第三十二話 隠したいもの
引き続きご注意を。
ーわたしのせいで、ブライアンさまが…
ヒュー、ヒューと浅くなった呼吸の音が、やけにミランダの身の内で響くようだ。
息が苦しい。上手く空気が取り込めていない。それがわかっていて、正しく呼吸を整えなければとわかっていても、自分のせいでブライアンに迷惑をかけるという"事実"に支配され、ミランダは気持ちを立て直すことが出来なかった。
「…やはり、貴女と殿下は恋仲なのかしら?」
「……………い、いえ、」
「あら?でも、貴女は殿下のことをお慕いしているのよね?」
そのディアナの言葉にミランダの身の内から何かが暴れ出すような、そんな不気味な感覚に、ミランダは咄嗟に口を覆った。
ーだめっ…
何がダメなのか。白く染まり、停滞している思考ではわからなかった。でも、最後に残った理性のかけらが、それを必死に食い止めるようにミランダの言葉を塞いだのだ。
「それではやはり、殿下とは遊び…なのかしら?貴女のご実家は財政が厳しいと言いますし。援助してもらえたらと甘い気持ちがあったのでは?」
ミランダの本能に囁きかけてくるディアナの言葉に、ミランダは何も考えず、泣きそうになりながら首を振った。
ーだめ…だめよ。まだ……おねがいだから…
「違うのかしら?…言葉にしてくれないとわからないわ。ねぇ、ミランダ。貴女は殿下をどう思っているの?」
ディアナの甘く誘うような言葉に、ミランダの心拍数はどんどん上がり、何故か、すべてを曝け出してしまいたいという、衝動にも近い強すぎる欲求が迫り上がる。
そうすればきっと、
ナニモカモ、ラクニナル。
「わ、わたし…」
ミランダは言葉が滑り出た唇を慌てて強く噛みしめた。脳の制御がうまくいかないせいか、強く噛みすぎた唇から、口内へと血の味がじんわりと浸食していく。
「わたし、は…」
それでもなお溢れてくる自身の声を、ミランダは必死にそれを押し止めようと、泣きながら首を振った。
そんな僅かな意識で必死に抵抗するミランダに、ディアナは眉を寄せ、「貴女…」と小さく呟いた。
ーだめ、だめなの。今はまだ。わたしは…わたしは…まだ、何も……覚悟が、
「わたし、は……ブライ、アン…さまが………」
それ以上は絶対にダメだと阻止するように、ミランダは口元を押さえていた手の指を口内を突き入れ、舌を押さえるようにして噛んで押さえた。
奥歯までグッと力を必死に込め、さらに広がる血の味さえも気にせず、息苦しさと痛みによって少し戻ってきた理性で、必死に自分を繋ぎ止める。
ーだめ、まだだめよ。いま、口にしてしまったら…わたしは………
ギュッと視界を閉じ、何もかもから目を背けるようにミランダはとにかく自身の指を噛みしめ、言葉を塞ぐ。
ーあなたに…姉様のように、落ちるだけではダメなの…
その言葉を思い起こしただけで何もかも話してしまいたくなる衝動よりも大きい、ミランダを巣食い続けたあの凄まじい負の恐怖が簡単にそれを上回った。
ミランダの心が、あの"憎しみ"を呼び起こし、すべてを飲み込むような叫びに変わりかけた瞬間。
「ミランダっ!!」
ふわりと心地よい深い森を思わせるその香りに包まれ、ミランダの荒だった感情は急速に落ち着きを取り戻していった。
「ディアナっ!今すぐ温室の天井を開けろっ!!」
聞いたこともない、彼の鋭く怒鳴りつける声が、段々とはっきりとしていく意識とともに、より鮮明に耳に届くようになってくる。
ーブライアン、さま…
自身を覆っている、どこか覚えのある上着を自身の胸元に縋っていた手でギュッと握り、ミランダは必死に涙とともに出そうになる声を押し殺す。
「ディアナっ!これは命令だっ!!」
そんな心臓を竦みあがらせるようなブライアンの怒声を最後に、ミランダに纏わりついていた薔薇の香りが急速に遠ざかっていくのを感じた。
ふわりと上着の隙間から差し込むのは外となんら変わりない、夜の冷たい空気。
肺を入ってくる正常な空気の心地よさに、今まで何か薬のようなものを使われていたのだとようやく理解したミランダは、サッと顔を青ざめさせて震え始める。
ーわたし…わたし……
ガラスの天井が取り払われた空間。そこでようやく正常な感覚を全て取り戻した身体が先程まで置かれていた危機を自覚してしまえば、そう簡単に震えは落ち着かず、むしろ過呼吸も合わさってはそれをより一層悪化させる。
そんなミランダの表情を上着を少しズラして顔を出させて確認したブライアンは、ミランダの呼吸を落ち着かせるようと背を擦りながら、ディアナに射殺さんとするような睨みを聞かせ、「どういうことだっ」と怒りを露わにする。
「…害のあるものは使っておりませんわ。一種の理性の効きを鈍くする、"香り"を利用しただけで」
