー子爵家。アメリアの部屋。時刻は日付の境をとうに回っている。
ミランダは怖くなって身を竦め、自分を隠すように両手で自信を抱きしめた。
そんなことをしても意味はない。それでも、この声が幻聴だとしても、ミランダはそちらを見たくなかったし、今の醜い自分を見られたくはなかった。
ーなんで…
神様はミランダにどこまでも意地悪だ。こうしてもう手を伸ばせないのに、ミランダの欲しいものを平然と見せつける。
コツ、コツ、と固い靴のかかとの音まで耳に聞こえてくる。
ミランダはそれを拒否するように、目をギュッと瞑り、耳を塞いだ。そうでもしなければその存在を確かめようと、手を伸ばしてしまうから。
身を竦め、身体を震わせ、自分を守るようにして拒絶するミランダ。
その背後で、それは確かに立ち止まった。
「ミランダ」
身体の芯が震えた。
ミランダのずっと望んでいた彼の声に。
それでもミランダは手を伸ばすまいと、じっと己を抑え込む。
「…触れるぞ。嫌なら抵抗しろ」
その声はそんなことを言って、幻影のくせにミランダのことを後ろからそっと抱きしめた。
知っている香りだった。
知っている温もりだった。
そして何より知っている腕の中だった。
あの逞しい腕から差し伸べられる広い掌を何度取りたいと願ったか。
その大きく暖かい、優しい掌が、ミランダの頭をそっと撫でる。
幻聴でも、幻影でもない、
彼は、ミランダのずっと会いたくて、恋しかった…
未練がましくも求めていた彼だった。
「いや、だ…」
癇癪を起こし始めた子供のような声。
そう口では抵抗するのに、ミランダの汚い心は縋るように手を握り込み、その腕にしがみついている。
「…何が嫌だ?」
優しく諭すようなブライアンの声。
それをミランダは耳元で聞きながら、言いたくないと首を振る。
ー口にしたら最後、きっと彼は私を切り捨てる…
しかし、ブライアンは口だけで嫌がるミランダを離してくれるわけはなく、そのまま、もう一度「何が嫌だ?」と言葉を続ける。
ー嘘つき…話したらきっと私を"要らない"って言うくせに、
ギュッと唇を引き結ぶミランダ。
そんな彼女の頭を撫でながら、ブライアンは静かに彼女を宥めようとする。
「大丈夫だ…言っていいんだ。嫌なこと…全部俺にぶつけろ」
変わらず、そうやってミランダに甘く囁きかけるブライアンの誘惑。
それに耐えきれなかったようにミランダはその腕を振り払い、ブライアンの方に振り返り睨みつけた。
「うそつきっ!言ったら私を見捨てるくせにっ!!」
「見捨てない」
「うそよっ、……嫌われたくないっ」
睨んでいるくせに、眉は下がり、今にも泣き出しそうな顔でブライアンを詰ってはその胸を叩くミランダ。しかし、それはすぐに力ないものとなり、ブライアンの胸に額をつけて、俯いていく。
それをまたブライアンはそっと抱き寄せながら、「嫌う訳ないだろう」とミランダにゆっくり言い聞かせる。
「言っただろう。…ミランダの"全部"が好きなんだと。…"ミランダ"が欲しいのだと」
その言葉にミランダはノロノロと顔を上げた。そこにあるのは迷子で、不安で泣き出しそうな、そんな子供の表情をした"ミランダ"。
「君がその心が嫌いでも、俺には全て好ましい。…だから全部俺に寄越せ。もうひとりで、我慢しなくていいから」
そう言って優しくミランダを見下ろし、笑うブライアン。
「……嫌いにならない?」
「あぁ、」
「……見捨てたりしない?」
「もう離してやる気はないな」
「………本当に?」
「あぁ。だから…もう、泣いていい」
その言葉を最後にミランダの深緑の瞳はみるみる水で膜を張り、溢れ出すように涙を零し始めた。静かにしゃくり出すようなそれが、次第に声を伴い、終いには子供のように感情のつくままに泣いてはブライアンに縋り付く。
「もぅ、ひとりはやなのっ」
「あぁ、」
「きずつきたくないっ…」
「あぁ、」
そうして床に崩れていくミランダの体を支えながら、それに合わせるようにブライアンも床に座り込み、自分の膝の上へとミランダを引き上げ、抱きしめた。
「大丈夫だ。ずっとそばにいるから…」
ミランダはその言葉に涙でぐしゃぐしゃになったまま、小さく頷き、ブライアンの首へと腕を回した。
ずっと掴みたかった。抱きつきたかった。大好きな人の確かな温もり。
月明かりの差し込む、静かな部屋で、ミランダは今までの涙を全て吐き出すように、ずっと泣き続けた。




