第6章『勝利の凱歌』そして焦燥の残響
「……本当に、全部消えたのね?」
一ノ瀬葵は、液晶モニターの淡い光に照らされながら、掠れた声で呟いた。
タワーマンションの大きな窓から見える空は、濃い群青色から、うっすらとした茜色へと変わり始めている。徹夜の極限状態の中、彼女が凝視し続けていたのは、先ほどまで狂ったように跳ね上がっていたエントリーナンバー1番・皇類の得票カウンターだった。
一時は百二十万票にまで膨れ上がっていた数字は、いまや二十三万票にまで激減している。
それは、神城蓮という「奴隷」が、その天才的なタイピングによって、偽装された海外ボット群からのアクセスを一網打尽に叩き潰した結果だった。
「ああ、綺麗さっぱり、一票残らずドロップしたよ」
蓮はキーボードから完全に手を離し、椅子の背もたれに深く体重を預けていた。
いつもの黒縁メガネは、度重なる画面の凝視によって生じた脂汗のせいか、鼻の頭で危うく滑り落ちそうなほど傾いている。目の下の隈はさらに色濃くなり、普段の「冴えない裏方」としての風貌は完全にボロ雑巾のようだった。
「お疲れ様、蓮。私の完璧な舞台を汚そうとした泥棒猫どもに、一ノ瀬の鉄槌を下してやったわ」
葵はカウチソファーの縁に腰掛け、小さく息を吐いた。
だが、その言葉とは裏腹に、彼女の美貌には、未だに小さなしこりのような焦燥が張り付いていた。
不正票を排除した。それは間違いなく完全な勝利だ。しかし、相手は国内最大手の芸能事務所「プロモーション・レガリア」。彼らがこのまま、自分たちの仕掛けた「ステルス組織票」を完封されただけで引き下がるほど、甘い世界ではないことくらい、大財閥の令嬢である葵にも分かっていた。
「……葵、まだ安心するのは早いぞ」
蓮が、乾いた喉から声を絞り出すように言った。
「システム的な不正は止めた。けど、向こうはメディアの巨頭だ。デジタルで負けたなら、次はアナログ――つまり、情報の力で、このオーディションそのものを潰しにかかる可能性がある」
蓮のその不穏な予言は、数分もしないうちに、最悪の形で的中することになる。
◇
午前五時三十分。
一般のニュースサイトや、芸能系の週刊誌のWeb版が一斉に更新される時間帯だった。
「蓮、これを見て!」
葵が手元のタブレットを叩き、画面を蓮に向けた。
そこには、いくつかのネットニュースのヘッドラインが、悪意に満ちた文字で躍っていた。
【一ノ瀬財閥令嬢の「伴侶オーディション」、投票システムに重大な脆弱性か?】
【特定候補の票数が突如激減、ユーザーからは「出来レース」「一ノ瀬側の操作」との声も】
【10億円の結婚詐欺!? 傲慢なお嬢様の道楽に、全国のイケメンたちが利用されている実態】
「な、何よこれ……! 事実無根もいいところじゃない!」
葵の顔から、一瞬で血の気が引いた。
レガリア側は、自分たちの組織票が排除されたことを逆手に取り、「一ノ瀬側が意図的に皇類の票を減らした」「システムがバグを起こして信頼性が失われている」という、巧妙なカウンター・プロパガンダを仕掛けてきたのだ。
タイムラインの風向きが、再び怪しくなり始める。
『おいおい、皇類の票がいきなり百万票も減ったの、やっぱり一ノ瀬の操作かよ』
『お嬢様のワガママで、気に入らない候補の票を勝手に消したってマジ?』
『結局、10億円なんてただの客寄せパンダで、裏で全部決まってる出来レースなんだな』
『一気に冷めたわ。真面目に応募した黒崎くんや如月くんが可哀想』
「違う……! 私はそんな汚い真似、絶対にしないわ!」
葵はタブレットを握る指先を激しく震わせた。
彼女のプライドは、自分の理想とする「完璧な世界」に、一点の曇りも、一切の誤魔化しも持ち込まないという、絶対的な高潔さの上に成り立っている。それを、「出来レース」「詐欺」などという卑劣な言葉で汚されることは、肉体を切り裂かれるよりも耐え難い屈辱だった。
「レガリアの副社長、黒岩って男、なかなかにエグい手を打ってくるな」
蓮は冷徹にニュースの出処を分析していた。
「大手の息がかかったメディアを使って、一斉にネガティブキャンペーンを張ってきた。このまま放置すれば、世間はこのオーディションを『富豪の娘の悪質な詐欺』だと認識する。そうなれば、黒崎も如月も、巻き込まれる形で泥を塗られることになるぞ。……どうする、お嬢様?」
