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第一編 第七章 その3 逃げる

増大し続ける恐怖心が余すとこなく世界を包み込んでしまいそうだ。

あの二度目の予定外の殺人のせいだ。


やべえ。逃げなきゃ。


もしもあの時に多少の勇気と理性があったなら。


私の、多大なる絶望と愚劣なる醜悪。それらを感じとってさえいれば。


これから平穏を手に入れるためには、どれだけの罪に罪を重ねることになるのかさえ判ってさえいれば。


おそらく僕は洗いざらい全部吐き出して、とっくに自首しに行ってたろうに。


捕まるのが怖いんじゃないんだ。自分が犯した罪へのいくら水を注いでも一切希釈されない純粋な恐怖心と視界を歪ませる異常に猛烈な吐き気のなせる(わざ)だった。


嫌だ。やだ。もうやだ。もう戻れない。


戻ってたまるか。


でも、僕は大事なことを忘れていた。些細なことには気がつくというのに。


手と斧を洗わなきゃ。台所のバケツのおかげで命拾いした。


僕の手は血まみれでネバネバしていた。斧の刃を水に沈めて、桶の中で血を洗い落とした。


約三分と少しの時間が経った。


血の痕はもう残っていない。でも柄がまだ湿っていた。けど、懐に斧を隠した。


外套もズボンも靴も、とても人を殺した後には見えなかった。

でも靴に斑点が。湿らせた布でそれを必死に拭いた。


もうないよな? 見られちゃまずいものは。


僕は部屋の中央に立って、物思いにふけた。


よくよく考えたら、今すべきことはなんだ?


「ああ、逃げる。逃げるんだあ」


待っていたのは恐怖そのものだった。


信じられない。ドア開いてんじゃん!

鍵も掛金もしてない。

今までずっと閉まってなかったのか。

そんなに婆さんに警戒されていたのか?


あ、そもそもさっきリザヴァータ入ってきてたじゃん!


僕はすぐさまドアへ飛びかかり、掛金を掛けた。


「違う違う。そうじゃない。今すぐ逃げなきゃ……」


僕は掛金を外してドアを開けた。


すると何処からか声が聞こえてきた。門の辺りからだろうか。


大声で金切り声で叫びあってる二人の声がお互いを罵り合っている。


「なんだあいつらは?」


辛抱強く待ってたら、急に静かになった。


部屋から出ようとおもったのに、突然階下で誰かが階段を降り始めた。何かしらの曲を歌いながら。


「どうしてどいつもこいつも騒がしくしやがるんだ」


ドアをバックにまたまた待機した。

よし、物音も人の気配もしない。


僕は階段に一歩踏み出した。


何度目だ?


また新しい足音だ。


距離的には遠い。でもなんでだろう。足音の主はここにやってくる気がする。そんな意味深な足音なのか?


重くて、均一で、忙しなさのない足音。


ますます大きくなってきた!


息切れしてる。もう3階まで来た。


僕はまさに貼り付けの刑を科され、手すらまともに動かせなくなってしまった。


客が4階、僕がいる階まで上がりはじめた。


本能だ。


間に合った。


ドアを閉めた。

掛金を掴んで輪の上に嵌めた。


招かれざる客はドアの近くにいるようだ。


僕はドア越しに聞き耳を立てた。


男は何度か重たい息を吐いた。


「こりゃあ、太ってて大っきいな。」


僕は白昼夢を観てる気がした。


客は呼び鈴を乱暴に鳴らした。


誰だ? 部屋の中で誰かが蠢いた。

いや、幻覚か。


客はもう一度呼び鈴を鳴らし、取っ手を強引に引っ張りはじめた。


今にも掛金が外されそうだ。僕は掛金を手で支えた。


バレるかもしれねえ、と考えるだけの理性は残っていた。


「もうダメだ!」


僕はすぐに正気を取り戻した。何処ぞの客が怒鳴り出したからである。


「一体なんなんだよ、あいつら。寝てんのか? 誰かがしめ殺しやがったのか? ああ、悪魔(忌々しい)。おいアリョーナ・イワーノヴナ、老いぼれ魔女! リザヴェータ・イワーノヴナ、語りきれない美女! ちっ、寝てんのかよあいつら」


客人は短気なことに、十回連続で呼び鈴を引っ張りたおした。


急かされてるような足音が近づいてきた。


「まさか、誰もいないのか?」


陽気に叫んだ者は、最初の訪問者に話しかけた。


「こんにちは、 コフ!」


声から推察するに結構若い。


「ああ、悪魔(クソ)。鍵かかってる……ところで何処で俺を知った?」

「3日前、君にビリヤードで3回連続で勝ったじゃないか?!」

「ああ……」

「いないのかな、ババア用事でもあんのかな」

「私も用事なんだけどなあ」

「じゃあどうする? 戻るって? えー! 金もらおうと思ってたのに!」


若い男は品もなく叫んだ。


「おそらく戻ってはくる。時間指定したってのに、どこへぶらつきやがってるんだ? わかんねえよ。一年中座り潰してる腐りきった魔女。足が痛えのに突然散歩かよ!」

「管理人に聞いてみる?」

「何をだい?」

「何処へ向かってて、いつ帰ってくるかだよ 」

「……ああ、聞くか……」


そして客はまた取っ手を引っ張った。


悪魔(クソ)、しゃあねえ。行くか!」

「待て! 」

「見えるか? 引っ張ってみると?」

「え?」

「つまり婆さんは鍵じゃなくて掛金でつまりフックで閉めたんだ。ガチャガチャいってるのが聞こえないかい?」

「え?」

「君は馬鹿かい? つまり誰かが部屋の中にいる。みんな部屋から出たなら外から鍵で閉めるだろ? 内側から掛金はできないだろ? なのに掛金の音が聞こえるんだ。つまりいるんだよ。なのにこいつは開けてくれないんだ」


