第2話『地獄の書類審査』または深夜二時の奴隷労働
「――はい、次。はい、次。はい、そこの不細工、即シュレッダー行き!」
夜の静寂を切り裂くのは、涼やかな、けれど恐ろしく傲慢な少女の声音。そして、それに続くズバババババ!という、機械が紙の束を無慈悲に噛み砕く、けたたましい破壊音だった。
一ノ瀬財閥の総本部ビル、その最上階にある広大な応接室。日頃は世界各国のVIPを迎えるために使われる最高級の空間は今、足の踏み場もないほどの「紙の海」と化していた。
すべては、たった一人の少女の気まぐれから始まったことだ。
一ノ瀬葵。高校二年、十七歳。日本を動かす巨大財閥の令嬢にして、神がこれでもかと美徳を詰め込んだような超絶美少女。ただし、その性格は「唯我独尊」という言葉すら生ぬるいほどの極悪なワガママ。
彼女は本日、己の伴侶候補――もとい、自分にふさわしい最高峰の「イケメン」を探し出すためだけに、個人資産から十億円という桁外れの私財を投げ打ち、全国規模のオーディションを勝手に開幕させたのだ。
「ちょっと葵、お前さっきから躊躇がなさすぎじゃないか? これ、全国の男子高生や大学生が血と汗と涙を流して書いた履歴書なんだぞ」
部屋の隅、うず高く積まれた段ボール箱から新しい書類の束を抱え上げながら、一人の少年が深いため息をついた。
神城蓮。葵と同じ十七歳の高校二年生。前髪が少し長く、作業用の黒縁メガネをかけた彼の風貌は、お世辞にも華やかとは言えない。この狂気のオーディションにおいて、葵から直々に「強制運営チーフ」――という名の、無給の奴隷に任命された哀れな幼馴染である。
「うるさいわね、蓮。下々の民の血だか汗だか知らないけれど、そんな不潔な水分が混じった紙なんて、私の世界には一秒たりとも存在を許されないのよ」
葵は本革の重厚なデスクチェアに深く腰掛け、美しい足を組みながら、手にした履歴書を宙でひらひらと揺らした。
「見てご覧なさい、このエントリーナンバー一二四八番。志望動機『葵様の犬になりたいです』? ふん、我が家のアフガン・ハウンドの方がよっぽど毛並みも良くて品性があるわ。それにこの顔写真、何よこれ。鼻の下が伸びていて締まりがない。不合格!」
ズババババババババ!
葵の専用デスクの横に鎮座する、業務用特大シュレッダーが歓喜の悲鳴を上げる。
「一ノ瀬財閥特製の超高速シュレッダーよ。毎分三百枚の書類を粉砕できる優れものなんだから。蓮、手を休めないで。次の千枚を持ってきなさい」
「さらっと恐ろしい性能を自慢するな。あと、千枚って簡単に言うけど、人間の腕が何本あると思ってるんだ……。もう深夜の二時だぞ?」
蓮は壁に掛けられたアンティーク調の時計を見上げた。短針は非情にも二時を回り、三時に向かって進んでいる。
目の前には、まだ手をつけていない段ボール箱が数十箱。全国から集まった応募総数は、実に一万枚。
「当たり前でしょう。一万人全員の顔写真をこの私の目で厳密にチェックするのだから、徹夜なんて当然の義務よ」
葵はビシッと細い指を蓮に突きつけた。
「それとも何? 一ノ瀬家の次期当主たる私の伴侶選びよ? もし万が一、私の神聖な視界に『不細工』や『不潔』なものが紛れ込んだら、私の網膜が穢れてしまうわ。これは国家的な損失よ、蓮」
「お前の網膜の心配で国家が傾くかよ……」
蓮は肩をすくめながらも、言われた通りに新しい段ボールを開封し、履歴書を綺麗に整えて葵の机に並べていく。口では文句を言いつつも、手際だけはプロの事務員のようだった。幼少期から葵の無茶振りに応え続けてきた結果、悲しいかな、奴隷としてのスキルだけが異常に洗練されてしまっている。
「大体さ、お前が掲げているこの『参加不可事項』、いくらなんでも厳しすぎないか?」
