第二十四話 揺れる心、定まらない想い
ドクンッと心臓が強く脈打った。
まさか、いるはずはないと思っていたその人の声に、ミランダは目を見開き、そちらへと振り向いた。
その姿を目に捉えてしまえばもう、間違いようがなかった。
見覚えのある黒いシャツに黒のネクタイ。その上に重ねられているのは目立つ、上下共に白の軍服であり、彼の逞しい体躯にとても似合っている。もう見慣れた赤い髪に、じっとミランダを見つめ、その視線を一時だって逸らすことを許さないブルーグレーの力強い眼差し。
「ブライアン、殿下…」
そのミランダの声に正しく反応するように、ミランダとタチアナ以外の者は皆、王太子であるブライアンのために、さっと場所をあけた。そうしてできるのは一直線に続いていく花道。
ブライアンを見つめたまま戸惑った顔をしたミランダに、ブライアンは安心させるように小さく笑った。ほんの少し口元が上がり、目元が僅かに緩んだだけなのに、そんなブライアンの些細な表情の変化が、ミランダにははっきりと意識できてしまい、顔が赤く染まっていく。
「君がここにいると聞いてきた」
そのブライアンの言葉に周囲の、特にミランダのことを心配そうに遠巻きに見ていた女性たちから、いくつも黄色い悲鳴が上がる。
特に凄かったのは遠くで息子のセオドアの腕を揺さぶっていたミーシャで、彼に向かって「ああいう情熱さが貴方にも必要でしてよっ!」と興奮気味に力説していた。
そんな周囲の様子を気にするでもなく、ゆったりとした足取りのまま、まっすぐミランダの元へと近づいてくるブライアン。
そんなブライアンの姿をミランダはなんだか切ない気持ちで見つめていた。
ーなんでだろう。凄く、遠い……
きちっと軍服を着こなし、あのマキューリオ伯爵の夜会と同じく、堂々とした立ち振る舞いを見せるブライアン。その姿はまさしくこの国を背負って立つ王族の1人であり、勇ましい軍人の風格があった。
いつもメルロー家で寛いでいる彼と違い、今の彼は、違う世界の人間だとミランダに強く認識させるのだ。
ー忘れてはいけない。だって彼は…
そこまで考えてミランダはキュッと自分の唇を噛みしめ、そっと視線を床に落とすミランダ。
そんなミランダの様子をどこか不思議そうにブライアンは一瞥したものの、先に面倒ごとを片づけようと、ブライアンはミランダの少し先にいるタチアナへと視線を向けた。
「ヒッ…」
ブライアンと視線があった途端、タチアナはみるみる顔を青ざめさせて体を震わせた。そして小さく悲鳴を上げたのを最後に、その場で腰を抜かして座り込んでしまう。
そんなタチアナの様子にブライアンは困ったように眉を寄せた後、仕方なしと背後へと振り返り、まだ近くで佇んだまま固まっていたドレイル伯爵夫人の方へと歩み寄って行った。
「…夫人」
「な、な、な、ななんでしょう?殿下?」
娘同様顔を青ざめさせはするものの、なんとかブライアンに言葉を返した夫人。しかし、その扇子を握る手は、かわいそうなほど真っ白になって震えている。
そんな夫人にブライアンは凄く言いづらそうに視線を一瞬横へ逸らすと、何やら意を決したように口を開いた。
「…まだなんだ」
「………………はい?」
言葉少なすぎてまた伝わらなかったブライアンの言葉。
ー…えっ?
