15. 桃の香り
青柳製作所を飛び出した秋山は、がむしゃらに自転車を漕ぎ続けた。
あんなふうに掛け値なしの憎悪をぶつけられたのは初めてだ。秋山は自分が善意に囲まれて育ってきたことを痛感した。
心臓がバクバクと脈打って、喉までせり上がってくるようだ。喉が締まってうまく酸素が吸えない。頭がぐらぐらする。どこに行けばいいのかもわからないが、とにかくじっとしてはいられなくて、只々自転車で走り続けた。
田代の警告。
転落死した辣腕の政治家。
焼けた鉄のような赤い憎しみ。
銀縁眼鏡の若き日の遼。
濡れたターコイズのループタイ。
トマトの上で途方に暮れたオニヤンマ。
情報量が多すぎて、ゾートロープのように回転しながら秋山の脳裏をめぐっている。
これはもう、自由研究じゃない。どこまで踏み込むのか。踏み込んでいいのか。『あんまり、深ぇとこまで首突っ込むなよ』田代の声がリフレインする。
踏み込みたくはない。でも、もう止まれない。
いよいよ息ができなくなって、秋山は自転車を止め、ハンドルに額を押しつけた。荒い息を吸い込むと、自分の汗の臭いにまじってTシャツに染みていた桃の香りが立ちのぼった。
甘い優しさが張り詰めた神経をそっと包む。ほんの少し、閉じた視界が開けた気がした。
とにかく、七堂記念民俗資料館に行こう。確かめなくてはいけないことがある。秋山は顔をあげ、改めて山へと続く道を急いだ。
駄菓子屋の先の三叉路まで来ると、秋山はまた足を止めた。暮れ始めの陽光が魔の森を照らし、禍々しい影を形作っている。野放図に伸びたコナラが森の入口を低く覆い、日の差さないそこはまるで本当に悪魔の顎門のようで──
「受験生!」
魅入られたように立ち尽くしていると、背後からの呼び声でハッとした。虫取り網を抱えた子供たちが数人、真剣な顔でこちらを見ている。
「受験生、だめだよ!」
「魔の森に入ったらだめだよ!」
「入ったらあくまに食べられちゃうんだよ!」
口々に引き留められた。どうやら森に入ろうとしていると思われたらしい。
「いや、別に入ろうとしてたわけじゃねえけど……。っていうか、悪魔がどうこうって噂、俺の時もあったな。今でも言われてんのか」
秋山が子供の頃にも、魔の森には悪魔が出るとまことしやかに噂がされていた。大人からも森に入ってはいけないときつく言われていたのが、子供心の現実味に拍車をかけた。
大人は悪魔を信じていたわけでもあるまいが、事故や遭難の危険性がある自然林に子供が入らないよう、敢えて噂を放置していたのかもしれない。
秋山自身もすっかり怖がって、森に近づこうとはしなかった。いいかげん大きくなって、噂を忘れてしまってからも。
「受験生があくまに食べられちゃったら、陽菜ちゃんが泣いちゃうよ!」
涙目で裾を引いてきた子供の頭をそっと撫でた。普段自分を揶揄してくる子供たちまで、結局は善意でできている。
こんな小さな田舎町で、いったい何が起こったのか。
「そうだな、魔の森は十八禁だ。夕暮れチャイムが鳴っても遊んでる子供を食っちまうかもしれないぞ」
子供たちを脅し、怯える背中を押して家路につかせる。
「受験生は?」
「受験生も帰ろう!」
遠ざかりながらも言い募る子供たちに向けて、秋山は笑顔を作った。
「心配すんな。にいちゃんもすぐ帰る」
受験生と呼ばれる年齢は、大人でもないが、本当に悪魔がいると思う歳でもない。
「あれは悪魔だ」吐き捨てた青柳の、火花のような眼光が脳裏に散った。
もしも、もしも本当に悪魔がいるなら。
「──ちょっと、聞いてみたいことがある」
秋山は茂みに自転車を隠すと悪魔の顎門に踏み込んだ。




