第8章『漆黒の洋上』そこで美貌たちの饗宴
「――ようこそ、私の私有する移動式楽園へ」
東京湾の夜景を背に、漆黒の海へと滑り出す巨大な影があった。
一ノ瀬財閥が誇る全長200メートルの超豪華客船『クリスタル・アオイ』。一般の立ち入りが厳重に制限されたその巨大な船体は、今夜から始まる3日間の最終合宿審査の舞台として、眩いばかりの光を放っていた。
最上階の特設展望デッキ。夜風に長髪をなびかせながら、一ノ瀬葵は手すりにに手をかけ、眼下に整列する5人の男たちを見下ろしていた。
ネット一般投票という、下々の民による狂乱の審査を勝ち抜いた精鋭たち。だが、葵の瞳に宿るのは、歓迎の色ではなく、獲物を値踏みするような冷徹な光だった。
「勘違いしないで頂戴ね。一般投票でどれだけバズろうが、組織票を操ろうが、ここは私の世界。私の伴侶に相応しいかどうかを決めるのは、審査委員長であるこの私一人だけよ」
葵はパチンと指を鳴らした。その背後に控えるのは、いつもの冴えないグレーのジャージ姿に、分厚い作業用メガネをかけた幼馴染――神城蓮だ。
「これより3日間、この船内で最終合宿審査を行うわ。審査基準は極めてシンプル。あなたたちの『食事のマナー』『トラブルへの対応力』、そして何より――私の世界において絶対条件である『圧倒的な清潔感』。これを、私が間近で、網膜の隅々まで使って surveillance(監視)してあげる」
高飛車な葵の宣言に、並んだファイナリストたちの表情が微かに動く。
完璧な笑みを崩さないプロモデル、皇類。
緊張で少し肩を硬くしている天才歌ウマ少年、如月涼。
ポケットに手を突っ込んだまま、鋭い視線を葵に返す苦学生、黒崎駆。
そして、それぞれ異なる魅力を放つ実業家と大学生の青年。
「奴隷。彼らのスケジュールと最初の審査の準備は?」
「奴隷って言うな」
蓮は手元のタブレットを操作しながら、抑揚のない声で応じた。
「ファイナリスト用の客室への案内は完了。この後、午後8時からメインダイニングにて、歓迎を兼ねた『ファースト・ディナー』を行う。もちろん、そこからすでに葵のチェックは始まってる、だろ?」
「当然よ。最初の夜から、誰のメッキが剥がれ落ちるか……本当に楽しみだわ」
葵は不敵に微笑むと、ヒールを鳴らしてデッキを後にした。
すれ違いざま、蓮の長すぎる前髪の奥にある瞳が、一瞬だけファイナリストたちを鋭く観察したことに、葵はまだ気づいていなかった。
◇
バカラ製のシャンデリアが黄金色の光を落とす、最高級のメインダイニング。
円卓を囲むように、5人のファイナリストたちが着席していた。その中央、一段高い特設席に、イブニングドレスに身を包んだ葵が、女王のように君臨している。
「さあ、一ノ瀬財閥が誇る専属シェフによるフルコースよ。遠慮なく eat(召し上がり)なさい」
運ばれてきたのは、至高のフレンチ。
銀製のカトラリーが並ぶテーブルで、男たちの最初の「マナー審査」が始まった。葵の鋭い視線が、男たちの手元、視線、そして咀嚼の音に至るまでを冷酷にスキャンしていく。
(……ふん、まずは『皇類』ね)
葵は右側に座る完璧なプロモデルに目を向けた。
皇類は、まるで動く絵画のようだった。ナプキンの扱い方から、スープスプーンを口元へ運ぶ角度、一切の音を立てない完璧な所作。カメラのレンズを意識しているかのような、非の打ち所がない美しさだ。
「葵様、このオマール海老のテリーヌは素晴らしいですね。ですが、この美しい空間で葵様と共に頂く時間に比べれば、どんな至高の料理も霞んでしまいます」
流れるような甘い言葉。皇類はグラスを傾けながら、葵に極上の微笑みを向けた。
並の女性ならその場で気絶するほどの破壊力。だが、葵の心はピクリとも動かない。
(相変わらず中身の伴わない口先だけの男。でも、マナーの減点対象はゼロ。プロとしての見せ方は完璧と言わざるを得ないわね)
葵は冷ややかに視線を外した。
次に目を向けたのは、最年少の如月涼だ。
「うわぁ……すごいです。こんな綺麗な料理、初めて見ました……」
涼は大きな瞳を輝かせ、運ばれてきたメインディッシュを見つめていた。カトラリーの順番に少し戸惑い、隣の実業家の動きをチラチラと盗み見ながら、一生懸命にナイフを動かしている。その姿は、お世辞にも完璧なマナーとは言えなかったが、育ちの悪さというよりは、あまりの純粋さに周囲が微笑んでしまうような、不思議な魅力を持っていた。
(如月涼、マナーとしてはギリギリ及第点といったところ。けれど、あのピュアな一挙手一投足には、不潔さや不快感が一切ないわ。私の『世界』の美観を損ねないという意味では、これも一つの才能かしらね)
そして葵の視線は、円卓の最も遠い席に座る男――黒崎駆へと移った。
◇
黒崎駆は、あらかじめ用意されていたタキシードを身に纏ってはいたものの、その着こなしはどこか投げやりで、窮屈そうだった。
彼はカトラリーの作法など気にする様子もなく、肉料理を豪快に切り分け、口へと運んでいく。
