第9章『剥がれる仮面』そして三者三様の試練
一ノ瀬財閥が誇る超豪華客船のメインダイニング。天井から吊り下げられたクリスタルシャンデリアが、波の揺らぎに合わせて微かにきらめき、磨き上げられた大理石の床に幻想的な光の粒を落としている。
三日間にわたる最終合宿審査の二日目。今宵の課題は、ただの食事ではない。一ノ瀬葵という「美と絶対の基準」を前にして、己の格と品性を証明するための過酷な品定め――すなわち、完璧なるテーブルマナーの審査だった。
「ふうん……。皆、思ったよりは静かにフォークを動かせるのね。下々の民の割には、最低限の教育は受けているみたいじゃない」
長い長方形の特注テーブル。その上座に腰を下ろした一ノ瀬葵は、エメラルドグリーンのドレスに身を包み、傲然と足を組んでいた。
彼女の視線は氷のように冷たい。手にした白ワインのグラスを優雅に傾けながら、ファイナリストたちの微細な挙動の一つ一つを、値踏みするように見つめている。
その背後、一歩引いた影のような位置には、従順な――否、強制的に従順にさせられている幼馴染の姿があった。
神城蓮。今回のオーディションにおいて「強制運営チーフ」という名の奴隷に任命された男だ。長すぎる前髪で目元を隠し、実用性だけを重視した不格好な作業用メガネをかけた彼は、手元のタブレットに審査の記録を淡々と打ち込んでいる。
「おい、蓮。そっちから見て、あいつらの手元はどう? 私の世界に不細工な所作は不要よ。少しでもスープを飲む音が響いたり、ナイフの角度が狂ったりしたら、その場で海に叩き落としてやりなさい」
「……お嬢様。いくらなんでもマナー違反一発で遠洋へ強制送還するのはコンプライアンス的にNGです。それに、みんなかなり緊張しながらやってますから、大目に見てあげてください。ほら、見てくださいよ、あの涙ぐましい努力を」
蓮はため息混じりに、しかし慣れた口調で小さくツッコミを入れる。葵は「チッ」と美しくも不機嫌な音を鼻から鳴らしたが、その視線は再びファイナリストたちへと戻された。
現在、残っているのは個性豊かな面々。
だが、この豪華客船という閉鎖空間、そして「一ノ瀬葵の伴侶」という莫大な財産と名声が手の届くところまで来たという事実が、彼らの仮面を少しずつ剥ぎ取り始めていた。
◇
「――葵様。この素晴らしいヴィンテージワインと、目の前に座す貴女の美しさに、僕の心は完全に酔いしれてしまいそうだ」
最初に口を開いたのは、皇類だった。
二十歳。完璧なルックスを誇る売れっ子のプロモデル。非の打ち所がない黄金比の骨格に、シルクのような金髪。彼は完璧な角度でナイフとフォークを扱い、まるで映画のワンシーンのように洗練された動作で肉料理を口に運んでいる。その一挙手一投足は、完璧に計算された美しさだった。
「あら、口先だけは達者なのね、皇類」
「まさか。僕の言葉に偽りなどありませんよ。このオーディションに参加したのも、ただ貴女という至高の宝石に相応しい男になりたいと願ったからだ……」
類は甘く蕩けるような微笑みを葵に投げかける。その視線は熱烈で、どんな女性でも一瞬で骨抜きにしてしまうような魔力を持っていた。葵は退屈そうに頬杖をつきながらも、その完璧なマナーには減点の余地を見出せず、ただ鼻を鳴らすにとどめる。
(完璧なルックス、完璧な家柄の演出……。でも、ねえ)
背後で控える蓮は、タブレットの画面をスクロールしながら、類の表情の裏にある微かな「歪み」を凝視していた。
やがて、メインディッシュが下げられ、デザートの準備に入る短い休憩時間。
類は「少し失礼」と席を立ち、ダイニングの片隅にある給仕スペースへと向かった。そこには、緊張で手を震わせながら、次の皿を準備している若い女性スタッフがいた。
