第三十四話 満月の再開
変わりたいと願う時、天は、その者の心を試すでしょう。
「久しぶりじゃないか」
暗闇に染まった廊下に、笑い声とともに響くその美しい男の声に、ミランダは身を固くした。
ーそんな、まさか………
「見ない間にまた随分綺麗になった。お前の、情けない家族連中もさぞ鼻が高いことだろう」
雲が切れ、月明かりがガラス窓から差し込んでくる。
浮かび上がるのはスラリと背が高く、細身でしなやかなシルエット。さらさらと指通りの良さそうな銀髪に、若葉を思わせる第一王子にもそっくりと言われる翡翠の瞳。スッと高い鼻の下で、皮肉げに歪められた唇は薄く、それらを合わせた顔の造形は舞台役者のように整っていた。
冷たく突き放すような皮肉まじりの口調に反し、その声は聞くものすべてを魅了するような、とても艶っぽい響きをしている。
その顔を何度も見た。
その声を何度も聞いた。
たった1年と少し。
実際にはもっと短い期間しか関わらなかった。
それなのに、嫌と言うほどこの男の存在が、ミランダの心に住みついて離れないのだ。
ミランダの全てを塗り変えてしまった男。
ーなぜ都合よく忘れようとしたのか。なぜ今まで平然と、この感情を燻らせ、飼い殺してられたのか…
今まで忘れ去っていたあの時の、あの激情が、また蘇ったようにミランダのその身を駆け巡り、必死に抑え込んでいた負の感情を次々と暴いては目覚めさせていく。
ー本当は、一時だって忘れてはいけなかったのよ…
レイモンド カイル マクスウェル。
マクスウェル侯爵家次期当主。
現在の年齢は確か27歳。
そして、
"アメリア"の元婚約者。
ミランダが憎くて憎くて憎くて、
許せない、最低最悪な男。
大好きな姉、アメリアの、
たった1人の"王子様"。
「………なんの御用でしょう、マクスウェル侯爵家次期当主様」
思ったよりも冷静な言葉がミランダの口からついて出た。しかしその声は憎しみで低く、冷たく震えている。
「フッ、随分余所余所しいな。それが仮にも家族になるはずだった相手にする態度か?」
「…随分と質の悪いご冗談ですこと」
アメリアが死んでから、マクスウェル侯爵家もメルロー子爵家もあからさまではないにしろ、接触することを互いに避けていた。
それはマクスウェル侯爵家からメルロー子爵家への要望という名の脅しのせいであり、メルロー子爵家全員の意志でもあった。
ミランダが社交の場にあまり出たくない理由、その本当の原因は彼らマクスウェル侯爵家であり、特に、目の前の男に会うことを、ミランダは極端に恐れ、そして毛嫌いしていた。
「御前失礼致しました。そちらは"わざわざ"我が家に『あまり周囲を彷徨くな』と要望するくらいです。今、この対面も不服でございましょう。速やかに退散させていただきます」
レイモンドが靴音を響かせ歩いてくるのを牽制する様に、低く、凍てつくような声でミランダはそう口にすると、非の打ち所のない礼を披露し、すぐさまドレスを翻して立ち去ろうとした。
しかし、それは叶わず、あっという間に距離は詰められ、レイモンドによってミランダの肘は強い力で捕らえられた。その力はミランダをその場に留め置いてもなお緩まることはなく、そのままレイモンドはミランダを強引に振り向かせ、彼女の動きを封じる。
「イッッ、…何かまだご用でも?」
「なに、素気無い令嬢を引き留めただけだが?」
肘を締め上げる痛みに声を漏らすのをなんとか堪え、ミランダは懸命にレイモンドを睨みつける。
そんなミランダをニヤニヤと高慢ちきな顔で見下ろしながら、レイモンドは白々しい言葉を口にする。
「離してください」
「嫌だね」
「…っ、大声を出しますよ」
「それで困るのはお前だろ?"王太子と恋仲になりながら、侯爵家の子息にも粉をかける悪女"。そんな悪評立てられたくないだろう?」
レイモンドの身の毛のよだつような猫撫で声に、ミランダは激しく嫌悪の色を滲ませる。
「まぁ、でも、お前には似合いの評価かもなぁ?女の武器を使うことしか能のない、あの男好きの……妹だ。血が繋がってるから、性根は似てるかも…」
「アンタにっ!!姉様を愚弄する権利はないっ!!」
怒りから、肘を掴まれていた手腕を乱暴に振り払い、大声を上げるミランダ。抑えきれない憎しみが華奢な肩をワナワナと震わせ、普段は平然と貼り付けているはずの淑女の仮面がいとも簡単に崩れ去る。
「チッ…何しやがる。随分といい評価がつくくらいだ。昔より大人しくなったかと思えば、メッキの下は変わらずのじゃじゃ馬じゃないか。やはりどんなに取り繕っても、下賤な下級貴族の血。のうのうと生きているハイエナがっ」
「うるさいっ!それ以上、姉様と私の家族を貶めるようなら容赦しないわよっ」
