第3話『妥協と本質』あるいはシュレッダーの調べ
「次! 却下、これも却下! ……あーもう、どいつもこいつも私の美意識を逆撫でするために生まれてきたのかしら!?」
一ノ瀬財閥の超巨大私有地の一角、天井高五メートルを誇る絢爛豪華な応接室に、紙が引き裂かれるような鋭い機械音が不協和音を響かせていた。
音の主は、自動給紙機能付きの業務用シュレッダー。その投入口へ、容赦なく「紙の束」を叩き込んでいるのは、一ノ瀬財閥の総帥が目に入れても痛くないと公言してはばからない一人娘、一ノ瀬葵だった。
高校二年生、十七歳。
ウェーブがかった艶やかな黒髪を揺らし、仕立ての良いシルクのブラウスの袖を雑にまくりあげた彼女は、まさに「超絶美少女」の名を欲しいままにする美貌の持ち主だった。しかし、その整った眉は今はこれ以上ないほど不機嫌そうに吊り上がっており、琥珀色の瞳からは苛烈な光が放たれている。
「ちょっと葵、さっきからシュレッダーの回転速度が限界を超えてるんだけど。機械を壊す前に少し落ち着けよ」
部屋の隅、床が見えないほどに積み上がったダンボールの山に埋もれながら、一人の少年が呆れた声をあげた。
神城蓮。葵と同い年の十七歳で、幼馴染という呪わしい因縁により、今回の『十億円私財投入・全世界(実質全国)伴侶オーディション』の「強制運営チーフ」兼「無給奴隷」に任命された哀れな男子高校生である。
彼の前髪は、目元が完全に隠れるほどに長く伸びていた。鼻梁には、およそファッショナブルとは言い難い、実用性だけを重視した分厚い作業用メガネが乗っている。服も、汚れなど誰も気にしないような色褪せたスウェットパーカーだ。
「落ち着いていられるわけがないでしょう、蓮!」
葵は手元にあった履歴書の一枚を、親の仇を睨みつけるような視線でバシバシと叩いた。
「見てみなさい、この顔! 自称『クラスの王子様』? 笑わせないで。この微妙に開いた鼻の穴と、不自然に強調された顎のラインのどこが王子様だというの? 私の世界に不潔なものや不細工は不要、これは絶対の真理なのよ! そもそも、私がわざわざポケットマネーから十億円も出してあげるっていうのに、この程度の面下げて応募してくる神経が理解できないわ!」
「お前のポケットマネーの規模が頭おかしすぎるのは置いておくとしてさ……」
蓮は手元の書類から目を離さず、シャープペンシルを耳に挟みながら溜息をついた。
「応募要項に『日本国籍の十六歳から二十一歳までの独身男性』って書いたのはお前だろ。そりゃ一万人も集まるよ。問題は、お前がその下に付け足した、あの暗黒のデスリストだ」
「デスリストとは失礼ね。『参加不可事項』と言いなさい。どれも至極当然の最低ラインじゃない」
葵はふん、と鼻を鳴らし、部屋の壁に直筆でデカデカと貼り出された箇条書きを指差した。
「……あのな、葵」
蓮はメガネのブリッジを指で押し上げ、致命的な矛盾を指摘した。
「百歩譲って『既婚・子持ち』は書類で弾けるよ。だけどな、『短足』だの『顔デカ』だの、挙句の果てに『ワキガ』『口臭』なんて、この送られてきた写真付き履歴書と『参加不可事項確認書』だけでどうやって厳密に見分けるんだよ。超能力者かお前は」
「見分けるのよ、魂の眼で!」
「無理言うな。俺の目はもう徹夜のせいでバキバキに充血して、魂どころか目の前の文字を滑るのが精一杯だ」
現在、時刻は午前三時をとうに回っている。
きらびやかな応接室は、今や締め切られた窓の向こうの夜闇と同様、濃密な疲労感に支配されていた。
当初は「私の伴侶選びなんだから、私が全部見るわ!」と息巻いていた葵だったが、一万人という人間の欲望が詰まった書類の物理的な質量は、大財閥の令嬢の想像を遥かに超えていたのである。
「だいたい、この『確認書』の項目も狂ってる。自分で【私は口臭がありません】にチェックを入れて送ってこさせるシステムって何なんだよ。自己申告だぞ? 嘘つくに決まってるだろ」
「嘘をついて紛れ込もうとした不届き者は、次の面接や合宿で私が直々に、至近距離で息を嗅ぎ分けてギタギタの刑処すからいいのよ! 今はとにかく、この写真! そして全体のバランス! 少しでも怪しい要素がある奴は、一万人から一気に百名まで絞り込むための生贄になってもらうわ!」
葵の指先が、再び目にも留まらぬ速さで動き始めた。
「はい、この人髪の毛が脂ぎってるから不潔、脱落! この人は……何この写真の角度? 明らかに顔の大きさを誤魔化そうとして斜め上から撮ってるわね。姑息な真似するな、顔デカ確定、脱落! こっちはハーフパンツから覗くすね毛が絨毯みたいに濃い! 毛深い、脱落!」
ガガガガガ、とシュレッダーが悲鳴をあげる。一ノ瀬財閥が誇る最高級オフィス機器は、深夜の住宅街であれば騒音苦情が来るレベルの駆動音を立てて、世の男性たちの淡いシンデレラストーリーを微塵切りにしていった。
