第二十話 秘密の場所
ブライアンは朝告げた通り、17時をちょうど回る頃にメルロー子爵家を訪れた。
緩められた黒いシャツと黒いネクタイ、下は白の軍服のものと思われるスラックス、その上に黒い外套を着込んだ格好をしていた。
「お疲れ様です」
「…準備は?」
「一応出来てますけど…」
ーこれでいいのかしら?
対して、ミランダの今の服装は普段家で着ているワンピース。一応お出かけなので、色は割りかし明るめな臙脂色にし、その上からダークグレーのフード付きの外套を着込んでいる。足元は動きやすいように踵の低い革靴。髪もリボンでポニーテールに纏めてある。
ーブライアン様とそう大差ないようだけど…暖かい格好と言うには少し足りないような?
これで大丈夫かと問うように上目遣いで窺うミランダに、ブライアンは小さく頷いた。
その特に変化のない表情から今の格好で合格だと判断し、ほっとミランダは胸を撫で下ろす。
「あれっ?ミラお出かけ?」
玄関で外出着で向き合う2人の元に、ちょうどその場を通りかかったらしいダニエルが、不思議そうな顔をして近づいてくる。
「えっと…はい」
「少しミランダ嬢をお借りする。2時間ほど。19時にはこちらに送る」
ミランダが返事をしながらチラリとブライアンに視線をやれば、それを受けてなのか、代わりにブライアンが詳細をダニエルに説明してくれる。
「夕飯はもう作ってあるので、待ちきれなかったら先に温めて食べていて下さい」
「ふぅ〜ん…まぁ、いいけどさ」
付け足しで、安心させるために告げたはずのミランダの言葉とは裏腹に、ダニエルはとても不審感を滲ませた、機嫌の悪そうな表情を浮かべた。両腕を組んだ上で、指を苛立たしげに動かし、その蒼玉を細めてはブライアンをあからさまに睨んでいる。
「…一応、嫁入り前の娘なので。"責任取れない状態で"変なことしないでくださいね?」
「………あぁ、わかっている」
男同士の間で、何やら火花のようなものが一瞬散った気がしたが、なぜ2人が、というよりダニエルがそんな険悪な空気を作り出しているのかわからず、ミランダは首を傾げる。
「ミラ、」
「何?お兄様、」
「夕飯は父さんと待ってるから、"必ず帰ってくるんだよ?"」
「えぇ、心配性です…」
「19時だよ?わかってるね?」
「…わかっております」
ミランダの肩をわざわざ両手で掴み、軽く揺さぶりながらそこまで念入りに、言い聞かせたダニエルは、いつもの胡散臭い笑みで「くれぐれも頼みます」と、ブライアンに刺のある物言いでしっかり釘を刺し、ミランダたちを送り出した。
「なんだかお兄様、変だったような…」
「………兄だからだろう」
不思議そうな顔でダニエルを心配するミランダ。
彼女の疑問を聞きながら、ブライアンは慣れた手つきで鞍を2人乗り用に替えつつ、そんなよくわからない言葉をミランダに返す。
「…どこか行くのですか?」
「遠乗り…というわけじゃないが。少し見せたいものがある」
ブライアンの濁すような答えに対して特にそれ以上問い詰めず、ミランダは彼が鞍の準備を終えるまでの間、彼の愛馬であるフローリアの鼻筋や首元を優しく撫でながら待っていた。
「…できた」
「はい、」
ブライアンの声掛けにミランダは素直に答え、そのまま彼の側に近づく。
自然にブライアンの腕に抱き上げられ、鞍の上に乗せられるミランダ。彼女が鞍の上にきちんと座ったのを確認したブライアンも、すぐに鞍に上がり、夕暮れに染まった外の世界へとミランダを連れて走り出した。
「今日は王都方面じゃないんですね」
「あぁ、」
ミランダがブライアンと共に馬に乗るのは今日で2回目。しかし、元々運動神経の良いミランダは、かなりのスピードでブライアンが走っても、平然と会話することができるほどに、馬の上での感覚に慣れてきていた。
舗装された道を蹴る力強い蹄の音、風に揺れる草木のざわめき、そして時折混ざるふたりの会話が暗くなり始めた景色へ溶けていく。
王都からミランダ邸へと続く、だだ広い野原に伸びる道を少し行き、ハンナたちの暮らす小さな町を越えれば、そこから先は森の中へと風景が変わっていく。
風をビュンビュンと切り、土に変わった地面を馬が力強く蹴り進んでいく感覚は、"飛ぶように走る"と表すにふさわしいものだ。
森の中をまっすぐ続く道を走りながら、この木々の中を分け入ってしばらく北にいくと、ヤマユリのあった辺りに出るとブライアンがミランダに教えてくれた。ブライアン1人の時は、そう言った道無き道も突っ切っていくことが多いと言う。
「今日はしないのですか?」
「…しない。枝が危ないからな」
ミランダの質問に少しムッとした顔で答えるブライアン。
