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第4章『嵐のあとの静けさ』そして消えない微熱

あらすじ

葵が「下々の民にも拝ませてあげるわ」と高飛車に開始したネット一般投票ですが、彼女の予想に反して、妹の治療費のために人生を賭ける苦学生の黒崎駆や、圧倒的な歌の才能と愛嬌を持つ如月涼がSNSで大バズりし、オーディションは葵の計算を超えた大熱狂の渦へと巻き込まれていく。

一ノ瀬財閥が誇る超高層一等地タワーマンションの最上階。その広大なリビングルームには、まるで大型台風が通過した直後のような、奇妙な静寂が満ちていた。

床一面に散らばっていたのは、全国から集まった一万枚におよぶ履歴書の残骸――ではなく、一ノ瀬葵の「独自の極悪な審査基準」によって容赦なく不合格の烙印を押され、冷徹な電動シュレッダーの手によって文字通りの塵芥へと変えられた、紙屑の山だった。

「ふあぁ……。死ぬ。確実に死ぬ。労働基準法って言葉を知ってるか、お嬢様」

ソファーの足元に力なく座り込み、高級な絨毯に頭を預けているのは、神城蓮だった。

いつもかけている作業用の黒縁メガネは心なしか斜めに傾き、前髪はボサボサに乱れている。寝不足のせいで目の下にはうっすらと色濃い隈が浮かび、普段の「冴えない裏方」としての風貌に、さらに拍車がかかっていた。一万枚の書類を文字通り徹夜で仕分け、葵の気まぐれな命令に従ってシュレッダーを回し続けたのだ。彼の肉体はすでに限界を迎えていた。

「だらしないわね、蓮。この程度でへこたれるなんて、私の『強制運営チーフ』としての自覚が足りないんじゃないかしら?」

対照的に、部屋の主である一ノ瀬葵は、優雅にカウチソファーに腰掛けていた。

一睡もしていないはずだというのに、その輝くような美貌には一点の陰りもない。シルクのルームウェアを纏い、最高級のダージリンティーを口に運ぶ姿は、まさに唯我独尊を体現する大財閥の令嬢そのものだった。

だが――葵はカップを持つ指先が、ほんの少しだけ震えていることに気づいていた。

(……なんなのよ、さっきから)

葵は、紅茶の湯気の向こう側で死に絶えている幼馴染の姿を、盗み見るように視線に捉えた。

書類審査の最中、極限の徹夜作業のドサクサに紛れて、気づいてしまったのだ。

自分が提示した、あの狂気じみた「参加不可事項」。短足不可、不潔不可、口臭不可、顔デカ不可……男としての最低限の品格と清潔感を極限まで突き詰めた、常人にはクリア不可能なハードル。それを、目の前でボロ雑巾のように転がっているこの「空気」のような男が、何一つ溢すことなく完璧にクリアしているという事実に。

(あり得ないわ。蓮はただの蓮よ? 私のワガママに振り回されるためだけに存在する、ただの奴隷。顔だって……そうよ、顔だってよく見れば、ギリギリ妥協スレスレ、私のストライクゾーンの最外周を掠めるか掠めないかってレベルの、ただの凡男子ぼんだんしなんだから……!)

「おい、葵。さっきからこっちをじっと見て、何ブツブツ言ってるんだ? 怖いんだけど」

「な、何でもないわよ! 誰があんたなんか見るもんですか! 視力が低下するわ!」

蓮が怪訝そうに片目をあけると、葵はあからさまに動揺しながら顔を背けた。

胸の奥で、トクトクと不規則な鼓動が跳ねる。その理由を認めることは、一ノ瀬葵のプライドが絶対に許さなかった。彼女は誤魔化すように、手元にあった特製のタブレット端末を強く叩いた。

「それより蓮、さっさと起き上がりなさい! 100名の書類選考が終わったのなら、次はいよいよ本番よ。私の完璧な伴侶を決めるための、神聖なる第2次審査の幕開けなんだから!」