「おい」
類の口から漏れたのは、先ほどまでの甘い声音とは似ても似つかない、低く冷酷な声だった。
スタッフの女性がビクリと肩を揺らす。
「は、はい……! 皇様、何かご用でしょうか……?」
「さっきのスープ、ほんの少しぬるかった。一ノ瀬財閥の船だから期待していたけれど、随分と底辺な仕事をするんだね。君みたいな無能が視界に入るだけで、僕の完璧な美意識が汚されるんだよ。次、僕の前に出す皿に少しでも指紋が残っていたら、支配人に言ってクビにさせるから。分かったらさっさと消えな、雑魚が」
類の美しい顔は、傲慢な優越感と、自分より立場が下の人間を見下す醜い愉悦で歪んでいた。
スタッフの女性は涙目を浮かべ、何度も頭を下げながら逃げるように去っていく。
類はふん、と鼻で笑い、髪をかき上げて何食わぬ顔で席に戻ろうとした。――だが、その行く手を阻むように、長すぎる前髪の男が立ちはだかっていた。
「……何だい、君は。裏方の奴隷くん。僕の邪魔をしないでくれるかな」
類は蓮を、まるで床に落ちているゴミを見るかのような目で一瞥する。
「いえ、皇様。素晴らしいマナーでいらっしゃいましたので、その評価を記録していたところです」
蓮はメガネの奥の瞳を冷ややかに光らせ、手元のタブレットの画面を類に見せた。そこには、給仕スペースに設置された隠しカメラの映像と、類がスタッフを罵倒している音声のログが、リアルタイムでテキスト化されていた。
「なっ……!?」
「お嬢様の審査基準は『見てくれ』だけじゃないんですよ。特に、裏でスタッフを見下すような本性は、最も嫌われる『不潔』に分類されます。ばっちり録画・録音させていただきましたので、のちほどお嬢様に提出いたしますね」
「貴様……! ただの裏方の分際で、僕を嵌める気か!」
類は声を荒らげようとしたが、ダイニングにいる葵の視線を恐れ、ギリと奥歯を噛み締めて蓮を睨みつけることしかできなかった。完璧なプロモデルの仮面は、その裏側で修復不可能なほどにひび割れていた。
◇
翌朝。客船は一時的に、一ノ瀬財閥が所有するプライベートアイランドのリゾート地へと接岸した。
今日の審査は、豊かな大自然の中での「適応力」を見るという名目の、散策審査である。
しかし、そこはワガママの権化である一ノ瀬葵。ただの散策で終わるはずがなかった。
「ちょっと、蓮! 何よこの道は! 私の美しい靴が汚れたらどうするのよ!」
「お嬢様、ここはお嬢様が『野生的なイケメンが見たい』と仰って指定された、未舗装のトレッキングコースです。文句を言われても困ります」
「うるさいわね! 私は歩きたくないの! でも戻るのも癪よ!」
葵がふんぞり返って怒鳴り散らす中、目の前の道には、前日の雨で深くぬかるんだ「泥道」が広がっていた。避けて通るスペースはない。普通に歩けば、確実に足元は泥まみれになる。
「ねえ、あなたたち」
葵は、ファイナリストの一人に冷酷な視線を向けた。
黒崎駆。十九歳。
一見ぶっきらぼうで、愛想の欠片もない苦学生。彼は他の参加者のような華やかな衣装ではなく、着古した、けれど綺麗に洗濯されたシャツを着ていた。病気の妹の治療費のために、このオーディションの賞金一億円を何としてでも勝ち取らねばならないという、悲壮なまでの決意を背負った男だ。
「黒崎駆。あんた、私の代わりにこの泥道が安全かどうか、歩いて確かめなさいよ。もし底が深くて私のドレスが汚れるようなら、あんたが四つん這いになって、私を背中に乗せて渡るのよ。いいわね?」
あからさまな、意地悪なテストだった。
常識的な人間であれば、プライドを傷つけられて怒り出すか、辞退を申し出るような理不尽な命令。他の参加者である皇類などは、「野蛮な男にはお似合いの役目ですね」と遠巻きに嘲笑している。
