第二十五話 ミランダは神に切に願う
覗き込んだ水面が、そのまま自身の動揺を表すかのように揺れている。
立ち昇るのはベルガモットにも似た大好きな香り。いつもは心安らぐその香りが、今はただ、なんの作用を引き起こすこともなく、嗅覚だけを刺激してくる。
美しい茜色にも似た色だ。
いつもならその美しさに誘われて口をつけるはずなのに、そこに映る自身の顔が気になって、何故か手を伸ばすことが出来ずにいる。
それはそうだろう。近づいてしまえばたちまち、ひどく頼りない顔をして、今にも泣き出しそうな迷子の自分がはっきりと見えてしまうのだから。
それから目を逸らすようにミランダはその水鏡を曇らせた。普段なら入れることのない、贅沢品。白がそこに混ざることで濁った水面は、もうその者の心を映すことはない。
いつものようにカップに手を伸ばし、いつものように口に含む。
そうして訪れるのは口に絡み付いてくるような牛乳の異質な存在感。
それを強く意識しながら気がつかないフリをして呑み下すのだ。
気がついてしまったら最後、その優しさに溺れてしまうから。
リチャードソン家の夜会から2週間ほど経った。
ミランダはその後も2つほど違う夜会に出席したが、小さな嫌がらせはあれど、それほど大きな問題は起こることなく、順調に社交の場をこなしていた。
そこにはミランダを元々評価してくれていて付き合いのあった人たちはもちろん、ブライアンのリチャードソン家での発言が異様な形で広がったことで、ミランダに憧れを抱いている若い女性たちが意地悪い嫌味を言ってくる人が来るたび、各々手助けしてくれる所が大きかったりもする。
彼らは皆、ミランダの姿を夜会で見つけるとそれぞれ励ましの言葉を掛けてくれたり、いつも通り接してくれたりと気遣ってくれていた。
流石に『わたくし、ミランダ様の恋を応援してますからっ!お辛いでしょうけど、身分差に負けないでください」と、純粋な瞳を潤ませながら声をかけてくれた、デビュタントを迎えたばかりのご令嬢たちの時は、ミランダは眉を下げ、微笑みながら礼を言うことしかできなかったが。
ー流石にあれは肯定も否定もすることができないのよね…
沢山の人に心配され、助けてもらっていると実感する。それは本当にありがたいことなのだとミランダは身に染みて感じていた。
もちろんそれはそういった周りの人々だけでは決してない。
アルフレッドも、ダニエルも、グレースも。身近な人たちにはもっと心配をかけているし、救われているとミランダは知っていた。
ーそして、その最たるはブライアン様…
ブライアンのここのところの行動を思い返し、ミランダは胸の苦しさを感じた。それは決して今までと同質のものではない。悲しく、辛く、もどかしいもの。
自分のせいでブライアンにばかり負担を掛けていることが、ミランダには心苦しくて堪らないのだ。
ブライアンはミランダが参加した夜会に必ず彼女を追いかけるように訪れていた。
そしてミランダをダンスに誘い、探りを入れてきた人間に『自分が勝手に想っているだけだ』と話しては、自ら流した噂を強調する。
そのせいでブライアンは"恋に溺れた馬鹿な王太子"、"女に誑かされた男"など、1番ひどいものでは"ミランダに惚れ込んで自らの権力を盾に迫っている非道な王太子"などという謂れのない酷評を受けていたりする。
ミランダが知り合いの紳士に『ミランダ嬢もお可哀想に』と耳元で囁かれ、初めてその噂を聞かされた時には、思わず心臓が止まるかと思ったほどだ。文字通り頭が真っ白になり、表情がすっぽり抜け落ちた。
自分のせいでブライアンが酷いことを言われている…それはミランダにとって、とても耐えられないものであった。