思わず聞き返した夫人同様、ブライアンが何を言いたかったのかわからなかったミランダも、彼の表情を確認するため、そっと視線を上げた。
それと、同時だった。
「まだ、口説いてる途中なんだ…彼女を。………ようやく目を見ても逃げないでくれるようになった。また逃げられるようになったら、私は…気が狂ってしまうだろう」
ブライアンが、そう言葉を続けたのは。
ミランダがその言葉の意味を脳が正しく理解したときには、もう既に全身の血が全て沸騰するような、そんな猛烈な暑さに襲われる感覚がしていた。思考も感情も正常に回ることなく、ただただ感じるのは身を焼きつくすような、そんな凄まじい熱。
ミランダの肌という肌が赤く染まるのが先だったか、会場の至る所でお祭り騒ぎのような歓声と悲鳴が鳴り響くのが先だったか。
流石にあのドレイル伯爵夫人も口元を押さえ、顔を真っ赤に染めたまま震えているほどだ。他のミランダを快く思っていない者たちも、この時ばかりはブライアンの熱に当てられたように、火照った頬にパタパタと扇子で必死に風を送っていた。
「ミランダ嬢、」
いつの間にかミランダの前まで戻ってきて立ち止まったブライアンが、目元を少し赤く染め、少し恥ずかしそうにしながらミランダに手を差し出した。
そんなブライアンを、ミランダは熱により潤んだ瞳で見上げる。
「貴方に愛を乞う哀れな男に、今宵も夢の時間をくださいませんか?」
ブライアンには少し似合わない、王子様っぽい言い回しのお誘い。
しかし、軍服でそれをやられると妙に似合っているような気がして、ミランダの火照りは治まるどころか、加速するばかりだ。
それでもその広く、皮膚の硬い男らしい手に促され、ミランダはそっと自らの手を伸ばし、そのダンスの誘いを受け入れる。
ミランダはじっと彼の瞳を覗き込めば、それに対してブライアンも嬉しそうに目を細めては彼女の手を優しく握りこむ。
2人がホールへと進み出るのを合図に、いつの間にか鳴り止んでいた音楽隊が、軽やかにワルツの始まりを告げる。
美しい音楽とブライアンのリードに乗せられ、ふわりと広がるペールグリーンのドレス。ターンをするたびに花開く一輪の薔薇の姿に、観衆からはほっとため息が漏れる。
可憐な薔薇だ。まだ少女と大人の狭間を漂うような青さの残る、でも、瑞々しい美しさだ。
ブライアンが愛おしそうにミランダを見つめれば、ミランダは真っ赤だった顔が徐々に綻び、蕾がゆっくりと開いていくような柔らかい頬笑みを浮かべてそれに返す。
幸せそうな2人であった。
しかし、何故かそう見えるはずなのに、もの悲しい切なさも漂うようでもあった。
何故なら皆が知っている。
2人の間にある障害はそう簡単に乗り越えられるものではないということを。
かたや王族、かたや子爵令嬢。
現国王をはじめ、恋愛結婚がだいぶ受け入れられたとはいえ、今の不安定なブルフェンの政治状況ではこのふたりの未来を受け入れるのは簡単ではない。
「…あんなこと言って噂を助長してどうするんですか?」
ゆったりとした音楽と安心できる腕に身を任せることで、冷静な判断が戻ってきたミランダ。少し怒ったような口調でそう言いながらミランダはジッとブライアンを窺い見る。
「事実だからな」
ミランダの言葉にブライアンは少し苦笑いしながらも、仕方ないだろうと言いたげに小首を傾げる。
「なんだかズルいですね…あなたは王子様なのに」
ー私の決して手の届かないところにいるくせに…
「…それは仕方ないな」
静かにそう答えたブライアン。
一瞬ふたりの間に落ちる、切なく、胸を締め付けるような物悲しい空気。
それを振り払うようにミランダは、ブライアンに小さく微笑みを浮かべる。
先程、ブライアンがドレイル伯爵夫人に、いや皆に聞かせるように言った言葉。
あれはまるで自分が一方的に惚れて、口説いているだけだと宣言してようなものだった。まるでミランダが戸惑ってるのを良いことに、一方的に迫っているとでも取れるような言い回しで。むしろそう思われることを望み、そのような噂が流れることで利用して、ブライアンがミランダを守ろうとしているのだと火を見るより明らかなことだった。
「…正しい事実を伝えた方がいい」
「…でも、それでは殿下ばかりに負担が偏ります」
「だが、事実そうだろう。…君はそのことを気にしなくていい」
そういつもより優しい声でミランダに言い聞かせるブライアン。
そんな彼の言葉に、涙が溢れそうになったミランダは、堪らず下を向き、唇を噛みしめた。
ー私がもっとはっきりとした態度を取ればまだ、この方の負担が減るのに…
ブライアンを拒絶するべきだと泣き叫ぶ自分と、ブライアンに惹かれ始めていると笑う自分。
相反する2つの気持ちがミランダの心を引き裂き、彼女を狂わせるのだ。
考えは簡単に変えられない。
でも心はもう動いている。
身動きの取れない板挟み。
ーいっそ私が…、殿下が……
そんなもしもを、子供のように夢物語に描きかけ、ミランダはさらに泣きたくなった。生まれ持ったもの、過去に築き上げたものは、決して変わることはない。
「…言っただろう。口説いてる"途中"だと。…焦らなくていい」
そんなミランダを気遣ってか。ブライアンはまた迷子で泣き出しそうな彼女を、そのまま幼い少女相手にするように無条件に甘やかす。
その言葉を最後に2人のワルツはほんのりとした切なさを残し、終わりを告げたのだった。