「……分かりました」
しかし、駆は表情一つ変えなかった。
ただ短く答えると、迷うことなく自身の履き古したスニーカーを泥の中に踏み入れた。
ズブ、と鈍い音がして、泥が彼の足首までを覆う。茶色い汚水がズボンの裾を汚していくが、駆は眉一つ動かさない。一歩、また一歩と、泥の深さを確かめるようにゆっくりと進んでいく。
「おい、黒崎。無理しなくていいぞ、俺が代わるか?」
後ろから声をかけたのは、如月涼だった。十六歳のピュアな少年である彼は、駆の様子を本当に心配そうに見つめている。
「……いや、いい。これは俺の役目だ」
駆はぶっきらぼうに返し、さらに深く泥に足を踏み入れる。
(これくらい……何でもない。妹の病院代、あの白い無機質な病室で痛みに耐えているアイツのことを思えば……こんな泥水、ただの綺麗な水と同じだ)
駆の脳裏には、ベッドの上で弱々しく微笑む妹の姿があった。
「お兄ちゃん、無理しないでね」と言った妹のために、彼は自分のプライドなどとうに捨て去っていた。どんなにプライドをへし折られようと、どんなに理不尽な扱いを受けようと、一億円を手に入れて妹の命を救えるのなら、悪魔に魂を売っても構わない。
泥道の真ん中で、駆は振り返った。足元はひどく汚れていたが、その真っ直ぐな瞳は、少しの濁りもなく葵を射抜いていた。
「……底の深さは、最大で足首の上までです。お嬢様のドレスの丈なら、裾を持ち上げれば汚れることはありません。俺が脇で支えます。四つん這いになる必要は、なさそうです」
「っ……」
その毅然とした態度と、一切の卑屈さを感じさせない強い眼差しに、葵は一瞬、言葉を詰まらせた。
ただのワガママで突き放すつもりだったのに、彼の背負っているものの重さが、その泥だらけの足元から痛いほど伝わってきたからだ。
「……ふ、ふん。そう。じゃあ、サッサと先に行きなさいよ。視界が泥臭くてたまらないわ」
葵は顔を背けたが、その声にはいつもの鋭さはなかった。
駆は無言でお辞儀をし、再び先頭を歩き始める。彼の泥だらけの背中は、どんな着飾った衣装よりも、泥臭く、そして力強かった。
◇
散策を終え、再び客船へと戻った一行。
夕刻、船内のサロンには冷房が心地よく効いていた。しかし、激しい温度変化と、慣れない慣習による精神的な疲労からか、葵の体調に異変が起きていた。
(なにか……頭がクラクラするわ。少し、熱があるのかしら……)
完璧主義の葵は、自分の弱みを周囲に見せることを極端に嫌う。ファイナリストたちの前で体調不良を露呈するなど、彼女のプライドが許さなかった。
サロンのソファから立ち上がり、自室へ戻ろうとしたその瞬間――。
世界がぐにゃりと歪んだ。
「あっ――」
床が急速に近づいてくる。倒れる、と思った瞬間、視界が急反転した。
柔らかく、しかし確固たる力を持った細い腕が、葵の華奢な身体をガッチリと受け止めていた。
「おっと……! 危ないっ!」
葵を支えたのは、如月涼だった。
十六歳。素朴でピュアな天才歌ウマ少年。姉に勝手に応募されたという彼は、このギラギラしたオーディションの中で、唯一おっとりとした癒やしの空気を纏っていた。
だが、その咄嗟の反応速度は、彼の高い身体能力を物語っていた。
「な、何よ……離しなさい!」
葵は顔を真っ赤にして叫んだ。反射的にツンデレの防衛本能が働き、涼の胸を押し返そうとする。
しかし、至近距離。あまりにも距離が近かった。
葵の鼻腔に、涼の呼吸が滑り込んでくる。
(ハッ……となって、私、気づいてしまったの。この距離、この最悪なシチュエーション。もし、この男の口が臭かったり、汗臭かったりしたら……私はその場で気絶して、このオーディションを今すぐ中止にしてやるわ!)