蓮はデスクの端に貼られた、葵直筆の「審査基準」に目をやった。
【イケメンオーディション参加不可事項】
・既婚者:不可(論外。私の純潔な世界への冒涜)
・子供あり:不可(他人の育児に私の時間を一秒も割く気はない)
・短足:不可(並んで歩く私の美脚に対する侮辱)
・顔デカ:不可(遠近法が狂う。並んで写真を撮りたくない)
・毛深い:不可(生理的に無理。霊長類の進化の過程で止まっている)
・ワキガ:不可(嗅覚のテロ。私の周囲の空気は常に無菌室レベルであるべき)
・不潔:不可(フケ、爪の垢、服のシワ、全てにおいてギルティ)
・口臭:不可(言葉を交わすだけで私の寿命が縮む)
「……これ、現代の成人男性の半分以上がどこかで引っかかるぞ。特に『ワキガ』とか『口臭』なんて、書類の段階でどうやって見分けるんだよ?」
蓮が尋ねると、葵は勝ち誇ったように鼻で笑った。
「フッ、浅いわね蓮。あなたは私の用意した『参加不可事項確認書』の意味を分かっていないわ」
「意味って、ただの誓約書だろ?」
「違うわ。これは『嘘をついたら一ノ瀬財閥の総力を挙げて社会的・法的に処刑します』という無言のプレッシャーよ。見てみなさい、この写真。嘘をついている人間は、顔写真の目の奥が泳いでいるの。ほら、このエントリーナンバー一四〇〇番。イケメン風に気取っているけれど、前髪で隠した額の生え際から、どことなく『不潔な脂』の気配を感じるわ。口臭のチェック項目にチェックが入っているけれど、絶対に朝の歯磨きを三十秒で終わらせるタイプよ。はい、シュレッダー!」
ズガガガガ!
また一枚、未来のイケメン候補(自称)が紙屑へと姿を変えた。
「霊感か何かかよ。というか、お前がシュレッダーにかける速度が早すぎて、俺の仕分けが追いつかないんだが」
「文句を言わないの、強制運営チーフ。あなたが眠そうな顔をしているから、場の空気が弛むのよ。ほら、私のために最高級のエスプレッソを淹れてきなさい。豆は当然、ジャマイカ産のブルーマウンテン、それも今朝空輸されたものよ」
「はいはい、お嬢様。奴隷はコーヒーを淹れに行かせていただきます」
蓮はよろよろと立ち上がり、応接室に併設されたミニキッチンへと向かった。
背後からは相変わらず、ズバババ、ズバババと、リズミカルな粉砕音が響き続けている。
(まったく、あいつは……)
蓮はコーヒーミルを回しながら、呆れ果てた思考を巡らせていた。
一ノ瀬葵という少女は、誰もが振り返るほどの美貌と、世界を動かせるほどの富を持っている。それゆえに、彼女の周りには常に下心が透けて見えるような男たちや、機嫌を取ろうと必死な大人たちばかりが集まってきた。
結果として、彼女のワガママは誰にも止められないレベルにまで肥大化してしまったのだが、蓮だけは知っている。彼女がどれほど極端で、どれほど我が強くても、その根底にあるのは「妥協を許さない純粋さ」なのだということを。
彼女はただ、美しいものが好きなだけだ。そして、自分の世界に嘘や偽り、汚いものを入れたくないだけ。その基準が天よりも高いため、周囲には「極悪なワガママ」と映る。
「おい、葵。コーヒーが入ったぞ」
蓮が漆黒の液体が注がれたカップをデスクに置くと、葵は書類から目を離さずにそれを口に含んだ。
「……ん。温度は完璧ね。少しだけミルクの泡立ちが荒いけれど、合格点をあげるわ」
「そりゃどうも。お前、その調子で一万枚全部やるつもりか?」
「当然よ」
葵は不敵に微笑み、新たな書類の束を掴み取った。
「私は一万人の中から、私に相応しい『本物のトップ・オブ・イケメン』をたった一人だけ選ぶの。妥協なんて一ミリもしないわ。あ、この男、短足。はい、不合格!」
ズババババ!