蓮は、葵が「脱落」と判定した書類の山から、まだシュレッダーにかけられていない束を回収し、一応のダブルチェックを行う作業を淡々と続けていた。眠気で頭が割れそうだったが、ここで自分が手を抜けば、後で葵のヒステリックなマシンガントークを浴びることになる。それだけは避けたかった。
「……なぁ葵」
「何よ、私の集中力を削がないで」
「お前のその『超ハイレベルな基準』だけどさ」
蓮は、手元にあった一枚の履歴書――やたらと胸元を開けたナルシスト風の男の写真――を放り出し、背もたれに深く体重を預けた。
「これ、本当に百人に絞れるのか? お前がちょっとでも『気に入らない』と思っただけで切り捨ててたら、最終的に残るのゼロ人なんじゃないか?」
「失礼ね、私はこれでも譲歩しているわ。私の理想を完璧に具現化した人間なんて、この世に現存するはずがないもの。だからこそ、最低限の『不快感を与えないレベル』を求めているのよ」
葵はそう言いながら、次の履歴書を手に取った。しかし、その瞬間、彼女の動きがピタリと止まった。
「……あれ?」
葵は履歴書を持ったまま、まじまじと虚空を見つめた。
「どうした? ついに本物のイケメンでも見つけたか?」
蓮が尋ねるが、葵からの返答はない。彼女は何か、重大なバグに直面したかのような顔で、手元の紙と、部屋の壁のリストを交互に見比べていた。
葵の脳内で、奇妙な演算が始まっていた。
一万人の男たちを「短足!」「不潔!」「顔デカ!」と容赦なく切り捨てていく中で、彼女の鋭すぎる審美眼は、ある一つの「身近なサンプル」へと無自覚に向いてしまっていたのである。
(……待って。そう考えると、アイツは……?)
葵の視線が、おそるおそる、部屋の隅で泥のように座り込んでいる幼馴染へと移動した。
髪はボサボサで前髪が長く、目は隠れている。いつも冴えない作業用メガネをかけていて、服装も含めて全体の風貌は完全に「陰気な裏方」そのものだ。今回のオーディションでも、彼は自ら志願したわけではなく、葵の我が儘によって首根っこを掴まれて連れてこられただけの、文字通りの「奴隷」だった。
だが。
葵は脳内で、蓮の「スペック」を、自分が掲げた過酷なチェックリストに一枚ずつ当てはめていった。
まず、結婚はしていない。子供もいない。これは当然だ、毎日学校で顔を合わせているのだから。
次に「短足不可」。……悔しいが、蓮は幼馴染の贔屓目を抜きにしても、無駄にスタイルが良かった。制服のズボンを履いている時も、座高が低く、脚の長さだけで言えばそこらのモデルに見劣りしない。
「顔デカ不可」。……これも、前髪で隠れてはいるが、時折メガネを外した時に見える輪郭は、驚くほどシャープで小さかった。
「毛深い不可」。……蓮の手元を見る。書類をめくるその指先は細く、無駄な体毛など一切ない、滑らかな肌をしている。
「ワキガ・不潔・口臭不可」。……今、こうして何時間も狭い部屋で徹夜の共同作業をしているが、蓮から嫌な臭いがしたことなど一度もない。むしろ、洗いたての柔軟剤の匂いか、あるいは微かに香るシャンプーのような、妙に落ち着く清潔な匂いが漂っている。
「…………」
葵は息を呑んだ。
信じたくない事実が、彼女の論理的な思考回路を侵食していく。
(嘘……。アイツ、一応、全部クリアしてるじゃない……!!)
一万人の有象無象が、葵の超ハイレベルな基準の前にバタバタと bankrupt(破産)していく中で、最も身近にいる「空気」のような存在が、その網の目を完璧にするりと潜り抜けていたのだ。
(悔しい。何だか猛烈に悔しいわ……!)
葵は胸の奥が、チリチリと熱くなるのを感じた。
自分が十億円という巨万の富を投げ打ち、全国から血眼になって探そうとしている「瑕疵のない男」が、実は最初から自分の斜め後ろに席を置いていたなどと、プライドが許すはずがない。
蓮は、葵の熱烈な(というよりは、怨念の籠った)視線に気づき、不審そうに眉をひそめた。
「なんだよ、葵。俺の顔に何かついてるか? まさか、俺が持ってるこの書類の中に、お前の親戚の隠し子でも紛れ込んでた?」
「な、何でもないわよ! 自意識過剰男! さっさと手を動かしなさい!」
葵は顔がカッと赤くなるのを隠すように、大声で怒鳴り散らした。
「理不尽すぎるだろ……」
蓮は肩をすくめ、再び書類の仕分けに戻った。その際、邪魔そうな前髪をふっと息で吹き上げた。
その一瞬、隙間から覗いた彼の切れ上がった目元と、形の良い鼻筋が、部屋のクリスタルシャンデリアの光を反射して、妙に鮮烈に葵の網膜に焼き付いた。
(……いや、落ち着きなさい、私。確かにアイツは基準をクリアしているかもしれないけれど、それはあくまで『マイナス要素がない』ってだけの話よ。そうよ、あんなの、私の求める究極の美から見れば、顔は妥協ギリギリもいいところなんだから……!)
