第三十三話 触れたぬくもり
ブライアンは結局、控室の前まで送るのではなく、控室でミランダが怪我の処置を終えるまで付き添い、ミランダが控室から出るのを見送るまで居座ると言い出した。
「私はもう大丈夫なので、もう温室に戻られては…」
「どうせディアナはこんなことすら予測してる。気にしなくていい」
ミランダはこれ以上はまずいのではと、ブライアンにそう何度も声をかけるのだが、ブライアンは頑なに同じ言葉を繰り返しては控室から出て行こうとしない。
そんな同じ長椅子の両端に座る2人の会話に見向きもせず、公爵家の侍女2人はミランダの化粧直しと噛み傷の治療を淡々と行っていく。
ミランダの化粧は手で目元を擦らなかったおかげかほとんど崩れておらず、指の傷も理性より本能が優先された状態だと思ったほど深くならなかったのか、消毒と傷を塞ぐ包帯だけの処置で済んだ。
気持ちを落ちつけるようにと用意された紅茶は先程の恐怖心を引きずって飲めなかったが、ブライアンが同じ部屋についていてくれるだけで、ミランダの心はもうすっかり落ち着きを取り戻すことが出来ていた。
「…紅茶はいいのか?」
「えぇ…ちょっと飲む気になれなくて」
そう言って困った顔で笑うミランダに、ブライアンすぐ隣まで距離を詰めると、包帯の巻かれた方の手をそっと持ち上げた。
「痛いか?」
「少しじゅくじゅくする感じで…」
ミランダの口にした独特な擬音に、ブライアンは小さく「じゅくじゅく…」と呟き、ミランダの手を取っていない方の手で口元を押さえ、顔を背けた。
「わ、笑わなくてもっっ、他にどう説明していいかわからないんですっ!」
カーッと羞恥で顔を赤くするミランダ。しかし、ブライアンはそんなミランダを見る余裕もなくまだ「じゅくじゅく…」と呟いては若干肩を揺らしながら笑い声を抑えている。
「もうっ!そんな意地悪するなら温室にさっさと行ったらどうですか?」
すっかり拗ねた様子で膨れっ面のままブライアンの手から自分の手を引き抜いたミランダ。
その頃になって漸く笑いの衝動が引いたブライアンは、ふぅーと息を吐き出し、ミランダの手をまた性懲りもなく持ち上げる。
「…行かなくていいんですか?」
「まだ君も戻らないんだろ?それに…まだ言ってないことがある」
ブライアンの言葉に疑問を持ったミランダ。なんだろうと思いながらミランダがゆっくりと視線をブライアンに向ければ、彼は目元を和らげた柔らかい表情でミランダを見つめていた。
「…綺麗だ。………正直、今日君をエスコートしたセオドアに嫉妬した」
予想してなかった突然の褒め言葉に、ミランダの体温はまたまた急上昇し始める。
「…な、なんで……こんなタイミング、ですか?」
「まだ、口説いてる最中だからな。思ったからには伝えるべきだ」
「そ、そうですか…」
やはりまだ理性が普段より緩いのか、思ったことそのまま聞いてしまったミランダに、ブライアンはなんてことない答えを返すように、言葉を紡ぐ。
またまた追い詰められ、思わず俯いて顔を隠したミランダ。そんなミランダを静かに見つめ、ブライアンは小さく瞼を伏せる。
どれくらい経ってからだろう。
ブライアンが掴んだままだったミランダの手を引き、ゆっくりと控室のドアへと歩き始める。
「もう行かないと…互いに駄目だな」
「…はい」
互いに、わかっているのに離れ難くなっているのは、きっとたった一度抱きしめた、抱きしめられた、あの温もりが残っているから。
どんなにゆっくり歩いても、控室の外へはすぐにたどり着いてしまった。そうなれば、2人はそれぞれ反対方へと向かわないといけない。
意を決してミランダが「では、」と、繋いでいた手を離そうとするのを、ブライアンは咄嗟に捕まえ直し、その華奢な手をそっと引き止めた。
「ミランダっ、」
先ほども呼ばれた、敬称も何もついていない、彼女の名前。それだけで、ミランダの心はギュッと切ない音を鳴らす。
「やはりまだ………俺の気持ちに、答えられないか?」