「第2次審査……。いよいよネット一般投票、か」

蓮は重い身体を起こし、メガネの位置を直しながら、手元のコントロール用ノートPCを引き寄せた。

画面には、すでに蓮が徹夜で構築した「一ノ瀬葵・伴侶オーディション特設サイト」の管理画面が表示されている。100名のファイナリスト候補たちの写真、プロフィール、そして自己アピール動画が、整然とデータベースに格納されていた。

「そうよ。10億円もの私財を投じて開催する、世紀の祭典だもの。私一人で選ぶのも一興だけれど、せっかくならこの国中を巻き込んで、盛大に盛り上げてあげなくちゃね」

葵はカウチから立ち上がり、窓の外に広がる東京の街並みを見下ろした。

地上数百メートルから見る人間は、まるでアリのようだ。彼女にとって、世間の人間たちは自分のエンターテインメントを彩るための「観客」に過ぎない。

「仕方ないから、下々の民にも拝ませてあげるわ」

葵は不敵に微笑み、髪をふわりとかき上げた。

「私の世界に不潔なものや不細工は不要。書類審査を生き残った100人は、どこに出しても恥ずかしくない至高の原石たちよ。愚かな大衆どもが、彼らの輝きにどれほど目を眩ませ、熱狂するか……見物じゃない?」

「はいはい、お嬢様のご意向のままに。じゃあ、投票システムのサーバーを開放するぞ。プレスリリースも同時に打つ。……いいんだな?」

「ええ、やりなさい!」

蓮がエンターキーを静かに叩いた。

その瞬間、電子の海に向けて、一ノ瀬財閥の総力を挙げた狂気のオーディションサイトが解禁された。

【総資産10億円! 一ノ瀬財閥令嬢・一ノ瀬葵の伴侶オーディション、一般投票開始!】

大手ニュースサイト、SNSのトレンド、動画配信プラットフォーム。あらゆるメディアのトップページが、一瞬にして葵のオーディション情報で埋め尽くされていく。

それは、傲慢な女王が仕掛けた、日本中を巻き込むエンターテインメントという名の「遊び」の始まりだった。葵は当然のように確信していた。自分が選んだ、完璧なルックスを持つ男たち――例えば、あの完璧なプロモデルである皇類すめらぎ るいのような男が、圧倒的な票数を集めて自分の足元へひれ伏す未来を。



一般投票が開始されてから、わずか3時間。

インターネットの世界は、葵の予想を遥かに超える速度で沸騰を始めていた。

富豪のお嬢様が「イケメンを探す」という名目で10億円をばら撒くという前代未聞の企画は、格好の「お祭り」としてネット民に認知されたのだ。SNSのタイムラインは、秒単位で凄まじい濁流となって流れていく。

『おいおい、一ノ瀬財閥のマジの令嬢じゃん。顔面偏差値バグってない?』

『10億円の結婚相手探しって、リアルシンデレラ(男版)かよwww』

『書類審査の基準が厳しすぎて草。ワキガ不可、短足不可って、ワイ開幕即死でワロタ』

『でも残ってる100人、確かにレベル高えわ。ジャニーズとかジュノンボーイの比じゃないぞこれ』

タワマンのリビングに設置された巨大なモニターには、リアルタイムで集計される投票数と、SNSの書き込みを分析するグラフが目まぐるしく変動していた。

「ふん、当然の反応ね」

葵は満足げに鼻を鳴らした。

「私の目に狂いはないわ。ほら、見てみなさい。私の予想通り、エントリーナンバー1番、皇類くんの票数が頭一つ抜けているじゃない。やっぱり世間も、この完璧な美貌と洗練されたプロのオーラには抗えないのよ」

画面の最上部には、すでに数万票を獲得して独走態勢に入りつつある皇類の顔写真があった。ため息が出るほどに整った顔立ち、計算し尽くされた角度、哀愁を帯びた瞳。プロモデルとしての実績を持つ彼は、開始直後から圧倒的な強さを見せていた。