葵は胸元に手を当て、トクトクといつもより少しだけ早く刻まれる鼓動を静めようと、必死に自分に言い聞かせた。
そうだ、蓮はただの奴隷。裏方。私の我が儘を処理するためだけに存在する空気。彼が「実は隠れたイケメン枠に入っている」なんてこと、天地がひっくり返っても認めるわけにはいかない。
「よし、これで俺の分の束は一次チェック終わり」
蓮が、綺麗に整えられた数百枚の履歴書の山をポンと叩いた。
「葵、お前の方の進捗はどうだ? もう四時になるぞ。いい加減にしないと、明日(というか今日)の学校、二人して遅刻確定だからな」
葵はハッと我に返り、自分の手元を見た。蓮を観察していたせいで、ここ数分間、シュレッダーの手が完全に止まっていた。
「わ、分かってるわよ! 私の恐るべき事務処理能力を舐めないことね!」
葵は誤魔化すように、残りの履歴書をガシッと掴んだ。
そこからの葵の集中力は、凄まじかった。
まるで先ほどの「動揺」を物理的に消し去ろうとするかのように、彼女の魂の眼(と、シュレッダー)は加速していった。
「却下! 却下! これもダメ! これは……ふん、顔はマシだけど、自己PR欄の文章が絶望的に痛々しいから不潔! 却下!」
「文章で不潔判定にするのは新しいな……」
東の空が、うっすらと白み始める頃。
応接室の床には、何リットル分とも知れない、細切れにされた紙屑の山が、まるで雪のように降り積もっていた。
そして、葵のデスクの上には、厳選に厳選を重ねられた、たった「百枚」の履歴書だけが、整然と残されていたのである。
「……終わった……わ……」
葵は、最後の百枚目をトントンとデスクで揃え、そのまま椅子に深く沈み込んだ。その顔には、大仕事を成し遂げた者だけが持つ、奇妙な全能感と、致命的な疲労が同居していた。
「一万人から、一気に百人、か」
蓮もまた、限界を迎えた目でその百枚の山を見つめていた。
「本当にやりやがったな、お前。あの無茶苦茶な極悪審査基準で、よく百人も残ったもんだ」
「当然よ。私の目に狂いはないわ」
葵は、眠気でトロンとした目を蓮に向け、ふふん、と力なく笑った。
「これで、書類審査(一次審査)は完了。次は、この百人を特設サイトに登録して、一般投票の開始よ。『仕方ないから下々の民にも拝ませてあげるわ』ってね」
「はいはい、お高飛車サマ。じゃあ、俺はもう帰って寝るからな。これ以上付き合ったら、俺の寿命が十億円ぶん縮む」
蓮はフラフラと立ち上がり、作業用メガネを外してポケットに突っ込んだ。
その瞬間、遮光カーテンの隙間から差し込んだ朝日の最初の一条が、蓮の露わになった素顔を真っ直ぐに照らした。
メガネという「冴えない風貌」のプロテクターを外された彼の顔は、徹夜明けの気怠さも相まって、アンニュイで、どこか暴力的なほどに整って見えた。
葵は、言葉を失ってその場に凍りついた。
(……本気を出すと、あるいはふとした瞬間、イケメンに見えなくもない……かも……)
そんな考えが頭をよぎった瞬間、葵は激しく首を振った。
「何考えてるのよ、私! バカ、バカ、私のバカ!」
「……? 眠すぎてついに幻覚でも見始めたか? じゃあな、学校で」
蓮は、葵の奇行に慣れっこな様子で、特に気に留めることもなく、千鳥足で応接室を後にした。
バタン、と重厚な扉が閉まる。
静まり返った部屋の中で、葵は両手で自分の赤くなった頬を押さえ、しばらくの間、動くことができなかった。
一万人の中から選ばれた百人の精鋭たち。
これから始まる一般投票によって、彼らの運命は翻弄され、葵の予想もしない展開へと転がっていくことになる。
だが、この時の葵はまだ知る由もなかった。
自分が開催した十億円のオーディションが、最終的に、あの「妥協ギリギリ」の幼馴染の存在を、どれほど大きく、歪みのないものとして自分の心に刻みつけることになるのかを――。
「……絶対に、蓮なんかよりずっと素晴らしいイケメンを見つけてみせるんだから!」
誰もいない部屋で、令嬢は誰に届くともない宣言を、固く握りしめた拳と共に、朝焼けの空へと投げかけるのだった。