「ほぉ〜?小娘風情が何が出来る?」
そう言って、再びミランダの手、正確には治療してもらったばかりの指と顎を強く掴み、近くの壁へと彼女を拘束したレイモンド。ジリジリと近づいてくる憎い男の顔を、ミランダは指から這い上がってくる痛みに耐えながら、必死に強く睨みつける。
その顔の蔑んだ表情で見るだけで、その声でアメリアのことを侮辱するのを聞くだけで、心の内に仕舞い込み、鍵を掛け、それでもひたすらに暴れ出そうとするのを抑えていたものが蘇ってくるのだ。
ーアネヲミステタ、アネヲコロシタ、コノオトコガ、コロシタイホド…ニクイ
「アンタを殺すわ。アンタと、アンタの家族を道連れに、地獄へ堕ちてやるわよっ!父も兄も、たとえそれで爵位が剥奪されようと、仇を取ったなら受け入れてくれるわっ」
「それはそれは、物騒なことで。こんな女に惚れたなんて、ブライアン殿下も可哀想な過去を背負うなぁ」
「ッッッ〜〜〜、アンタには関係ないっ!…一体今頃なんなの?我が家とはもう関わらないと、アナタたちが言ってきたんじゃないっ」
もうミランダの中にはこの男への憎しみしかなかった。しかしそんな頭に血が昇りきった状態でいようと、意外に正論を突きつけてくるミランダに、レイモンドは苦い表情を浮かべる。その顔にはありありと、"非常に不愉快だ"と書かれていた。
「…最近、我が家をコソコソと嗅ぎ回るネズミがいる。お前の差し金じゃないだろうな?」
唐突に耳元に唇を寄せ、声を潜めるようにボリュームを落としたレイモンド。
質問の内容を正しく理解し、ミランダの身体がピクリッと動く。
「…知らないわよっ。自業自得ではないの」
「いいや、知らないはずがない。そのネズミはお前と王太子の噂が出始めると同時に現れた。少なくともお前と関係があるはずだ」
「だからっ、知らないってばっ!!」
そうミランダはレイモンドに吐き捨てると、拘束から逃れるように激しく暴れた。
しかし、すぐにそれに気がついたレイモンドによって、抵抗しようとしたミランダの身体は再び壁へと押しつけられる。
「では話を変えよう。今すぐ、俺と婚約を結べ」
明らかな命令口調でレイモンドに告げられた言葉に、ミランダは目を見開く。
「いきなり、何をっ!」
「はっきり言って、お前に王太子妃になられたらこちらとしても面倒だ。先程王太子と話していただろう?『気持ちに答えてくれないのか』と言われて、お前は答えなかっただろう?…お前にもその気がないなら好都合。俺の婚約者となり、そのまま伴侶となってもらおう。そうすれば周りを彷徨くネズミの牽制にもなるだろう」
「ふざけないでっ!虫唾が走るわ…誰がアンタなんかのっ、ッッツ……」
レイモンドの身勝手すぎる言い分に、反発したミランダ。
しかし、その途中でも、その口を黙らせるようにミランダを掴んでいる手がギリギリと傷口を刺激するようにを締め上げ、ミランダを痛めつける。
「残念ながら、お前に選択権はない」
ギラリッとその外見に似つかわしくない光を宿した翡翠の瞳。
それを目にしながら、ミランダは口惜しげな顔をして、奥歯を強く噛み締める。
「…世の皆様は、死んだ元婚約者の妹を娶った未来の侯爵様を、どんな目で見るでしょうね?」
「強がりのつもりか?…そうだな、表向きはこうしようか。婚約者を失った俺と、親愛の姉を失ったお前。2人は互いに悲しみを乗り越え、支えて合ううちに愛し合うようになり、ついに王太子をはじめとする様々な試練の果てに互いの思いを打ち明け、結婚することを決めた…悪くない筋書きだろう?」
「えぇ、反吐が出るほど良くできているわっ」
ー本当にこの男っ
「前回同様、支度金は要らん。むしろこちらから援助金も同じく付けてやる。お前たちにも悪い話じゃないだろう?」
「…本当に腐ってるわ、アンタ」
「お互い様だ。俺もお前も、お前の家族も、皆同じ穴の狢。違うとは言わせないからなっ!」
そう言って、レイモンドはミランダを床の上へと突き飛ばした。
近衛騎士であるレイモンドの力で、ミランダの細い体など簡単に床へと叩きつけられてしまう。
「…頭の出来と外面は良いんだ。"今度こそ"、"失敗"しないようにするんだな。断るなよ?断ったらお前の大切なものを全て壊してやる。あの王太子だって例外じゃない」
そう偉そうに言い捨てると、レイモンドは冷たい眼差しのまま口元を歪め、1人会場の方へと戻っていった。
ミランダは1人取り残された廊下で、そのまま膝を抱えた。
悔しくて、憎くて、怖くて、悲しくて、許せなくて…ぐちゃぐちゃな気持ちの発露を探せず、静かに声を殺しては涙を零す。
今日の月は、残酷なほど美しい満月だった。




