第10章『混沌のリゾート』そこで泥を払う手の温もり
一ノ瀬財閥が所有するプライベートアイランド。その中心に鎮座する最高級ヴィラ・レガリアは、南国の満天の星空の下、松明の炎に照らされて妖しく揺らめいていた。
三日間にわたる最終合宿審査も、いよいよ今夜が最後の夜。明日には生放送の最終ステージへと突入する。
ファイナリストたちがそれぞれの部屋で明日の決戦に向けて精神を研ぎ澄ます中、ヴィラの最上階にある特別客室のバルコニーでは、一ノ瀬葵が夜風に長い髪をなびかせていた。
「ふう……。明日はついに最終決戦ね。日本中の下々の民が、私の選ぶ最高の一名に注目している。想像するだけで、ぞくぞくするほど完璧なシナリオだわ」
昼間の体調不良など微塵も感じさせない高飛車な笑みを浮かべ、葵は冷えた果実水に口を付ける。しかし、その視線はどこか落ち着きなく、ヴィラの敷地内を巡回する警備スタッフの明かりを追っていた。
昼間の散策審査で見た、ファイナリストたちの剥き出しの本性。皇類の醜い傲慢、黒崎駆の泥臭い執念、如月涼の底知れない無垢。そして――。
「……遅いわね、あの奴隷。明日のステージの進行台本、早く持ってこいって言ったのに」
葵が苛立ちを込めて呟いたその瞬間、背後のガラス扉が静かに開いた。
現れたのは、長すぎる前髪を鬱陶しそうにかき上げ、実用性重視の分厚い作業用メガネをかけた幼馴染――神城蓮だった。その手には分厚いタブレットと、数冊のファイルが抱えられている。
「お待たせしました、お嬢様。明日の生放送のタイムスケジュールと、一般投票のリアルタイム集計データです。あと、皇類の裏でのスタッフ罵倒ログも、しっかり審査委員会に提出しておきましたから」
「当然よ。私の世界に、裏表のある不潔な男は必要ないわ。それにしても遅いじゃない、蓮。私を待たせるなんて、万死に値するわよ?」
「すみませんね。リゾート内の通信回線がなぜかさっきから不安定で、データの同期に時間がかかったんですよ。……というか、さっきから島全体の様子が少し変なんです。警備の無線に妙なノイズが混じるし、さっきから一部の監視カメラの映像が途切れてる」
蓮はメガネのブリッジを指で押し上げ、タブレットの画面を鋭い目で見つめた。その表情は、いつもの気の抜けた「裏方」のそれではなく、冷徹な技術者のものに変貌していた。
「変って、何がよ。ここは一ノ瀬の島よ? ネズミ一匹だって私の許可なく入れないわ」
「だといいんですけど……」
蓮が言葉を濁した、その刹那だった。
パツン、と乾いた音がして、ヴィラを包んでいたすべての光が消失した。
シャンデリアの輝きも、廊下を照らす間接照明も、すべてが漆黒の闇へと沈む。同時に、低く重い機械の停止音が響き渡り、完全な静寂がリゾートを支配した。
「キャッ……!? 何よ、停電!? 一ノ瀬の自家発電システムはどうしたのよ!」
「……お嬢様、動かないで!」
蓮の声が、これまでにないほど鋭く響いた。彼は一瞬で葵の傍らに飛び込み、彼女の手首を掴んでバルコニーの物陰へと引き込んだ。
「離しなさいよ、蓮! なんなの――」
「静かに。……自家発電が作動しないってことは、ただの停電じゃない。システムそのものが物理的に破壊されたか、外部からハッキングされてる。それに……聞こえませんか?」
闇に目を凝らす蓮の視線の先。ヴィラの広大な庭園、その松明の灯りが消えた暗がりの向こう側から、複数の足音が近づいてくるのが分かった。
ざり、ざり、と砂利を踏みしめる靴の音。それは訓練された者のように等間隔で、不気味なほど統制が取れていた。
「不審者の侵入……!? 嘘でしょ、こんな離島に?」
「明日の最終決戦、一般投票の動く金額は数百億規模です。利権を狙う大手芸能事務所か、あるいは一ノ瀬財閥の失脚を狙うレガリアの差し金か……。どちらにせよ、お嬢様、あなたの身が危ない」
蓮の言葉の裏付けを証明するように、階下のロビーから「ガラスが割れる荒々しい音」と、男たちの怒号が響き渡った。
◇
暗黒に包まれたヴィラの1階ロビー。
突如として乱入してきた黒服の男たちは、手にした特殊なライトで闇を照らし、怒鳴り散らしていた。
「一ノ瀬葵はどこだ! 上にいるな!」「オーディションのデータをすべて差し押さえろ!」
その混乱の渦中に、ファイナリストたちの部屋もあった。
「な、なんだ!? 何が起きているんだ!」