「確かに、皇類は強いな。既存のファンも動いてるみたいだし、SNSでの拡散力も段違いだ」

蓮はキーボードを叩きながら、冷静にデータを分析する。

「でも、葵。ネットの海っていうのは、お前みたいな大富豪の計算通りに動くほど素直な場所じゃないぞ。ほら……ここ、10分前から特定の数名に対するトラフィックが異常な角度で垂直立ち上がりを見せてる」

「……は? 垂直立ち上がり?」

葵が眉をひそめてモニターに近づく。

蓮がポインタを合わせたのは、皇類のきらびやかな写真から大きく下がった、ランキングの中位、いや、下位に沈んでいたはずの、ある男たちのページだった。



「な、何よこれ……!? 何かのバグじゃないの!?」

葵の悲鳴のような声が、静かな部屋に響いた。

モニターのグラフが、信じられない挙動を示していた。エントリーナンバー47番。名前は、黒崎駆くろさき かける

書類審査の時、葵が「一見ぶっきらぼうで愛想がないし、何よりこの泥臭い雰囲気が私の世界に合わないわ!」と、シュレッダーの手前まで持っていきながらも、蓮の「いや、顔の骨格とパーツの配置は完璧だぞ」という引き止めによって、ギリギリ100人に残した19歳の苦学生だった。

彼のプロフィール欄には、オーディションに応募した理由が、飾らない言葉で、しかし痛切に書かれていた。

『病気の妹の治療費が必要。賞金の10億円がどうしても欲しい。それだけだ』

そして、自己アピール動画。他の候補者たちが特技のダンスを披露したり、甘い言葉をカメラに囁いたりする中、黒崎駆の動画だけは異質だった。

薄暗いアパートの一室、擦り切れたTシャツ姿の彼は、カメラを睨みつけるようにして、ただ一言だけ放ったのだ。

「……俺には、お嬢様の遊びに付き合う余裕なんてねえ。けど、妹を救えるなら、プライドでも何でもいくらでも売ってやる。選べよ、お嬢様」

そのぶっきらぼうで、一切媚びていない、しかし瞳の奥に狂おしいほどの情熱と悲壮感を宿した19歳の姿が――ネットの住人たちの「何かに飢えた心」に、完全に突き刺さった。

『待て、この47番の黒崎ってやつ、ヤバい』

『他の男たちが10億円と逆玉の輿を狙ってニヤついてる中で、一人だけ目がガチすぎる』

『アピール動画見た。一瞬で鳥肌立ったわ。何この、少年漫画の主人公みたいな執念』

『【拡散希望】黒崎駆くん、マジで妹の治療費のために人生賭けてるらしい。お前ら、大富豪の道楽をめちゃくちゃにするために、このガチ勢を優勝させようぜ!!』

SNS上で、有志による「黒崎駆全力応援祭り」が突発的に発生した。

まとめサイトが彼のバックボーン(施設育ちの苦学生、バイトを3つ掛け持ちしながら妹を看病しているという噂など)を面白おかしく、しかし劇的に書き立てると、それは瞬く間に何万回もリツイートされ、大拡散していった。

「な、なんで!? なんでこんな、泥臭くて、私の嫌いなタイプの男がバズってるのよ!?」

葵はタブレットを握り締め、顔を真っ赤にしていた。

画面の中の黒崎駆の票数は、まさにネズミ算式に膨れ上がっている。数千、数万、そして十万。独走していたはずの皇類の背中が、一瞬で見えるところまで迫ってきた。

「ネット民っていうのはさ、『持てる者』の傲慢な企画を、自分たちの力でひっくり返すのが大好きなんだよ」

蓮は少しだけ苦笑しながら、暴走するタイムラインを監視する。

「それに、お前の言う『泥臭さ』は、裏を返せば『リアルな必死さ』だ。記号化されたイケメンに飽きてた連中にとって、彼のガチな横顔は、最高にエモーショナルで『推せる』対象なんだろうな」