蓮は、そっと葵の顔を覗き込んだ。
その瞳は、彼女がこの逆境に対して、どう立ち向かうのかを静かに見極めようとしていた。
◇
「どうする、ですって?」
葵はゆっくりと立ち上がった。
朝日が、彼女の纏うシルクのガウンを白く照らし出す。その瞬間、彼女の全身から、圧倒的な、恐るべきまでのオーラが立ち上った。
怯えも、戸惑いも、すでに彼女の瞳からは消え去っていた。そこにあるのは、何者にも屈しない、一ノ瀬財閥の正当なる後継者としての、苛烈なまでの誇りだった。
「ふざけた真似をしてくれるじゃない。たかが一企業の分際で、この一ノ瀬葵の、そして私の神聖な舞台に泥を塗ったこと、骨の髄まで後悔させてあげるわ」
葵はデスクの上のマイクを引き寄せ、蓮のノートPCのカメラの前に立った。
「蓮、今すぐ公式の生配信チャンネルを立ち上げなさい。特設サイトのトップページにも、この映像を強制ミラーリングするのよ。……全人類に向けて、私の言葉を叩きつけてあげるわ!」
「了解。……配信、いつでもいけるぞ」
蓮の指が動き、画面に「LIVE」の赤い文字が点灯した。
世界中の、そして日本中の何十万人というネットユーザーが、異常事態に揺れる特設サイトを見つめているその瞬間――画面に映し出されたのは、乱れのない完璧な美貌と、世界を射抜くような鋭い瞳をした、一ノ瀬葵の姿だった。
「全人類、静粛に聞きなさい」
葵の声は、ノイズを一切含まない、クリスタルのような冷徹さで響き渡った。
「現在、いくつかの三流メディアが、我がオーディションの信頼性について、哀れな妄想を書き連ねているようだけれど……すべては完全なる虚偽よ。先ほど、エントリーナンバー1番・皇類の得票数が激減したのは、我がシステムチームが、外部からの悪質な『組織票ボットアクセス』を検出し、それを完全排除した正当な結果です」
葵はカメラを真っ直ぐに見据え、一歩も引かない姿勢で言い放った。
「言い訳はさせないわ。プロモーション・レガリア。あんたたちが裏でどれほど汚い手を使い、おカネと組織の力で私のシステムをハッキングしようとしたか、そのすべての通信ログと、不正アクセスの証拠は、すでにこちらのデータベースに完璧に保存されているの」
葵は、ふわりと髪をかき上げ、傲慢に、しかし絶対的な正義を持って微笑んだ。
「勘違いしないで。私のオーディションを汚す奴は、どんなイケメンでもお払い箱よ! たとえどれほど完璧なルックスを持っていようと、その裏で卑劣な不正を働くような不潔な魂の持ち主など、私の世界には一ミリも不要! 私が求めているのは、この一ノ瀬葵にふさわしい、一点の曇りもない『至高の存在』だけよ!」
その一喝は、電子の海を、そして画面の向こう側にいる何百万人という人間の脳髄を、激しく揺さぶった。大企業の利権や、大人の事情などという生温い言い訳を、一ノ瀬葵の圧倒的なプライドが、跡形もなく粉砕した瞬間だった。
「レガリア、そして黒岩副社長。これ以上、私の庭で汚い真似をするなら、一ノ瀬財閥の総力を挙げて、あんたたちの会社ごと、この世の経済から文字通り『完全排除』してあげるわ。……私のワガママを、舐めないことね!」
葵はそう言い捨てると、自らの手で配信の切断ボタンを強く叩いた。
◇
配信が切れた直後のリビングは、再び奇妙な静寂に包まれた。
「……はぁ、はぁ……っ」
葵は、胸を激しく上下させながら、自分の拳を強く握り締めていた。
これほどまでに感情を爆発させ、世間に向けて啖呵を切ったのは、彼女の人生でも初めてのことだった。大財閥の令嬢として、常に完璧にコントロールされた世界にいた彼女が、初めて自らの意志で、剥き出しの牙を剥いたのだ。
「……葵」
蓮が、静かに声をかけた。その手元にあるモニターのタイムラインが、先ほどとは全く違う、凄まじい「地殻変動」を起こし始めていた。
『おい、マジかよ……。お嬢様、ガチの生配信でレガリアに宣戦布告しやがった……』
『証拠ログまで画面に出してただろ。レガリア側、完全に言い訳できないレベルの黒じゃん』