部屋の扉を開け、廊下に飛び出してきたのは皇類だった。完璧なプロモデルの顔は恐怖で青ざめ、シルクのナイトウェアが激しく揺れている。
ライトの光が類を捉える。「おい、あいつはファイナリストの皇類だ。捕まえろ!」
「ひっ……! 狂っている、何で僕がこんな目に! 僕の美しい顔に傷がついたらどうするんだ!」
類は叫び声を上げると、葵のいる最上階へ向かう階段とは「真逆の方向」――すなわち、裏口の非常階段へと脱兎のごとく駆け出した。
スタッフを裏で見下していた傲慢な男は、本物の危機を前にした瞬間、自分の保身のためだけに、他の一切を捨てて逃げ出すという、最高に無様で属性通りの行動を取ったのだ。
一方、別の部屋から飛び出してきた如月涼は、押し寄せる不審者の姿を見て、小さな身体を震わせていた。
「一ノ瀬さん……! 裏方さん……!」
ピュアな少年は、恐怖に涙目を浮かべながらも、自分を助けてくれた葵たちの安否を心配していた。しかし、次々と押し寄せる黒服の男たちに遮られ、上層階へ向かうルートは完全に塞がれている。
「そこのガキ、動くな!」
「うわああっ!」
涼は迫り来るライトの光から逃れるように、ヴィラの外へと走り去るしかなかった。彼の純粋さは、暴力という圧倒的な現実の前では、あまりにも無力だった。
そして、ロビーの隅、最も激しい怒号が飛び交う場所に、その男は立っていた。
「……おい、お前ら」
地を這うような低い声。
黒崎駆は、泥道の審査で汚れたズボンのまま、不審者たちの前に立ちはだかっていた。その瞳は、昼間見たものよりもさらに冷たく、鋭い光を放っている。
「なんだ、このガキは。邪魔だ、どけ!」
黒服の男の一人が、警棒を振り上げて駆に殴りかかる。
ガッ、と鈍い音が響いた。
駆は避けることをせず、自分の左腕でその一撃を肉肉しく受け止めた。骨が軋むような衝撃が走ったはずだが、駆は眉一つ動かさない。それどころか、警棒を掴んだ男の手首を、恐ろしい怪力で握り潰した。
「ぐあああっ!?」
「……どかない。ここから上には、一歩も行かせない」
駆の脳裏にあるのは、ただ一つ。
このオーディションが潰れれば、一億円の賞金は消える。賞金が消えれば、妹の命が消える。
彼にとって、一ノ瀬葵の安全を守ることは、すなわち妹の命を守ることに他ならなかった。自分の身体がどれだけ傷つこうが、ここで死のうが、そんなことはどうでもいい。一億円のために、彼は文字通り「体を張る」覚悟を完了していた。
「な、なんだこの化け物は! 囲め、叩き潰せ!」
数人の男たちが一斉に駆に襲いかかる。駆は圧倒的な数的不利の中、拳を血に染めながら、最上階へと続く中央階段の最前線で、文字通りの肉の壁となって敵を食い止め始めた。
◇
その頃、最上階の特別客室。
中央階段が駆によって防衛されているとはいえ、ヴィラには他にも無数のルートがある。
蓮は葵の細い肩を抱き寄せながら、暗闇の廊下を迅速に進んでいた。
「蓮……下で凄い音がするわ。私、どうなるの……?」
いつも高飛車な葵の、初めて聞く弱々しい震え声。彼女の手は、蓮のシャツの裾をギチギチと引きちぎらんばかりに握りしめていた。
「大丈夫です。中央階段は黒崎が死守してくれてます。あいつの執念は本物だ。だけど、テラス側の非常階段から回り込んでくる奴らがいる。僕たちは、屋上のヘリポートへ向かいます。一ノ瀬の緊急脱出用ヘリのシステムを、僕のタブレットから強制起動させる」
「そんなこと、ただの裏方のあんたにできるの!?」
「言ったでしょう、僕は『強制運営チーフ』ですよ。お嬢様のワガママに付き合うために、一ノ瀬の全システムのバックドアを頭に叩き込んであるんです」
蓮は不敵に笑うと、メガネの奥の瞳で暗闇を見据えた。
しかし、屋上へと続く重い鉄扉の前に差し掛かった、その時だった。
「――見つけたぞ。一ノ瀬の小娘だ」
闇の向こうから、鋭いライトの光が二人を照射した。
テラスのガラスを破って侵入してきた、二人の大柄な不審者。その手には、鈍く光るスタンガンが握られている。
「ひっ……!」
葵が息を呑む。
「お嬢様、僕の後ろに!」
蓮は葵を自分の背後へと突き飛ばすと、手にした重いファイルを、躊躇なく一人の男の顔面に向けて投げつけた。
バサバサと書類が散らばる隙に、蓮はもう一人の男の懐へと鋭く踏み込む。
(えっ――!?)