ミランダの瞳を上から覗き込む、ブルーグレーの瞳が揺れている。
咄嗟に開きかけたミランダの唇。しかし、それは淡く開いただけで、それ以上何も言葉を発することはなかった。ミランダは眉を寄せ、唇を強く噛み締めると、また視線を掴まれた手の方へと落としていく。
ー言えない…
先程の、温室での出来事が、
たとえ、ミランダを揺さぶるために言った事だったとしても、ミランダの不安を激しく揺さぶるのだ。
ー私の気持ちが…この人を不幸にしてしまったら……
前に踏み出そうと、勇気が欲しいと、そう決意して願ったそばから、ミランダはこうも簡単に臆病になってしまう。
ー好きだけど、溺れたくはない。好きだけど……不幸を、望んではいない。
「…大丈夫だ」
そんな何も答えられないミランダを甘やかすように、ブライアンはまたそんな言葉でミランダを慰める。
「…廊下は冷える。早く戻った方がいい」
「…………はい」
気遣う言葉とともにそっと離された手を、ミランダは自身の胸の上にギュッと押し付ける。また何もできず甘えているだけの自分が、心苦しくて、胸が痛い。
ブライアンはそれを静かに見つめたのち、何も言わずにそのまま温室へと戻って行った。ミランダはそれをしばらく見送ったあと、くるりと方向を変え、近くに控えていた先程の侍女たちに声をかける。
「1人で戻れるので、大丈夫です。ありがとうございました」
ミランダの言葉に、2人の侍女は何も言わず、ただ静かにお辞儀を返す。
ミランダはひとりになりたかった。
ひとりになって、気持ちを少し心を整理してから会場へと戻りたかった。
ミランダは行きと同じ道をとぼとぼと歩きながら薄く息を吐き出し、心細さを落ち着けようと努力する。
ー寒い…
とくに今夜が冷えているわけでもないのに、さっきまでブライアンに握ってもらっていた右手が、何故か冷たく、傷の痛みが鮮明に疼くのだ。
そんな事実が、もう自分が戻れないところに来ているようで、ミランダをとても不安な気持ちにさせる。
ーいっそもう堕ちてしまおうか…
そんな悪魔の囁きがミランダの心にふと過ぎる。
それはなんとも甘美な誘惑だ。
ブライアンの都合も、王国の都合も、その他周りの都合もすべてもちろんのこと、自分の恐怖心さえも捨て去って、ただブライアンのことを思えたら…そこまで思考して、当然思い起こすのは姉、アメリアのこと。
アメリアの、悲惨な最後の姿が目の前にフラッシュバックしては、それをかき消すように、ミランダは目を閉じ、緩くと首を振った。
暫くの沈黙ののち、深く吐き出された溜息。
その重苦しさを振り切りように、また一度ミランダは首を横に振る。
ミランダは切り替えるように顔を上げ、そのまま足の歩調を早めて、会場にひたすらに進む。
しばらくして、会場まであと少しという廊下の窓ガラスから中庭の見える辺りに差し掛かったところで、ミランダはある異変に気がついた。
ミランダの後を追うように、一定の距離を空けついてくる大きな人影。
サァーッと血の気が引いていく感覚がミランダを襲う。
ーもしかして…
ディアナは"騎士の誓約"をしたが、それはディアナがしたことであってグリーンフィールド公爵がしたものではない。ミランダが会場を後にし、さらにブライアンも姿を消してからどれほどの時間が経っているのか、ミランダは正確に把握していない。
ー消される…かも、しれないわね。
段々と早さ増していく嫌な心臓の音。
ミランダは立ち止まり、胸の前でもうない温もりを求めて自分の手を握り込む。
思い浮かぶのは先程まで隣にいた、ブライアンの顔。
そして、
「…誰です?」
毅然とした声。しっかりと開かれた強い眼差し。
本当は、身体はまた危険に晒されるのかと恐怖に囚われ震えている。それでも、ミランダは下腹にグッと力を込め、はっきりと声を出した。
ー"もし"が、諦められないのなら…立ち向かわなければならない。
逃げ出したくなる自分を抑え込み、ミランダは意を決して"誰もいないはず"の静かな廊下へと振り返った。