ディアナは無表情のままそう説明すると、自身のハンカチを胸元の隠しからサッと取り出し、ミランダの口に入れていた方の手にそれを無理やり押し付け、またすぐに距離を取る。
「でも、ここまで抵抗されるとは思いませんでしたわ。素直に話してくだされば、こんなに苦しまずに済んだものを」
「…何故。普通に話を聞けば、彼女は答えたはずだっ」
「殿下はそう思っていても、彼女のことは彼女しかわかりませんもの。上手く揺さぶられて包み隠さず教えてもらった方が、手間はかかりませんもの」
ディアナの淡々とした説明にブライアンは奥歯をグッと噛みしめ、ミランダはビクッと身体を震わせた。
ーもしあのままあの空間にいたら、私は…
ある可能性に思い至り、ミランダは自らの肩をギュッと抱き寄せる。
「自覚させずに終わらせる予定だったので……そこまで怯えさせるつもりなかったわ。ごめんなさいね」
ディアナはそうポツリとミランダに謝罪の言葉をかけると、今度はブライアンに視線を戻す。
「恋仲ではないとこの子から聞きましたわ。では、殿下としては一時の気まぐれですか?」
「違うっ!」
ブライアンの今にも噛み付いてきそうな怒号に、ディアナは「でしょうね…」と小さく呟き、天を仰ぎ見る。
「じゃあ、どうしますの?貴方様は彼女を王妃として迎えるのは厳しいと、わかってらっしゃいますよね?」
「…不可能ではない」
「……不可能ではありませんわ。でも、国は確実に荒れます。貴方様に生まれる前より忠誠を誓う身としましては、より良い治世のためにはっきりと苦言を呈さざるを得ません」
ディアナのその言葉に、今度はブライアンが眉を顰める。
「彼女がまだ伯爵家か、もしくはこの国の血のみを引いていたなら話は別ですが…側妃にする気もありませんのでしょう?」
「あぁ…」
ブライアンはそう断言して、ミランダの涙の跡をそっと人差し指の背で隠すようになぞる。
「…困りましたね」
ディアナは溜息混じりにそう呟くと。少しの間を開けたのち、手を二回叩いて、温室の中に侍女を呼び寄せた。
「そちらの子の化粧直しと、怪我の治療。それから、気分の落ち着くものを出してあげて」
そう言ってミランダを侍女に連れて行かせようとするディアナに、ブライアンは抵抗しようとミランダを、彼女の背にかけた上着ごと腕に抱きしめた。
そんなブライアンの反応に、ディアナは無表情を変えず、じっと見下ろしている。
「…殿下。婚約前の女性にそれはやりすぎです」
「悪いが、君を信用できない」
「それでも早くこの子を会場に返さなければ、父は要らぬ詮索をしてくるでしょう。どうせ殿下は、ろくに挨拶もせずにこちらに飛んできたのでしょうし。父は"少し"先入観の強い、強引な方ですから今度は彼女にどんな被害が及ぶか」
そんなディアナの冷静な分析に、ブライアンは図星を突かれ、気まずそうに顔を背ける。
ミランダはというと、自分に回された腕に不安からすがり付こうとする寸前で自身の手を押さえ込み、まだ理性が緩くなっていることを自覚しては、それを耐えるように自分で両手を握り込んだ。
そんな2人の様子をじっと見てとったディアナ。彼女はきちんとブライアンとミランダに向き直ると、その場で片膝をつき、右手で心臓の上で拳を作ると、それを左手で押さえ込み、深く首を垂れる。
「我が忠誠と、神とグリーンフィールドの名に誓って、ミランダ メルローに今後危害を加えないと誓います」
それはブルフェンより前の国の時代から続く『騎士の誓約』と呼ばれる、自らの死を懸けた誓いである。
騎士の家系であるディアナがこれをするというのは、かなり重い、自らの一生を縛る誓いを立てたのと同義であった。
「それに貴方様も、わたくしを説得して味方につけた方が賢明なのでは?」
駄目押しとも取れるディアナのその言葉に、ブライアンは渋々その腕からミランダを解放する。
ミランダはその温もりが遠かったことを少し寂しく思いながらも、それをギュッと奥底に押し込むようにして、自身に掛けてもらっていた上着をブライアンに手渡す。
「…ありがとうございます」
「あぁ…」
まだミランダを心配そうに見ているブライアンに、ミランダは安心させるように微笑みを浮かべる。
「控室まで……それだけは、いかせろ」
「……止めても無駄でしょうから」
まだ心配で離れ難いと訴えるブライアンに、ディアナは無表情のまま溜息をつき、「送ったらこちらに戻って話し合いですよ」と念押しして2人を見送った。
「ご案内します」
「あぁ…」
ディアナ以上に感情の読めない侍女に連れられ、ミランダとブライアンは薔薇に囲まれた温室を後にするのであった。




