第3話 白銀の楽園と、銀雪の仔狐たちの熱烈な歓迎
王都を追放されたエラを乗せた馬車は、北へ、さらなる極北へと進んでいた。
車輪が凍てついた泥を噛む不快な振動と、隙間風が鳴らすヒュウヒュウという悲鳴のような音が、彼女の孤独をいっそう際立たせる。
窓の外に広がるのは、一年中猛吹雪が吹き荒れ、生きるもの全てを拒絶すると言われる「死の森」だ。人々はその領地を治めるケイル辺境伯を、情け容赦のない「氷の魔王」と呼び、その地を「精霊に呪われた絶望の果て」だと忌み嫌っていた。
馬車を操る御手は、恐怖でガタガタと歯を鳴らしている。
「巫女様、本当に、本当に行くのですか……。あそこへ行った者で、正気で戻ってきた者は一人もいないというのに」
「ええ、構いませんわ。私にはもう、戻る場所も、守るべき約束もありませんもの」
エラは静かに答えた。王都で搾り取られ、ボロボロになった彼女の魔力は、今はもう静かな湖面のように凪いでいる。
馬車が、領地の境界を示す古びた石柱を越えた、その瞬間だった。
視界を白く染めていた荒れ狂う猛吹雪が、まるで魔法の指揮棒で振られたかのように一斉に静まり返ったのだ。代わりに空から舞い落ちてきたのは、陽光を反射して虹色にきらめくダイヤモンドダストだった。
「……っ、これは?」
驚きに目を見開くエラの視界に、信じられない光景が飛び込んできた。 死の森と呼ばれていたはずの地は、見渡す限りの銀世界でありながら、どこか温かく、神秘的な輝きに満ちていた。そして、馬車の前方に、一人の男が立っていた。
馬車の扉が音もなく開かれる。
そこに立っていたのは、白銀の髪を冬の夜風になびかせ、氷の結晶を閉じ込めたかのような鋭くも美しい瞳を持つ、絶世の美青年――ケイル辺境伯その人だった。
彼の纏う空気は確かに冷徹で、並の人間であればその威圧感だけで息が詰まるだろう。だが、エラが息を呑んだのは、彼の美貌に対してではなかった。
彼の肩に、腕に、さらには厚い毛皮の外套の隙間にまで、真っ白でふわふわとした「銀雪の仔狐」の姿をした精霊たちが、溢れんばかりに群がり、彼を埋め尽くしていたのだ。
「……君が、王都から捨てられ、私の孤独を埋めに来たという、命知らずの巫女か?」
ケイルの声は低く、地響きのように心地よく響いた。だが、彼の真剣な表情とは裏腹に、肩に乗った仔狐が「キュイッ!」と可愛らしく鳴きながら、彼自身の頬を毛むくじゃらの尻尾でペシペシと叩いている。
「驚かせてすまない。私にかけられた『呪い』とは、あまりに強大すぎる精霊の愛ゆえに、並の人間ではその魔力圧に耐えられず、発狂してしまうというものなんだ。君も、辛ければすぐに――」
ケイルが言いかけた言葉は、エラの行動によって遮られた。
エラは馬車から一歩踏み出すと、真っ先に自分の足元へ津波のように押し寄せてきた仔狐たちの群れの中に、自ら膝をついたのだ。
「……なんて、温かくて、心地よいのでしょう」
エラが仔狐の一匹をそっと両手で抱き上げ、その柔らかな喉元を指先で愛おしそうに撫でる。 その瞬間、銀雪の仔狐はうっとりと目を細め、エラの腕の中でゴロゴロと喉を鳴らした。それに応呼するように、周囲にいた数百の精霊たちが一斉に歓喜の声を上げ、領地全体の空気が一瞬にして春の陽だまりのような、優しく濃厚な魔力に包み込まれた。
「君……苦しくないのか? 私の周囲に漂う、この過剰なまでの精霊の波動が」
ケイルが驚愕に目を見開く。これまで彼に近づいた女性たちは、誰もがその魔力圧に顔を青くして逃げ出すか、あるいは彼を「化け物」と罵って拒絶してきた。
「いいえ。王都の地下で、冷たく重い魔王の情念を一人で抑え込んでいた頃に比べれば、この子たちの純粋な愛の力は、私にとって最高の救いですわ」
エラが微笑むと、仔狐たちが競い合うように彼女のドレスの裾を甘噛みし、もふもふとした体を擦り寄せてくる。
ケイルは、王都で「泥臭い」「地味だ」と蔑まれていたエラの横顔を、まるで見失っていた至宝をようやく見つけたかのような、熱を帯びた眼差しで見つめた。
「驚いた。私の加護を、呪いではなく『温かい』と言ったのは、君が初めてだ」
ケイルは不器用な手つきで、だが極めて丁寧にエラの手を取り、跪いた。仔狐たちが彼の背中で飛び跳ねる中、彼はエラの指先に、誓いのような熱い口づけを落とした。
「エラ。君こそが、私が、そしてこの凍てついた地が、千年の間待ち望んでいた『真の聖女』だ。今日この時から、この領地の全ては君のものだ。君を蔑んだ者たちのことなど、もう忘れていい。ここでは私が、そしてこの精霊たちが、君の全てを愛し、守り抜くと誓おう」
エラの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、生まれて初めて「自分の価値」を認められた喜びの滴だった。
辺境の楽園。そこは、王都の者たちが恐れる死の地などではなく、精霊と愛に満ち溢れた、世界で唯一の、彼女の「真の居場所」だったのである。