『「私のオーディションを汚す奴は、どんなイケメンでもお払い箱よ!」って、セリフ強すぎる。痺れたわ』
『ただのワガママな金持ちの道楽だと思ってたけど、このお嬢様、めちゃくちゃ芯が通ってて格好いいじゃん……』
ネットの住人たちは、葵のその「圧倒的な高潔さ」に、完全に魅了されていた。
大企業の不正を恐れず、自らのルールとプライドのために、たった一人で巨悪に立ち向かう。その姿は、彼らが想像していた「嫌みなワガママ令嬢」ではなく、気高く、美しい、本物の「女王」そのものだった。
『一ノ瀬葵お嬢様、マジで推せる』
『このオーディション、ガチのガチだわ。出来レースなんて一切ねえ』
『黒崎くんも如月くんも、お嬢様が守ってくれたんだな。最高の展開になってきたぞ』
世間の評価は完全に一変した。
「プロモーション・レガリア」の株価は、葵の配信からわずか数十分で暴落を始め、黒岩副社長は自らの保身のために、皇類の不正アクセスに関する一切の関与を否定する、事実上の全面降伏の謝罪文を発表せざるを得なくなった。
「……勝った、な。お嬢様」
蓮はモニターを見上げながら、ポツリと言った。
「世間はお前を『ただのワガママ令嬢じゃない』と認め始めた。注目度は最初の十倍以上だ。このオーディションは、今や誰も止めることのできない、本物の社会現象になったよ」
葵はモニターに映る「お嬢様推し」の書き込みを見つめながら、フッと、いつもの傲慢な、しかしどこか少女のような純粋さを残した微笑みを浮かべた。
「当然よ。私の世界に、不正も、不潔なものも、一切の妥協も許されないのだから」
◇
午前六時。
完全に夜が明け、東京の街並みが、鮮やかな朝の光の中に浮かび上がっていた。
窓から差し込む黄金色の光が、広大なリビングルームの床を優しく照らしている。一万枚の履歴書の残骸も、激しい電脳戦の緊迫感も、その光の中に静かに溶けていくようだった。
「ふあぁ……。本当に、今度こそ限界だ。僕は寝る。ベッドまで歩く体力もないから、ここで床に還る……」
蓮は椅子の背もたれから滑り落ちるようにして、高級な絨毯の上に文字通り行き倒れた。
メガネは完全に外れ、床にコロンと転がっている。一晩中、葵のプライドを守るためだけに、その天才的な頭脳をフル回転させ続けた幼馴染は、今や泥のように深い眠りの中に落ちようとしていた。
葵は、カウチソファーから静かに立ち上がり、床に転がっている蓮のそばに歩み寄った。
いつもなら、「だらしないわね!」と足蹴にするところだった。だが、今の葵は、ただ静かに、その冴えない幼馴染の寝顔を見つめていた。
床に落ちていた黒縁メガネを拾い上げ、サイドテーブルに置く。
そして、自分の肩に羽織っていたシルクのガウンをそっと脱ぎ、丸くなっている蓮の身体の上に、優しくかけてやった。
(……毎日、毎日本当に文句ばかり言うくせに)
葵は、蓮の規則正しい寝息を聞きながら、膝を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
(私が不正を許さないって言った時、あんたは一言も否定しなかった。私のワガママに、全部、完璧に付き合って、私のプライドを、あんたのその手で守ってくれた……)
朝の光の中で見る蓮の顔は、やはり髪はボサボサで、お世辞にも世間の言う「完璧なイケメン」とは呼べないかもしれない。葵の超ハイレベルな基準からすれば、ギリギリ妥協スレスレ、ストライクゾーンの最外周を掠めるか掠めないかってレベルの、ただの男子だ。
けれど――。
(……なんなのよ、もう)
葵は、自分の頬が、朝焼けの光よりも赤くなっていることに気づき、慌てて両手で顔を覆った。
胸の奥で、トクトクと跳ねる不規則な鼓動。それは、一万人のイケメンたちの写真をどれだけ見つめても、決して起きることのなかった、彼女の人生で初めての「熱」だった。
「あんたが私の『強制運営チーフ』なんだから、これくらい当然よ。……バカ蓮」
葵は小さく毒づきながらも、その泥のように眠る幼馴染の隣で、自らもそっと目を閉じるのだった。
一般投票を終え、ファイナリストは個性豊かな「5名」に絞られる。そして物語は、彼らの仮面が剥がれ落ちる、狂乱の「合宿審査」へと進んでいく。




