10. 逆算禁止の恋のメモリー
早朝作戦は功を奏し、朝の気配を心地よく感じながら自転車を飛ばす。途中でクワガタを持った子供に絡まれたぐらいで、それほど汗をかく前に資料館にたどり着いた。
優しい兄として、いちおうクワガタ小僧にDSを持っているか聞いてやった。
「……あら。また来たの?」
開館と同時に飛び込むと、受付から佐伯が美しい柳眉を少し上げて言った。昨日と同じく、白いシャツとタイトスカートの組み合わせだが、今日のシャツはノースリーブだ。肩のところがヒラヒラになったデザインで、白い二の腕が眩しい。
「学習意欲に燃える勤勉な学生に対してご挨拶ですね。ちょっと情報が足りなくて、追加調査に」
「まあ、熱心ね。偉いわ。でも、夏の魔物に取り憑かれないようにね」
佐伯はいたずらっぽく微笑んだ。
「夏の魔物?」
今度は秋山が眉を上げる番だ。
「たまにいるのよ。夏の魔物に取り憑かれた者は、受験勉強から逃避して郷土研究に血道を上げるらしいわ」
少し芝居がかった言い方に、図星を衝かれた秋山が喉を押さえてグエッと呻くと、佐伯が声をあげて笑った。
「さ、行きましょう? レポートに書きやすい資料、紹介してあげるわ」
先を行く黒髪がさらりと揺れるのを見ながら、続く秋山の足取りも軽かった。
佐伯の助力を得て、資料集めは順調に進んだ。この調子なら必要な枚数に届きそうだ。
「佐伯さん、これで高校生用の自由研究プリントも作った方がいいっすよ。未来の俺への救済になる……おっと」
シャープペンシルの先がノートを軽く掻いた。芯がない。秋山は佐伯の胸元に目を向けた。
「佐伯さん、そのペン借りてもいいですか。シャー芯が切れちゃって」
「ああ、これね」
佐伯は胸元からペンを抜くと、秋山に示した。
「これね、万年筆なの。慣れてない若い人には使いにくいかも」
万年筆は細身で優美なフォルムだ。佐伯によく似合っている。上部に液体が入っており、スノードームと同じ構造のようだ。軽く動かすと淡いピンク色のラメが舞って、まるで桜吹雪。
「へえ。綺麗ですね。このピンクの、桜ですか?」
「コペンハーゲンのお土産だから違うと思う。桜の木もあるみたいだけど、日本みたいな桜文化はないわね」
「……コペ?」
間抜けな声が出た。
「地理を勉強しなさい。テストに出るわよ、受験生」
呆れられてしまった。
「コペンハーゲンは、デンマークの首都。北欧の美しい街よ。写真でしか見たことないけど、私もいつか行ってみたいの」
ゆらり、ゆらり。細い指先が万年筆を揺らしながら、夢見るように遠くを見た。
「貰ったの、中学の時に。意外と使いやすくて、お気に入りなのよ」
「へえ、貰ったんですか、中学の時に……。それって何年前ですか?」
秋山が不躾に聞くと、佐伯は冗談めかして怒ってみせた。
「ちょっと、乙女の年齢を暴くつもり? 逆算禁止よ!」
そのまま階下へ去って行った。拙かったかな、と思ったが、佐伯は程なくして戻ってきた。手にはボールペンが握られている。
「これ使って。開館十周年記念ボールペンよ」
秋山はありがたく受け取る。黒地のボールペンの側面には金彫りで『七堂記念民俗資料館』と書かれており、絶妙にダサい。
「お買い上げありがとうございます。三百十五円になります」
「金取んのかよ! しかもなんか微妙に高けぇ!」
財布を取りだした秋山が目をやると、佐伯はまた万年筆を揺らしていた。
秋山の視線に気が付くと、「初恋のメモリーってやつね」と苦く笑う。
中学生。陽菜と変わらない年の頃に、彼女はどんな苦い恋をしていたのか。
その目は万年筆よりも、もっと遠くが映っているようだった。