しかし、ミランダがそれに心を痛め、幾ら『そんな噂を助長することを言うべきありません』、『自分にばかり批判を集めようとしないでください』と伝えても、ブライアンは決してやめてくれなかった。
むしろ、
『君が傷つく方が耐えられないんだ』
とブライアンは真剣な顔でミランダに言い返してくるのだから、ミランダは益々泣きたくなった。
ー全ては、答えを出せずにいる私のせいなのに…
ミランダは、自分がブライアンとのことをどうするのかきちんと決めれば、この現状がより打開し易くなるとわかっていた。自分のはっきりしない態度が余計に憶測を呼び、噂を助長している。
それを分かっているくせにそれをはっきりできない自分を、とても情けなく感じていた。
ー全ては…ブライアン様を信じる勇気がない、意気地なしな自分が悪いのに…
ミランダは傷つきたくないのだ。
どんなに理屈を並べたって結局はそういうことなのだ。
ミランダは亡き姉のように恋に溺れ、好きな男に裏切られ、傷つくことが…怖くて堪らないのだ。
ーもう、あの時のように傷つきたくないの…
ミランダはアメリアを理想だ、憧れだと口にしながら、その実姉の存在を何より恐れていた。
大好きな相手と結婚することを夢見たアメリア。
それは、夢見がちな心を持った少女時代のミランダに待ち受ける、ひとつの未来の可能性に思えた。
だから、あんな悲惨な最期を遂げ、ミランダたち家族に大きな傷を残したその"未来"をミランダは心の底から恐れている。
心ではどうブライアンを思っているのか、ミランダは痛いほど理解してるのだ。
ブライアンを見るだけ胸が高まり、笑みを向けられるだけカッと顔が赤らむ、声をかけられればその声にときめき、一緒にいるだけでただ安らぐのだ。
ブライアンが誠実な男性だとミランダ自身がよく知っている。
ブライアンはミランダに愛を告げながら、ほかの外見だけ見る人や勝手な理想を押し付けてくる人とは違い、ありのままのミランダを見て、受け入れてくれる。
そして、ミランダの心を何より優先して考えてくれる人だと。
ミランダもわかっているのだ。
あの男とブライアンは違うのだと。
それでも、
それなのに、
ミランダの中にいる9歳の少女が泣いて叫ぶのだ。
『もうあんな何もかも壊されるくらいなら、信じないっ!!』と…
姉を恐れ、傷つくのを、傷つけられるのを恐れ、そうして膨れ上がる負の感情。そんな激しい感情は、ミランダが自身の心で最も忌み嫌う部分だ。暗い感情が一つ生まれれば、それは負のスパイラルとなって新たな激情を引き摺り出してしまう。
そんな闇に、最近はどんどん染まっていくような感覚がして、ミランダは怖くて堪らないのだ。
「…どうかしたか?」
いつもの朝のお茶会で、憂いの帯びた瞳でカップを見つめるミランダに、ブライアンは心配そうに声をかけた。
ーほら、また…
ブライアンの優しさに触れるたび、ミランダはこの頃泣きたくなる。それを甘んじて受けるだけで、何も出来ずにいる申し訳なさから。そんな優しいブライアンを自分が傷つけているという事実から。
だから、せめてブライアンには笑って欲しくて、ミランダは意識して笑みを浮かべるようにしていた。そうすれば自分も、平静な心を取り戻せるような気がして。
「大丈夫ですよ。少し、考え事をしていただけです」
そんなミランダの微笑みに、何故かブライアンはいつも瞳を伏せる。
「そうか…」
「ええ…」
形をなさない会話。
ミランダはそれに酷く安堵してしまう自分に、内心でそっと自嘲的な笑みを溢す。
ー結局気付いていても、聞かないでくれている彼の優しさに甘えている…
だから、膝の上で小さく指を組みながら、ミランダは切に願うのだ。
ーどうか…あと少しだけ、私に、この人のために、前に進む勇気を……
すっかりぬるくなったミルクティーは最後まで飲みきることができなかった。




