第5章『狂熱の裏側』そして深夜二時の静かな予兆
「黒崎駆が四十万票突破、如月涼が四十二万票……か。冗談みたいな数字だな」
神城蓮は、デスクの上に並べられた三枚のモニターを見つめながら、指先でパチパチとキーボードを叩いていた。
時刻は深夜二時を回ったところだ。タワーマンションの窓の外には、静まり返った東京の夜景がどこまでも広がっている。しかし、蓮の目の前にある電子の海――「伴侶オーディション特設サイト」のサーバー内部は、いまだに昼間のような熱気と狂乱に包まれていた。
一般投票が開始されてから、ネット民の暴走は止まる気配を見せない。
泥臭いガチ勢の苦学生・黒崎駆と、無自覚な天使の歌声を持つ如月涼。二人のシンデレラボイが引き起こした巨大なウェーブは、お嬢様の完璧な計算を木っ端微塵に打ち砕き、今やこのオーディションを社会現象にまで押し上げようとしていた。
「……ん?」
ふと、蓮の指先がピタリと止まった。
画面の隅で、一秒ごとに更新される生データのログ。そこに、奇妙な『歪み』が混ざり始めていることに気づいたのだ。
「特定のIPアドレス群からの、連続したアクセス。一見すると一般ユーザーの投票に見えるように分散されているが……この規則性は、ボット(Bot)か?」
蓮は黒縁メガネを押し上げ、画面に顔を近づけた。
投票カウンターが異常な挙動を示しているのは、現在ランキング三位に甘んじているエントリーナンバー1番――完璧なプロモデル、皇類のページだった。
一分間に数百票、それも完全に一定のインターバルを保ちながら、彼の数字だけが不自然に底上げされている。それは、ネットの住人たちが引き起こしている「お祭り」の熱狂とは明らかに一線を画する、冷徹で、機械的な数字の暴力だった。
「ただのバズじゃない。これは……裏で誰かが『意図的』に数字を動かしているな」
蓮の呟きは、深夜の静かな部屋に重く沈んでいった。
◇
同じ時刻、港区の一等地にあるスタイリッシュなビルの一室。
そこは、完璧なプロモデル・皇類が所属する、国内最大手の芸能事務所「プロモーション・レガリア」の役員室だった。
「……現在の状況は?」
デスクの向こう側に座る初老の男――レガリアの副社長である黒岩が、冷酷な声で問いかけた。その目の前には、数人の有能なシステムエンジニアと、皇類のマネージャーが直立不動で控えている。
「は。一ノ瀬財閥のオーディションサイトですが、現在、一般民衆による悪ノリで、黒崎と如月という素人二名が上位を独占しております。このままでは、我が社の看板モデルである皇類が、あのお嬢様の伴侶という『最高の座』を逃すだけでなく、泥を塗られる形になります」
「ふん。大富豪のガキの道楽に付き合ってやっているというのに、不愉快な話だ」
黒岩は葉巻に火をつけ、紫煙をくゆらせた。
「皇類が一ノ瀬葵の伴侶となる。それによって得られる一ノ瀬財閥の資産、そして我が社が手にする莫大な利権と名声は、何としても死守せねばならん。たかがネット民の悪ノリごときに、我々の完璧なシナリオを邪魔されてたまるか」
「すでに、海外のシステム業者を通じて、数十万規模の『ステルス組織票』を投入し始めております」
チーフエンジニアが、手元のタブレットを示しながら冷徹に微笑んだ。
「一ノ瀬側のサーバーを監視していますが、セキュリティは一般的な中小企業のWebサイトレベルです。こちらのボット群は、プロキシサーバーを幾重にも経由し、本物の人間がスマートフォンから投票しているように偽装しています。一ノ瀬側のシステム担当者がどれほど優秀だろうと、この不正を見抜くことは不可能です」
「よろしい」
黒岩は満足げに頷き、冷たい瞳で画面の中の皇類の顔写真を見つめた。
「夜が明ける頃には、皇類を圧倒的な一位に返り咲かせろ。ネットの有象無象どもに、プロ組織の圧倒的な力というものを見せつけてやるのだ」
◇
午前四時。
一ノ瀬葵のタワーマンションの巨大モニターは、異常な光景を映し出していた。
「な、何が起きているの……?」
寝室から飛び出してきた一ノ瀬葵は、シルクのガウンを羽織ったまま、目を見開いてモニターを凝視していた。