「……おい、そこ。黒崎駆」
葵が静かに、しかしダイニング全体に響く低い声で呼びかけた。
他の参加者たちの手がピタリと止まる。
「何だよ、お嬢様」
「あなたのそのナイフの持ち方、そして肘のつき方。お世辞にも一ノ瀬財閥の伴侶に相応しいエレガンスがあるとは言えないわね。私の世界に、そんな野蛮な所作は不要よ」
周囲に緊張が走る。皇類が勝ち誇ったような薄い笑みを浮かべ、涼がハラハラとした表情で駆を見つめる。
だが、駆はナイフを皿に置くと、真っ直ぐに葵の瞳を睨み返した。
「エレガンスだか何だか知らねえが、俺は腹が減ってるから飯を食ってるだけだ。中身のないお喋りをしながら気取って食うより、作った奴に失礼がねえように残さず食う。それが俺のマナーだ」
「……口生意気な。私の前で屁理屈を並べるつもり?」
「屁理屈じゃねえ。あんたが俺の顔を見て『書類審査』を通したんだろ? なら、今さら育ちの良さなんて期待すんなよ。俺はここに、妹の治療費を……その10億の賞金を獲りに来たんだ」
ガシャリ、と駆は再びフォークを持った。その目に宿る執念は、煌びやかなダイニングの光の中でも、決して色褪せない強烈な光を放っていた。
(……チッ、本当に可愛げのない男。私の意地悪なテスト(圧迫面接)にも、その生意気な態度を崩さないなんて)
葵は不快そうに顔を背けたが、胸の奥で、彼の「一切のブレのなさ」を、不覚にも少しだけ認めざるを得なかった。
「ふん……。まあいいわ。最初の夜は、あなたたちの『表面的な品格』を見せてもらったわ。けれど、明日からは本格的な『トラブルへの対応力』を試させてもらうから、覚悟しておき nasai」
葵がディナーの終了を告げると、男たちはそれぞれの思惑を胸に、席を立った。
◇
ディナーが終わり、参加者たちが客室へと戻った後のダイニング。
スタッフたちが手際よく片付けを進める中、蓮は壁際に立ち、タブレットの画面にデータを打ち込んでいた。
「どうだった、審査委員長。最初の夜のスコアは」
「最悪よ。皇類はあざとすぎるし、黒崎駆は野蛮の極み。如月涼はただの迷い込んだ子犬だわ。実業家と大学生は無難すぎて退屈ね」
葵はドレスのコルセットを少し緩めながら、ため息をついた。
「でも、お前、黒崎の時の態度、ちょっと嬉しそうだったぞ」
「なっ……! どこがよ! 私はあの無礼者に怒り心頭だったわよ!」
「はいはい。お前、自分に阿ねる奴は大嫌いだもんな。そういう意味じゃ、あの5人はみんな、お前の計算通り『面白い素材』が残ってるってことだろ」
蓮は前髪を指でいじりながら、ふっと笑った。
その笑顔を見た瞬間、葵の脳裏に、昨夜ビルの一室で見た「前髪の向こう側の素顔」が鮮明に蘇った。
(……そうよ。何でこの『空気』みたいな男は、私のことをそんなに正確に理解しているわけ?)
幼馴染だから。子供の頃からずっと一緒にいるから。
理屈では分かっている。だが、ドレスアップした今の自分と、やぼったいジャージ姿の蓮。その決定的な立場の違いがあるはずなのに、蓮の前にいると、自分がただの「ワガママな葵」に戻されてしまうような、奇妙な敗北感があった。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「あなた、明日からのトラブル審査、手ぇ抜かないで頂戴ね。彼らの『本当の人間性』を引き出すために、一ノ瀬財閥の技術をフルに使いなさい」
「分かってるよ。お前の『最高のイケメンを見つける』っていう無茶振りのために、俺がどれだけ裏でシステム組んだと思ってるんだ。明日からは……本当に過酷になるぞ」
蓮はメガネのブリッジを押し上げ、冷徹なエンジニアの顔に戻った。
その横顔を見つめながら、葵は再び、かすかな胸の高鳴りを感じていた。それが、合宿審査への期待なのか、それとも目の前の男に対する別の感情なのか、今の葵にはまだ判別がつかなかった。
◇
2日目の朝。
『クリスタル・アオイ』は、外界から完全に遮断された、太平洋上に浮かぶ一ノ瀬財閥所有の孤島リゾートへと接岸しようとしていた。
エメラルドグリーンの海と、手つかずの大自然が残る島。
だが、その美しい楽園の裏側で、男たちの『仮面』を剥ぎ取るための、葵と蓮の仕掛けた容赦のない審査が、静かに牙を剥こうとしていた。
「さあ、2日目の審査の始まりよ」
リゾートのプライベートビーチに設置された特設テント。葵はサングラスをかけ、冷たいトロピカルドリンクを口にしながら、水着やアクティブウェアに着替えた5人の男たちを見据えた。
ここから先は、ただのマナーやルックスの戦いではない。
一ノ瀬葵という「究極のワガママ」が仕掛ける、理不尽極まりないテストの連続。
そして、その先に待ち受ける、誰も予想していなかった『本当の危機』。
漆黒の洋上を進む豪華客船の中で、5人のイケメンたちと、1人の気高きお嬢様、そして彼女を影から支え続ける「奴隷」の、過酷な3日間の火蓋が、切って落とされたのだった。