時計の針は三時を回り、四時に差し掛かろうとしていた。
応接室の中は、シュレッダーから吐き出された紙屑の袋が山積みになり、もはや要塞のようになっている。葵の目は、徹夜の疲労など微塵も感じさせないほど、ギラギラと冷徹な光を放ち続けていた。
「次、蓮! 早く次の箱を開けなさい!」
「わかった、わかったから叫ぶな。今、最後の方の箱を開けてる……」
蓮の意識も、さすがに朦朧としてきた。視界がかすみ、履歴書の文字が二重に見える。それでも、葵の鋭い叱咤に背中を押されるようにして、彼は段ボールにカッターを入れ続けた。
「……あれ?」
不意に、葵の手が止まった。
連続して響いていたシュレッダーの音が途絶え、部屋に奇妙な静寂が訪れる。
蓮が不思議に思って振り返ると、葵は一枚の履歴書をじっと見つめたまま、微動だにしていなかった。
「どうした? ついに神の目に適う超絶イケメンでも見つかったか?」
「……違うわ。変なものを見つけたのよ」
葵は眉をひそめ、不快そうにその書類を蓮に向けて突き出した。
「これ、見てみなさい」
蓮がそれを受け取って目を落とすと、そこには見覚えのある、少しぶっきらぼうな文字で書かれたプロフィールがあった。
「志望動機……『病気の妹の治療費のために、どうしても賞金が必要です。顔の良さには自信がありませんが、どんな過酷な審査にも耐えます』……?」
顔写真の欄には、少し色の褪せた、お世辞にもプロが撮ったとは言えない証明写真が貼られていた。髪は少しボサボサで、目つきも鋭く、お世辞にも「葵好みのキラキラしたイケメン」とは言い難い。名前の欄には『黒崎駆』とある。
「何よ、これ。私のオーディションは困窮者の救済バザーじゃないのよ? それにこのルックス、毛深いわけじゃないけれど、洗練さが微塵もないわ。泥臭いのよ、全体的に。私の美しい世界には最も遠い存在だわ」
葵はフンと鼻を鳴らし、その履歴書を奪い返してシュレッダーの投入口に近づけた。
「即、不合格。私の私財十億円は、最高の美を称えるためのものであって、同情を買うためのものじゃないわ」
「……待てよ、葵」
蓮が思わず、その手首を掴んだ。
「な、何よ蓮。私に気安く触らないで。奴隷の分際で私の審査に口を挟む気?」
葵が目を吊り上げて睨みつけてくるが、蓮は手を離さなかった。
「いや、お前の言う通り、こいつはキラキラしたイケメンじゃないかもしれない。でもさ、この『参加不可事項確認書』を見てみろよ。すべての項目に、ものすごく丁寧にチェックが入ってる。嘘をついている目の泳ぎ方、お前には見えるか?」
「それは……」
葵は視線を履歴書の写真に戻した。
確かに、証明写真の中の少年、黒崎駆の瞳は、泥臭くはあるが、驚くほど真っ直ぐで、濁りがなかった。そこにあるのは、強固なまでの意志。妹を救いたいという、必死な人間の目だった。
「お前は『嘘をつく人間は即脱落』って言っただろ。この黒崎って奴は、自分の現状を一切飾らず、嘘を突かずに勝負しに来てる。お前の厳しい基準を、ある意味で一番真摯に受け止めてるんじゃないか?」
蓮の言葉に、葵は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……チッ。生意気ね、蓮。私の基準をあなたに解説される筋合いはないわ」
しかし、葵は履歴書をシュレッダーに入れるのをやめ、デスクの「保留」と書かれたトレイに乱暴に放り投げた。
「勘違いしないで。合格させたわけじゃないわ。ただ、ここまで堂々と不細工な……いえ、泥臭い面下げて私の前に現れた度胸だけは、一瞬だけ評価してあげるわ。泳がせておいて、次の審査で完膚なきまでに叩き落としてあげる」
「へいへい、お嬢様の仰せの通りに」
蓮は内心でほっと息を吐いた。葵は冷酷でワガママだが、筋の通らない嘘を嫌う。黒崎駆の「本気」は、歪んだ形ではあるが、葵のプライドに一石を投じたようだった。
「さあ、お喋りは終わりよ! まだあと二箱残っているわ。夜明けまでに終わらせるわよ!」
「マジか……もう外がうっすら明るくなってきてるんだが……」
東の空が白み始める頃、ついに一万枚目の履歴書が処理された。
