第2話 『錆びた剣亭』の阿鼻叫喚と、腐りゆく日常
エラが王都を去ってから、わずか五日が経過していた。
しかし、そのわずかな時間は、千年続いた平和な王都を、まるで数十年放置された廃墟のように変貌させるには十分な月日であった。
王都の北側に位置する、薄暗い路地裏。そこには普段、一日の労働を終えた荒くれ者や腕利きの職人たちが集い、清らかな水で醸された旨いエールを酌み交わす居酒屋『錆びた剣亭』がある
。だが、今宵の店内に漂っているのは、活気ある笑い声ではなく、鼻を突くような腐敗臭と、絶望に満ちた怒号であった。
「ふざけるな! こんな泥水を、金を取って客に出すつもりか!」
店内に、一人の大柄な鉱夫の怒鳴り声が響き渡った。彼は、目の前のカウンターに、不気味なほどどす黒く濁ったジョッキを叩きつけた。ジョッキの底にはヘドロのような不溶物が沈殿し、表面には油膜のような光沢が浮いている。
かつて、この王都の井戸水は、聖域の巫女エラが地下深くで魔力を循環させ、不純物を絶え間なく浄化し続けていたおかげで、水晶のように透き通り、喉を潤す最高の宝物であった。だが今、人々の口に入るのは、喉を焼くような不快な臭気と砂混じりの不浄な塊だ。
店主は顔を青くし、震える手で何度もカウンターを拭きながら、掠れた声で弁明した。
「勘弁してくれ……井戸から上がってくる水が、今朝から全部これなんだ! 濾過器を三重にしても、この不気味なヌメリと臭いが取れやしねぇ。……巫女様がいらっしゃった頃は、水なんてのは天からの恵みで、タダ同然でこれ以上なく旨かったのによ。まさか、あの方が地下で魔力を流してなきゃ、俺たちは泥水しか飲めないなんて、誰が想像したってんだよ」
「うちの店だって、もう終わりだ、畜生……!」
その時、店の扉が勢いよく開き、近所で評判のパン屋の主が崩れ落ちるように入ってきた。彼は、真っ黒なカビがまるで細胞のように不気味に脈打って増殖しているパンの塊を、テーブルにぶちまけた。
「見てくれ、昨日焼いたばかりなんだぞ! それが数時間でこの有様だ。エラ様がいた頃は、街中の空気すら清浄に保たれていて、湿気の多い日だってパン一つ腐らなかった。あの方は、見えないところでこの街全体の『鮮度』を調律してくださっていたんだ……」
パン屋は涙を流しながら、カビにまみれたパンを素手で引き裂いた。
「それが、新しい聖女様は何をやってやがる! 聖域の魔石を無理やり操作して、自分の肌を磨くための特殊な石鹸を作らせて、一日中芳香漂う美容風呂に浸かってやがるとよ! 街中にカビと魔物の瘴気が満ちてきているってのに、あの我儘娘は『お姉様がいた時より、お肌がツヤツヤしてずるいくらいだわ』なんて笑ってやがるんだ!」
居酒屋の隅では、王宮から流れてきた騎士団の男たちが、青ざめた顔で密談に耽っていた。その表情には、戦士としての誇りよりも、未知の崩壊に対する根源的な恐怖が刻まれている。
「……通行許可証が完全に止まっている。物流は死んだも同然だ。あの地味な巫女様は、毎日数千枚に及ぶ書類を一人で精査し、魔物の位置を予測して安全な経路を指示していた。だがセリナ様は『こんなに汚い紙ばかりあるなんて、私の指先が汚れてずるいわ。触りたくない』と言って、王家の判が押された重要書類を、その日の暖炉の薪代わりにして全部燃やしちまいやがったんだ」
「おかげで境界線には、見たこともない巨大な魔物の影が蠢き始めている。結界はボロボロだ。俺たちの剣に付与されていた魔除けの効果も、巫女様の祈りが途絶えた瞬間に消えた。……あの『ただ静かに座っているだけ』だった巫女様こそが、この国の生命を維持するための心臓そのものだったんだ」
民衆の怒りは、腐敗した肉の臭いと共に王都の夜を侵食していった。
かつて彼女を「地味で不気味だ」と嘲笑っていた者たちも、今はその失われた「無償の愛」の欠片を必死に求めて、虚しく空を仰ぐしかない。
「あのバカ王子と妹を、今すぐこの泥水の中に引きずり込んでやりてぇよ!」
「エラ様を戻せ! あの方がいなきゃ、俺たちは魔物に喰われる前に、自分たちの出したゴミと泥水で死んじまう!」
王都の至るところで、無能な新聖女への呪詛と、消えゆく文明への悲鳴が渦巻いている。
そこにはもはや、優雅なワルツの余韻など微塵も残されてはいなかった。