わずか数時間前まで、黒崎駆と如月涼の二強状態だったはずのランキングが、跡形もなく塗り替えられていたのだ。
1位:皇 類 1,200,000票
2位:如月 涼 650,000票
3位:黒崎 駆 610,000票
皇類の票数だけが、まるで垂直にそびえ立つ壁のように跳ね上がっている。その勢いは現在も衰えず、一秒ごとに数千票という単位で他の二人を突き放していた。
ネットのタイムラインも、この異常事態に即座に反応し、大炎上を始めていた。
『おいおいおい、皇類の票数おかしくね!?』
『さっきまで二倍近く差があったのに、一瞬でぶち抜かれてて草。どんなチートだよ』
『これマジで組織票だろ。レガリア(所属事務所)が本気出してきたなwww』
『一気に冷めたわ。結局、大手芸能事務所の出来レースかよ。お嬢様のオーディションも形だけだな』
「形だけ……? 私のオーディションが、出来レース……!?」
葵はタイムラインの書き込みを読みながら、怒りで全身を震わせた。
彼女にとって、このオーディションは自分の「完璧な世界」にふさわしい伴侶を探すための、絶対的に神聖な場所なのだ。それを、誰とも知れぬ卑劣な手によって汚されているという事実に、彼女のプライドは限界まで逆撫でされていた。
「蓮! これ、どういうこと!? 説明しなさい!」
「落ち着け、葵。……今、解析が終わった」
蓮は一晩中キーボードを叩き続けたせいで、声が完全に枯れていた。しかし、その瞳には、いつもの冴えない裏方からは想像もつかないほど、鋭く冷徹な光が宿っていた。
「やっぱり組織票だ。海外の複数のサーバーを経由して、精密に偽装された投票ボットが送り込まれてる。それも、ただの嫌がらせじゃない。プロのエンジニアが、何百万という組織票をシステマチックに投入している形跡がある」
「……プロの、エンジニア?」
「ああ。おそらく、エントリーナンバー1番・皇類の後ろ盾だな」
蓮のその言葉に、葵の瞳に冷たい炎が灯った。
◇
「皇類の、事務所……。大手芸能事務所が、私のシステムに侵入して、不正に票を操作しているっていうのね?」
葵の声は、低く、信じられないほど静かだった。それは、彼女が本当の意味で「激怒」しているときのサインだった。
「ああ。やつらは一ノ瀬財閥のシステムを舐めてるんだよ。お嬢様の個人企画だから、セキュリティも甘いと踏んだんだろう。実際、既存の防御壁はすり抜けられてる。このまま放置すれば、あと数時間で皇類の勝利が確定し、ネットの熱狂は完全に冷める」
蓮は画面から視線を外さず、淡々と状況を報告する。
「どうする、葵? 相手は芸能界の巨頭だ。ここで大ごとにすれば、一ノ瀬財閥とレガリアの関係にもヒビが入るかもしれない。形だけでも皇類を優勝させて、裏で大人の取引をするっていうのが、いわゆる『まともな金持ち』のやり方だけど」
蓮はあえて、挑発するように葵を振り返った。
幼馴染として、彼女の性格を誰よりも理解しているからこその問いかけだった。
「……まともな、金持ち?」
葵は一歩、蓮の方へ踏み出した。その足取りには、大財閥の令嬢としての、圧倒的な威厳が満ちていた。
「ふざけないで。そんな汚い大人の事情なんて、私の世界には一ミリも必要ないわ! 私が10億円もの私財を投じて、全国から一万人もの応募を集めたのは、汚い利権まみれの操り人形を私の隣に置くためじゃない!」
葵はモニターの中の、完璧な笑顔を浮かべる皇類の顔写真を激しく指差した。
「私のオーディションを汚す奴は、どんなイケメンでもお払い箱よ! たかが芸能事務所が、この一ノ瀬葵を、そして私の神聖な舞台をコケにしておいて、タダで済むと思っているのかしら!?」
葵のプライドの高さは、決してただのワガママではなかった。それは、「自分自身の選択に対する絶対的な誠実さ」の裏返しでもあったのだ。不正を絶対に許さず、自分のルールを何よりも尊ぶ。その凛とした姿に、蓮は思わず目を見張った。
「……そう言うと思ったよ。お嬢様」
蓮の唇の端が、わずかに吊り上がった。
「じゃあ、一ノ瀬財閥の『強制運営チーフ』として、最高のご命令をいただけますか?」