葵は恐怖に目を見張り、身構えた。彼女の掲げる最重要の参加不可事項――「口臭不可」「不潔不可」。
一日中外を歩き回り、汗をかいたはずの男子高校生だ。匂わないはずがない。
だが。
涼の口元から漏れた微かな息は、まるでもぎたてのミントのように爽やかで、驚くほど無臭だった。それどころか、彼の衣服からは、天日干しにされたリネンのような、清潔で柔らかな香りが漂ってくる。
(――な、何これ!? 匂わない……!? それどころか、信じられないくらい清潔なんだけど!?)
葵の「口臭・不潔チェック」を、涼は至近距離で、それも完全に余裕でクリアしてしまったのだ。
「大丈夫? 一ノ瀬さん。顔が真っ赤だよ。やっぱり、さっきの無理が祟ったんだね。はい、これ、僕のマイボトル。中身はただの麦茶だけど、まだ冷たいから、少し飲んで落ち着いて?」
涼は屈託のない、天使のような笑顔でボトルを差し出してくる。その瞳には、一ノ瀬財閥の権力への畏怖も、下心が透けるような厭らしさも、一切存在しなかった。ただ純粋に、目の前の体調の悪そうな少女を心配する、優しい少年の光だけがあった。
「だ、誰がそんなもの飲むもんですか……! 私は、ちょっと部屋で休むだけよ!」
葵は涼の手を振り払うようにして立ち上がったが、その足取りはまだ少しおぼつかない。
「おい、お嬢様。無理すんなって」
いつの間にか、蓮がそっと葵の脇に寄り添い、周囲にバレないように巧みに彼女の身体を支えていた。
「蓮……あんた、遅いわよ……」
「へいへい、すみませんね。ほら、部屋まで歩くぞ。如月くん、助かった。ありがとうな」
「ううん、一ノ瀬さんをおねがいね、裏方さん!」
涼は元気に手を振り返し、他のファイナリストたちの元へと戻っていく。
蓮に支えられながら、長い廊下を歩く葵。
彼女の胸の中は、激しい嵐のようにざわついていた。
(皇類……完璧なルックスの裏にある、あの醜い傲慢さ。私の財力と名声を狙う強欲な眼差し。
黒崎駆……どんな理不尽にも耐え抜く、あの泥だらけの執念。妹のために命を懸ける本物の覚悟。
如月涼……底知れないほどのピュアさと、完璧なまでの清潔感。下心のない本物の優しさ)
三者三様。オーディションが進むにつれ、彼らの本当の「人間性」が、否応なしに剥き出しになっていく。
「……ねえ、蓮」
葵は、自分の身体を的確に、そして一番安心できる距離感で支えてくれている幼馴染の横顔を、長すぎる前髪の隙間から盗み見た。
「なんですか、お嬢様」
「あんた……さっきの如月涼の『口臭・不潔チェック』、余裕でクリアしたのを見て、どう思った?」
「どうって……そりゃ、如月くんは普段から規則正しい生活をしてるんでしょうね。お嬢様の無茶な基準をクリアできるなんて、大したもんです」
「ふ、ふん。そうよね。あんな完璧な男、そうそういないわ」
葵はそう言って前を向いた。
だが、彼女はまだ気づいていない。
その如月涼の超ハイレベルな基準を、毎日自分のワガママに付き合わされ、徹夜で書類を仕分け、文句を言いながらも一番近くで自分を支え続けている、目の前の「空気」のような幼馴染――神城蓮が、とっくの昔に、何食わぬ顔ですべて完璧にクリアしているという事実に。
「……ま、せいぜい次の審査も楽しませてもらうわ。私の伴侶になる男なんだから、これくらい当然よ」
「はいはい。その前に、まずは部屋でしっかり寝てくださいね、お嬢様」
剥がれる仮面。見えてくる本性。
狂乱のイケメンオーディションは、葵の予想を遥かに超えた人間模様を孕みながら、いよいよ最終決戦の舞台へと突き進んでいくのだった。