「くっ……! 認めないわよ、私は認めないんだから! 伴侶オーディションに『妹の治療費』なんて、お門違いにも程があるわ!」



しかし、ネットの暴走は黒崎駆だけにとどまらなかった。

「おい、葵。もう一波動ウェーブ来たぞ。今度は……破壊力が違った意味で桁外れだ」

「な、何がよ! もうこれ以上、私の計算を狂わせないで!」

蓮が画面を切り替えると、そこに映し出されたのは、エントリーナンバー82番。如月涼きさらぎ りょう、16歳。

書類審査の際、葵が「あら、なんだか小動物みたいで可愛いじゃない」と、なかばマスコット枠として通過させた少年だった。

プロフィールには『姉に勝手に応募されました。よく分かってないですけど、頑張ります』という、あまりにも無欲で素朴な言葉が躍っていた。

そして、彼がバズった原因は、アピール動画そのものではなかった。

投票開始から2時間後、動画共有サイトに一本の動画が「発掘」されて投稿されたのだ。それは、彼の実の姉が数年前に個人的にアップロードしていた、如月涼が自宅のリビングで、アコースティックギターを片手に洋楽のバラードを口ずさんでいるだけの、プライベートな映像だった。

その歌声が――衝撃的だった。

普段の素朴でピュアな、どこか頼りない少年の姿からは想像もつかないほどに、透き通った、しかし聴く者の鼓膜と魂を直接震わせるような、圧倒的な「天才の歌声」だったのだ。

カメラに向かって照れくさそうに笑う無垢な笑顔と、歌っている瞬間の、神聖さすら感じさせる圧倒的なギャップ。それが、全人類の母性本能とオタク心を完全に爆撃した。

『動画見た奴いる!? 82番の如月涼くん、ガチの神童なんだが!?』

『姉ちゃん勝手に応募してくれてマジでありがとうの気持ちしかない』

『歌声が天使すぎる。普段の喋り方の「はにゃ?」って感じの愛嬌と、歌のギャップで脳が溶けた』

『おい、TikTokで「#如月涼」のハッシュタグが1時間で1000万再生超えたぞ!!』

「な、なぁにこれ……。動画の再生回数が、カウンターが壊れたみたいに回ってるんだけど……」

葵は完全に呆然としていた。

如月涼の票数は、黒崎駆のようなドロドロとした熱狂とはまた違う、美しく巨大な「光の潮流」となって、ランキングを猛烈な勢いで駆け上がっていた。皇類、黒崎駆、そして如月涼。三つの異なる属性を持った巨大な熱量が、特設サイトのサーバーを限界まで軋ませていた。

「これぞ『無自覚な天才』の底力、だな」

蓮はキーボードから手を離し、もはや自分たちのコントロールの及ばない領域で熱狂する画面を見つめた。

「お前が『仕方ないから一般投票を許可してあげる』なんて上から目線で門戸を開いた結果、ネットの怪獣たちが、お前の想像もしなかった『本物の化け物』たちを見つけ出しちゃったんだよ、葵」

モニターの光に照らされた葵の顔は、屈辱と、驚きと――そして、自分自身が仕掛けたゲームが、自分の手を離れて「とんでもない領域」へ突入していくことへの、奇妙な高揚感に震えていた。

「面白いじゃない……」

葵は拳を強く握り締め、画面の中の男たちを睨みつけた。

「黒崎駆に、如月涼。私の完璧な世界を泥と光で掻き回そうっていうのね。いいわ、下々の民がそこまで言うなら、この2次審査、徹底的に踊らせてあげる! でも、最後に選ぶのは、この私――一ノ瀬葵なんだからね!!」

高らかに宣言するお嬢様の背中を見ながら、蓮は「やれやれ」と深くため息をつき、再び激化するサーバーの負荷対策のために、眠い目をこすりながらプログラミングコードを打ち始めるのだった。

これが、のちに「伝説の10億円オーディション」と呼ばれることになる、世紀のバトルの本当の始まりだった。


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