第三十五話 少女と時を止めた部屋
昔話をしよう。
アメリアという娘と、レイモンドという青年、
そして、そんな2人に憧れた少女の話だ。
アメリアは誰もを惹きつけるような艶やかな魅力を持ちながら、子供のように純粋な直向きさで懸命に生きる、太陽のような笑顔が素敵な人であった。
レイモンドは騎士でありながらと冴え渡る月のような冷たく美しい容姿を持つ、高貴な家柄の嫡男で、その皮肉な物言いと共に人々を遠ざけてしまう、不器用な人であった。
見た目には両者美しく、似合いと言われたふたり。しかし、その中身はあまり似ていない、正反対の印象を持つふたり。
少女が姉であるアメリアにレイモンドを紹介されたのは、温かな日差しが少し蒸しばむものへと変わり始めた、青葉煌めく季節。
姉に紹介されたその人を、少女は王子様のようだと思った。
陽の光に当たりきらきらと輝く銀髪は、妖精の粉がかかっているかのように綺麗だった。
翡翠色の瞳は、この季節にふさわしい柔らかな色でありながら、涼やかさを感じさせる不思議な目だった。
自分より、姉より、ずっと高い身長はあんなに大きかったら、どんな景色が見えるのだろうと想像して、ワクワクした。
何よりその声だった。
『…お前が、ミランダか』
なんとも惹かれる響きを持つ、容姿違わぬ美しい声だった。しかし、その言葉は少し意地悪く、捻くれて、悲しく聞こえた。
でも、そう言って迷うように頭へと伸び、そっと少女の髪を撫でた大きな掌は暖かく、何かに怯えるように震え、ぎこちなかったがとても優しかった。
それが、少女には嬉しかった。
少女にも兄がいるが、彼はこんな風に少女に構ってくれることはなかった。嫌われてるわけではないはずだが、ふたりには少女が生まれてから決して縮まることのない距離が存在していた。だから、その理由を知る少女は、そんな兄には遠慮して、甘えることも、その手に触れることもできなかったのだ。
だから、嬉しかったのだ。
父とも違う、姉とも違う、
兄のような年頃の男の人が、こうして戸惑いながらも歩み寄ってくれることが、少女にはとても新鮮で、嬉しかったのだ。
少女は当然のようにレイモンドに懐いた。
彼がどんなに皮肉を言おうと、その手が優しいことを知っているから。
彼がどんなに冷たい目で見ようと、その瞳が戸惑いで揺れてるのだと知ってるから。
何より彼と姉が隣り合い、手を繋いで歩いている姿は、胸が暖かくなるような何かがあった。
大好きな姉であり、母のような、優しいアメリア、
不器用だけど、優しい、美しいレイモンド、
少女は物語の"姫"と"王子"にふたりを擬え、彼らに強く憧れたのだ。
だから、ふたりがしばらくして婚約したことを知った時、少女は誰よりも喜び、彼らを祝福した。
彼女が彼の隣で幸せそうに笑うのが、
そんな彼女から、照れ臭そうに彼が目を逸らし眉間に皺を寄せるのが、
きちんと2人、離れないように手を繋いでいるのが、
少女にとってそれが、ほかの何よりも美しい、幸せな光景。
でもそれと同時に少女は少し、不思議に思ってもいた。
アメリアは物語のお姫様に相応しいのに、レイモンドは王子様というには難のある人だと。
『姉様はなぜレイ兄様を選んだの?レイ兄様はいつも私に意地悪言うのよ?』
もっと優しい人じゃなくていいのか?と。
もちろん少女は不器用なレイモンドのことは嫌いじゃない。むしろ大好きだ。
けれど、少女の憧れる姉の相手にしては、少し釣り合ってないような気がしていたのだ。
そう訊ねた少女に、アメリアはキョトンとした顔をした。
『そうねぇ…考えたことなかったわ』
小さく笑うアメリア。
彼女はそのまま少女を自分の膝の上に抱き上げると、内緒話をするように悪戯っ子な笑みを覗かせ、あることを教えてくれた。
『あの人はね、誰よりも寂しがり屋なのよ。でも、素直じゃないの。姉さんはね、そんなレイだから堪らなく愛しいの。…幸せにしてあげたいのよ』
アメリアの言葉の意味が全てわかるわけではなかったが、少女にも姉の言うことはなんとなくわかる気がした。
"好き"というのは理屈じゃない。
きっと姉は彼だから好きになったのだと。
『じゃあ、姉様にとってレイモンドはたった1人の"王子様"?』
『そうね…随分捻くれ屋の王子様だけどね〜』
クスクスと笑うアメリア。
そんな姉に自然と笑顔を浮かべる少女。
幸せになって欲しかった。
幸せになると信じていた。
大好きな2人が手を取り合い、笑い合う未来を夢見ていた。
大好きだったのだ。
メルロー子爵家の小さな屋敷には開かずの間が存在する。一階の奥、ミランダの私室のすぐ隣。
鍵は付いていない。それでも、家族の皆がその部屋を訪ねることを躊躇ってしまう。
夜会からどのように帰ってきたのか、ミランダは殆ど覚えていない。ただ、行きに会場へと送ってもらった少年と何か話した記憶はある。
グリーンフィールド公爵家に連れて行ってくれたグレースのこと、エスコートしてくれたセオドアのこと、和む会話を振ってくれたユージーンのこと。ミランダが会いに行ったディアナのこと、そしてそこに現れたブライアンのこと…
何もかもが今は考えられなかった。
心を埋め尽くすのは負の感情。
ずっと溜め込んでいた真っ黒なそれが、ドロドロと全てを飲み込んで行くそんな感覚。
ーもう………なにも、わかりたくない…
カチャリと音を立て、ドアは簡単に開いた。
少し埃っぽい、でも何も変わらない白と緑の色合いで纏まった優しい部屋だ。いつもこの部屋はお日様の香りに満ち、部屋の主人がふんわりと笑って出迎えていた。
しかし、もう7年経った。
誰もいない月明かりに照らされたこの部屋が、かつての形相を取り戻すことはない。
1番奥にある大きなガラス張りの窓。その近くにあるベッドには彼女自慢のレース編みの材料が今でも転がっている。
その隣には鏡台とオープンクローゼット。少しずつ集めた化粧品を大切に使い、自らを彩っていた彼女。少し面倒くさがりなところがあり、パッと見てすぐにドレスを出せるこのクローゼットを気に入っていた。特に彼女の気に入っていた4着のドレスは今もまだそこへ留まっている。
その向かい、入り口すぐ手前にあるのは彼女の文机。少し埃の溜まったその机の上から、ミランダはあるものを手に取った。赤、青、緑の深い色合いをした、古書を思わせる装丁の鍵付きの本。
その1冊、緑のものの背表紙を撫でながら、ミランダはそっと唇を噛みしめ、瞳をギュッと閉じる。
その裏表紙、下の端に記された名前はアメリア メルロー。
彼女のいなくなったこの部屋は、まだあの時から動けずにいる。