「おお、確かにそうだ! 頭いいなあ! 」


コフは驚いた。


「じゃあ、ババア達は何やってんだよ 」


コフはドアを無理やり引きちぎろうとした。


「待て! 」


若い方の男が叫んだ。


「引っ張るな! 何かおかしい……引っかかるんだ……」

「え?」

「管理人を呼んでこよう!」

「いいアイデアじゃねえか、流石だぜ!」


二人は下へと降り始めた。


「待て!君はここに残ってて」

「しかし、なぜ?」

「何か起こるかも知らないでしょ?」

「ああ、そうだな」

「私は司法捜査官にならんとする者だ。ああ、明らかにこれはおかしい」


熱く叫んだ若い男は走り去っていった。

コフは残ってまた呼び鈴を鳴らした。

うーん、と考えながらドアの取っ手を動かし始めた。

引き寄せたり、下げたり。

ハアハアと息を荒げながらかがみ込んで鍵穴を覗き始めた。


僕は斧を握りしめていた。

僕はまるで熱病の中にいた。


万が一の場合は戦うことも想定していた。


さっさと終わってくれ。


1分。さらにもう1分。誰も来ない。


コフは動き始めたようだ。


「ちっ!」


コフは焦ったのか見張りの任を放棄して下へと降りていった。階段を靴がビンタしている。しばらくしたら、また静かになった。


「やべえ、どうしよう……」


僕は掛金を外してドアを少し開いた。


気がついたら僕は、既に3つの階段を降りていた。


下で物音。


何処に隠れる?

後ろへ、部屋へ…………


「おい、化け物! とっ捕まえろ!」


叫び声が下から飛び出した。


「ミーチカ! ミーチカ! ミーチカ! ミーチカ! ミーチカ! 悪魔(クソ)に食われるぞ!」


3、4人の男達が騒々しく階段を上がってきた。


完全な絶望の中で、奴らは既に近づいてきた。


まずい。顔を覚えられてしまう。

終わりだ終わり。詰みだ。ゲームオーバーだ。


ああ残り階段1つ分の差しか残っていない。


しかし神は僕を見捨てなかった。


右に(から)の広い部屋。


奴らが飛び出してきた。


一瞬で僕は滑り込んだ。文字通り滑り込みセーフ。


ドアから壁の後ろへと駆け込んだ。

奴らはもう踊り場だ。そこから上の階へと上がっていった。


しばし待っていた僕は爪先立ちで出て、下へと駆け出した。


誰も階段にいない! 門の下にもだ。

僕は素早く門の下を潜り抜けて、左へと曲がった。


僕はよくわかっていました。


あいつらが既に部屋にいることを。あいつらの驚嘆を。さっきまで閉まっていたドアが開いていることへの驚嘆を。死体をみてからもう1分以上は経っているどろう。つい先程まで殺人者が潜んでいて隙を見て逃げ出したことを理解した頃だろう。


それなのに僕は足を速めることができなかった。


「どっかに滑り込んで隠れるか? いや、それはない! 斧をどっかに捨てるか? 馬車に拾ってもらうか? いや、これもない!」


路地でのことだ。僕は半ば救われたも当然だった。


半死半生。


これなら怪しまれないだろう。

激しく行き交う群衆の1人として、砂漠の砂みたく溶け込んだ。


苦痛に度重なる新しい苦痛のせいで僕はほとんど動けなかった。汗で首が濡れていた。


「ほら 飲みすぎだ!」


僕が溝に出た時、誰かに叫ばれた。僕は極めて(うわ)の空だった。


ん、ここは人が少ない。目立っちまう。


路地へ戻った。


のらりくらりふらりふわりとぶっ倒れそうだったのに、遠回りしまくっていつもと別の方向から帰ってこれた。


僕は自分の家の門を通り、階段に差し掛かろうとした頃、1つのことを思い出した。


あ、斧をなんとかしなきゃ。


元の場所に戻すか? なるべく目立たないように。

いや、どっか知らないよその庭に投げ捨てるのもアリだな。


大体のかたはついたはず。


管理人室のドアは閉まっていたけど鍵はかかっていなかった。つまり管理人がいる可能性が高い。


危機管理能力の落ちていた僕は管理人室のドアを開いた。管理人はいなかったので、元の場所に斧を隠した。


長椅子の下に薪で覆うことによって。


大家の扉は閉まっていた。


一人分の魂とすらもすれ違わなかった。


僕はソファーへとダイブした。着替えることも寝ることもなく。


意識が朦朧とする中、誰かが入ってきたとしたら、僕はすぐさま跳ね起き、喉をすり減らす勢いで叫んだんだろうな。


僕は何も掴めなかった。全く止まれなかった。


努力が虚しくなるほどに。

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