応接室の床は完全に紙屑の袋で埋め尽くされ、デスクの上には、葵によって選び抜かれた、たった「百枚」の履歴書だけが美しく整列していた。一万人から百人への、超高速にして超厳格な絞り込みの完了だった。
「……終わった。本当に終わった……」
蓮はデスクに突っ伏し、泥のように眠りに落ちようとしていた。全身の筋肉が悲鳴を上げ、脳細胞は完全に活動を停止している。
「ふぅ……。私の網膜の健康は、辛うじて保たれたわね」
葵はゆっくりと立ち上がり、大きく伸びをした。そのシルエットは、朝日に照らされて神々しいほどに美しい。徹夜明けだというのに、肌のハリも、髪のツヤも一切衰えていない。まさにバケモノじみた美貌だった。
「お疲れ様、蓮。私の奴隷として、最低限の仕事は全うしたわね」
葵はデスクを回り込み、突っ伏している蓮のそばに歩み寄った。
「おい、蓮。起きなさい。片付けがまだ残って……」
その時、葵の言葉が止まった。
突っ伏した蓮の顔が、朝の光に照らされている。
いつもは邪魔な前髪と、分厚い作業用メガネのせいで、その顔立ちを意識したことなど一度もなかった。『空気』か『裏方』、あるいは自分のワガママを処理するための『便利な機械』程度にしか思っていなかった幼馴染。
だが、今、蓮はメガネを外し、机に腕を枕にして、無防備な寝顔を晒していた。
長年、葵の過酷な要求に付き合わされてきたせいで、その輪郭は引き締まり、無駄な脂肪が一切ない。鼻筋は驚くほどすっと通り、長い睫毛が朝日の影を作っている。
「……あれ?」
葵は、自分の胸の奥が、トクン、と小さく跳ねるのを感じた。
彼女は慌てて、デスクの上にある『参加不可事項』のリストを目で追った。
既婚者:ではない。
子供あり:当然いない。
短足:毎日私の買い物に付き合わされて歩かされているから、むしろスタイルは良い。
顔デカ:私と並んでも違和感がないくらいには小さい。
毛深い:そんな不潔な毛は生えていない。
ワキガ・口臭・不潔:今朝、私が淹れさせたコーヒーの香りが微かにするだけで、フケ一つ落ちていない。毎日私の命令で、一ノ瀬家御用達の高級ソープを使わせているのだから当然だ。
「嘘……でしょ……?」
葵は呆然と呟いた。
自分が掲げた、あの狂気じみた、一万人を百人にまで一瞬で削ぎ落とした「極悪な審査基準」。
それを、目の前で泥のように眠っている幼馴染が、何一つ意識することなく、最初から「すべて完璧にクリアしている」という事実に、彼女は今、初めて気づいてしまったのだ。
(アイツ……一応全部クリアしてるのよね。悔しいけど……)
葵の頬が、自覚のないまま、ほんのりと朱に染まっていく。
全国から一万人を集めて、十億円も使って大騒ぎしている自分のすぐ傍に、自分の理想の基準を満たす男子が最初から存在していた。その事実が、彼女のプライドを激しく揺さぶる。
(いや、ダメよ! 何を考えているのよ、私は!)
葵は激しく首を振った。
(蓮はあくまで、顔が私の妥協ギリギリ、スレスレのレベルなだけよ! そう、イケメン枠の末席に滑り込めるかどうかの、ただの幼馴染! 私が選ぶのは、世界を平伏させるほどの本物のトップ・オブ・イケメンなんだから!)
自分の胸の高鳴りを必死にかき消すように、葵はわざとらしく大きな足音を立てて、蓮の背中をバシバシと叩いた。
「起きなさい、蓮! 朝よ! 書類のシュレッダー屑をゴミ集積場まで運ぶまでが、あなたの仕事よ!」
「うわっ!? ……痛っ、何するんだよ葵……。もう体力が限界だって……」
蓮はメガネを慌ててかけ直し、目をこすりながら不満を漏らした。そのいつもの冴えない「裏方」の姿に戻ったのを見て、葵はふぅ、と密かに胸を撫で下ろした。
「ふん、さっさと動きなさい。次は特設サイトでの『一般投票』の準備よ。下々の民たちにも、私が選び抜いた百人のイケメンたちを拝ませてあげるんだから!」
こうして、地獄の書類審査は幕を閉じた。
少女の胸に宿った小さな、けれど確実に彼女を焦らせることになる「異変」を置き去りにしたまま、物語は予測不能なネット一般投票の嵐へと突き進んでいくのだった。