葵は目を見張った。
いつも猫背で、自分の後ろを頼りなく歩いていたはずの蓮の動きが、驚くほど無駄がなく、速かったからだ。
蓮は男のスタンガンを持つ手首を掴むと、自身の体重を利用して壁へと叩きつけた。鈍い音がして、男が崩れ落ちる。しかし、もう一人の男がすぐに体勢を立て直し、蓮の背後から襲いかかった。
「蓮、後ろ!」
葵の悲鳴。
蓮は咄嗟に振り返ったが、男の強烈な体当たりを受け、二人まとめて屋上への階段へと転がり落ちた。
「ぐっ……!」
階段の踊り場で、蓮のメガネが吹き飛び、床に落ちて割れる音がした。
前髪が大きく乱れ、遮るもののなくなった蓮の素顔が、月光の下に晒される。
それは、いつも葵が見ていた「冴えない裏方」の顔ではなかった。
鋭く、涼やかで、圧倒的な意志を秘めた――本気を思わせる、完璧なイケメンの素顔。
「てめえ、ただのガキのくせに……!」
男がナイフを抜いた。銀色の刃が、月光を反射して冷たくきらめく。
一番危険な場所。本物の暴力。
ファイナリストの誰もがここにいない。皇類は逃げ、如月涼は遠ざかり、黒崎駆は下で戦っている。
その最悪の局面で、最も危険な刃の前に飛び込んできたのは、他でもない、自分が「奴隷」と呼んでこき使っていた幼馴染だった。
「お嬢様に……触るな」
蓮の口から漏れたのは、いつもの軽いツッコミのトーンではない。低く、地を這うような、絶対的な守護の意志がこもった声。
蓮は落ちていた割れたメガネの破片を素手で拾い上げると、血が流れるのも構わずに、男のナイフの手首を正確に突き刺した。
「ギャあああっ!?」
男が悲鳴を上げてナイフを落とす。すかさず蓮は、男の顎に向けて完璧なアッパーカットを叩き込んだ。衝撃で男の脳が揺れ、そのまま白目を剥いて床に沈み込む。
静寂が戻った。
ぜぃ、ぜぃ、と荒い息を吐きながら、蓮は立ち上がった。彼の右手からは、ガラスの破片で切った血がポタポタと床に落ちている。
乱れた前髪の隙間から、月光に照らされた蓮の素顔が、葵の瞳に焼き付いた。
(嘘……。蓮、あんた……本気を出せば、そんな顔をしてたの……?)
葵の胸が、今までにないほど激しくドクンと跳ね上がった。
昼間の如月涼の清潔感にも、黒崎駆の執念にも動かなかった彼女の心が、この血まみれの幼馴染の姿に、完全に無自覚な暴走を始めていた。
「お嬢様……怪我は、ありませんか?」
蓮は、自分の手の血を葵のドレスに付けないよう、わざと手を後ろに隠しながら、いつもの調子で少し困ったように笑った。
「蓮……あんた、手が……」
「これくらい、書類の紙で切るよりマシですよ。ほら、ヘリの起動コードが入力できました。行きましょう」
上空から、一ノ瀬財閥の大型ヘリのローター音が近づいてくる。同時に、島外から要請された本物の警備部隊がヴィラへと突入し、不審者たちの制圧が始まった。
ヘリの風が吹き荒れる屋上で、安全な機内へと誘導されながら、葵は振り返って蓮の横顔を見た。
彼はすでに、予備のメガネをポケットから取り出してかけ、前髪をいつものように下ろして「冴えない裏方」に戻っていた。
(蓮って選択肢も……悪くないかも。……って、何を考えてるのよ、私! あんなの、顔は私の基準からしたら妥協ギリギリだし! ただの奴隷よ、奴隷!)
葵は必死に赤くなる顔を両手で押さえ、自分に言い聞かせるように心の中で毒づいた。
しかし、彼女の頑固な心の仮面には、もう隠しきれないほどの大きな亀裂が入っていたのだった。