「蓮、あんたのそのハッキング(?)技術だか何だか知らないけれど、持てる力のすべてを使いなさい! 私の財力なら、いくらでも使っていいわ。あの泥棒猫どもの不正票を、一枚残らず叩き潰して、完全排除しなさい!」
「了解。……お嬢様の仰せのままに(マイ・レディ)」
蓮は斜めに傾いていた黒縁メガネを、クイと指で押し戻した。その瞬間、彼の纏う空気が、完全に『プロフェッショナル』のものへと切り替わった。
◇
「さて……。大企業のプロ連中が、僕たちのシステムを舐めてくれたお礼をしないとな」
蓮の指が、キーボードの上で目にも留まらぬ速さで踊り始めた。画面に映し出されるログが、凄まじい速度で流れていく。
葵は蓮の隣に立ち、その横顔をじっと見つめていた。普段は自分のワガママに振り回されてばかりの、冴えない「空気」のような幼馴染。しかし、こうしてシステムの深淵に対峙しているときの彼は、まるで戦場を支配する若き将軍のような、奇妙な色気を放っていた。
(……なんなのよ、こいつ。いつもはあんなに頼りないのに、こういう時だけ、ちょっとだけ格好よく見えるじゃないの)
葵は胸の奥が再び小さく疼くのを感じ、慌てて首を振って雑念を振り払った。
「蓮、進捗はどうなの!?」
「今、相手のボットネットの通信経路を完全に逆探知した。プロキシサーバーの偽装を剥ぎ取って、大元の発信源を特定しているところだ。……よし、捕まえた。港区のビルだな」
蓮はエンターキーを強く叩いた。
「一ノ瀬財閥が保有する最高性能のクラウドサーバーを三個、並列で起動する。ここから、相手のボット群からのアクセスをミリ秒単位で精査し、不正な署名を持つ投票をリアルタイムで『無効化』するプログラムを流し込む」
「やっておしまいなさい!」
電子の世界で、一ノ瀬財閥の圧倒的な財力と、神城蓮という規格外の天才の技術が、大手芸能事務所のエンジニア集団へと襲いかかった。
レガリアの役員室では、突然エンジニアたちの端末が真っ赤なエラー警告で埋め尽くされていた。
「な、何だこれは!? 我々のボットネットのアクセスが、次々と遮断されていく……!?」
「バカな! 相手の防衛システムが、こちらの偽装を完璧に見抜いているだと!? それに、この凄まじい逆アクセスの奔流は……一ノ瀬側のサーバーパワーが桁違いすぎる!!」
「副社長! 不正票のグラフが……落ちていきます! 止まりません!!」
黒岩は、咥えていた葉巻を床に落とした。
モニターの中で、先ほどまで120万票を誇っていた皇類のカウンターが、凄まじい勢いで「カウントダウン」を始めていたのだ。100万、80万、50万……。不正なボットによる投票が、蓮の手によって完全に削ぎ落とされていく。
そして、午前五時。
朝日がタワーマンションのリビングに差し込む頃、画面の数字は完全に元の姿を取り戻していた。
1位:如月 涼 660,000票
2位:黒崎 駆 620,000票
3位:皇 類 230,000票(※不正票完全排除済み)
「ふう……。終わったぞ、葵。不正票、完全排除だ」
蓮は椅子の背もたれにドサリと寄りかかり、完全に真っ白な灰のようになって燃え尽きていた。
「やったわ……! 見たみなさい、これが一ノ瀬葵の力よ!」
葵は勝利の女神のように胸を張り、狂喜乱舞するネットのタイムラインを見つめた。
ネット民たちは、この一瞬のランキング激変と、一ノ瀬側が即座に開示した「不正アクセスに関する公式声明」を読んで、再び大熱狂を始めていた。
『嘘だろ!? 一ノ瀬財閥、レガリアの組織票をガチで完全排除しやがった!!』
『お嬢様カッケーーー!!! 「私の世界に不正は不要」ってマジで有言実行じゃん!』
『ただのワガママ令嬢かと思っててすまんかった。このオーディション、ガチの神企画だわ』
世間からの評価は一変し、葵は「芯のある高潔なお嬢様」として、さらなる注目を浴び始めることになる。
葵は満足げに微笑み、そして、デスクの上で完全に気絶するように眠り込んでしまった幼馴染の頭に、そっと自分の上着をかけてやるのだった。