ーきっと森の中を突っ切った方が近道になるのでしょうね。
少しずつ読むのに慣れてきたブライアンの表情からそんな考えを予想し、ミランダは笑みが浮かびそうになるのをひっそりと噛み殺す。
「…どうした?」
「いえ、楽しいなと」
ミランダが笑うのを抑えるために頬を引きつらせているのに気がついたブライアンが、そんな問いかけと共に首を傾げた。しかし、ミランダは当然、本当のことは答えず、無難な言葉だけを伝え、表情だけは隠さずに笑みを浮かべた。
そんなミランダの表情をじっと見下ろしたブライアン。しばらくして笑みを返すように、彼も目尻を少し下げ、微笑んでみせる。
「どこにいくのですか?」
「…秘密だ」
「じゃあ、楽しみにしてますね」
「あぁ…」
すっかりぎこちなさを感じなくなった、2人のやりとり。
茜色とも黄金色とも言い表せるような、暖かな心地のする太陽の光が、青々と茂った緑に深い影を落とし、夜の訪れが近いことを予感させる。
ミランダは夕陽に照らされた森の景色をその目に堪能しながら、また意味もなく笑みを浮かべた。
ブライアンが馬を止めたのはそれから20分ほど走った頃。
「すごい、綺麗……」
それはようやく抜けた森の先。そこから右手に続く急な坂道を、勢いよく登りきった先に現れたのは切り立った崖の先端だった。
凄かったのはその向こう側。眼下にずっと森や小さな町が見える大陸のその先に、今まさに真っ赤に染まるそれを飲み込もうとする深い深い影を纏った青の色。
遠い地の果てへと続いていくような大きな海と、その地平線に太陽が沈んでいこうとする、そんな黄昏時の絶景だった。
夕方と夜の狭間を示す空は燃え上がるような赤から始まるグラデーションを作り出し、その終いを探り東へと辿っていけば、そこに現れるのは星の瞬く濃藍の空。
「ちょっと遅いかと思ったが…いいな」
ミランダを岩がごろつく足場に丁寧に下ろした後、彼女の視線を追うように、崖の向こうの景色へと目を向けたブライアンが、眩しそうに目を細めた。
ブライアンはミランダの手を取り、不安定な足場を気遣いながら、もう少し断崖ギリギリのところまで彼女を連れて行ってくれる。少しだけ近づいた美しい景色。ブライアンは大胆なことにそのまま岩場の上に座り込むと、ミランダにもその隣に座るように促した。それに倣って、ミランダも服が汚れるのも気にせず、地面へとストンと腰を下ろす。
「ブライアン様はよく、こちらに?」
「…最近はあまり。やるせなくなったら来る」
ーやるせなくなったら?
ブライアンから出た意外な言葉に、ミランダはブライアンの横顔を見つめた。暖かな光に照らし出されるその表情は、少しだけ寂しそうにミランダの目には映った。
「面倒な立場だ。割り切れないこともある」
淡々と聞こえるその言葉に含まれた悲しみ、憤り、悔しさ。それらを感じとり、ミランダは静かに自分の膝を引き寄せ、抱きしめた。
「ここに来るとそれが慰められる。消えることはない。でも…何か、燻るものがスッと軽くなる」
その気持ちはミランダにもわかる気がした。
遠くから聞こえてくる本当に微かな波の音。
潮と土とが混じり合う匂い。
ゆっくりと、でも確実に時を刻む、美しい景色。
「ブライアン様の秘密の場所ですね」
「あぁ、」
「…良かったんですか?」
「…………君だから連れてきた」
当たり前のように告げてくれるブライアンの言葉に、自分へと向けられた信頼のようなものを感じ取り、ミランダは少し嬉しくなる。
「じゃあ、私も秘密にします」
「…そうだな」
そこから2人は何も話さず、太陽が沈んでいくのをじっと眺めていた。
それは途方もなく長いようで、あっという間の時間であったように思えた。
少しずつ、でも確かにその在り方を変えていく景色。
その全てが星空に変わった時、2人はどちらともなく立ち上がり、行きと同じ道を引き返した。
「ありがとうございます」
約束の時間ぴったりに到着したメルロー家の玄関先で、王宮へと帰ろうと鞍に上がったブライアンに、ミランダは小さく感謝の言葉を伝えた。それが示す意味を、正しく理解したブライアンが小さくミランダに頷き返す。
「…おやすみ」
「はい、おやすみなさいませ」
夜に相応しく、静かに告げた別れの言葉。
しかし、2人は別れ難いというようにしばし見つめ合い、その一時の時間を共にする。
ようやく未練を断ち切るように動き出したのはブライアン、愛馬の胴を蹴るのを合図に、あっという間に月夜に照らされる道へと飛び出していく。
暗闇に消えていくように、王都に向かって走り去っていくブライアン背中を、ミランダはその目で追えなくなるまで、ずっと見つめていた。




