第8話前半 悪夢明けの訓練と優しいおまじない
冷たい。
ひどく冷たい水の中に沈められているような感覚だった。
視界は灰色に濁り、空も地面も境界が分からない。ただ、どこまでも静かで、気味が悪いほど音が存在しない。
———ここはどこだ?
歩こうとしても足が重い。靴の下からは水音のようなものが広がるのに、不思議と音だけが聞こえなかった。
すると、遠くに誰かが立っているのが見えた。
黒い影。
人の形をしているのに、輪郭が曖昧だ。
その影がゆっくりこちらを向く。
『———見つけた』
瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
心臓を直接掴まれたみたいな痛み。
『その器は———』
影がこちらへ手を伸ばす。
逃げなければ。
そう思うのに身体が動かない。
足元から黒い何かが絡みついてくる。
嫌な汗が流れた。
『返せ』
返せ?
何を?
聞き返そうとした瞬間。
『先ぱ…… 縺ゥ縺薙〒縺吶°?』
よく知る声が、ノイズ越しのように霞んだ
その瞬間、灰色の世界にヒビが入り———
———
目が覚めた。
「……はぁッ……!」
息が荒い。
全身が汗でびっしょりだった。
荒く呼吸しながら周囲を見渡す。見慣れてきた天蓋付きの部屋。薄いカーテンの隙間から柔らかな朝日が差し込んでいる。
……夢か。
いや、悪夢と言った方が正しい。
胸を押さえる。まだ少し痛む気がした。
「……なんだったんだ、今の」
ぽつりと呟いた声は静かな部屋に吸い込まれていった。
ふと、腕の中に違和感を覚える。
昨夜まで抱えていた原石だ。
恐る恐る毛布をめくる。
「……え?」
そこに、原石の姿はなかった。
代わりに、淡い光だけが残っていた。
空色と赤紫が混ざり合った、まるでオーロラのような光。
ゆっくり揺らめきながら、俺の身体の周囲を漂っている。
綺麗だ。
思わずそう思った。
触れようとすると、その光はすうっと身体の中へ溶け込むように消えていく。
昨夜優奈が言っていた。
『原石は魔力と完全に同調すると溶けますので』
つまり、成功したのか。
……なんか実感ないな。
ぼんやりそう考えながらベッドから降りた。まだ少し身体は重いが、前よりはだいぶ楽だ。
着替えを済ませ、軽く顔を洗う。
鏡を見ると、少しだけ目の下に隈ができていた。
「悪夢のせいか……」
ため息をつき、部屋を出る。
静かな廊下を歩きながら聖堂へ向かう。
大きな扉を開けると、朝日がステンドグラスを通して床に色鮮やかな光を落としていた。
扉の先に広がっていたのは、異様なほど積み上げられた本の山だった。
その中心に、本を読んでいる優奈が座っていた。
「……なにしてるんだ?」
「あ、おはようございます先輩」
優奈は顔を上げると軽く手を振った。
「おはよう。というか本多すぎないか?」
「調べ物をするための本です。昔のものまで引っ張り出したらこうなりました」
「勉強熱心すぎるだろ……」
「どうしても探したい物がありましたからね」
優奈は立ち上がり、こちらへ歩いてくる。
「では、まず軽く診ますね」
「診る?」
「健康診断です」
「あぁ、あれか」
そう言うと額に手を当てられた。
ひんやりして気持ちいい。
「……熱は大丈夫そうですね」
次に首筋へ触れる。
「脈もそこまで悪くない、と」
「ほんとに医者みたいだな……」
「一応資格持ってますから」
「そうだった」
もう驚くことに疲れてきた。
優奈はさらに俺の目をじっと見た。
「悪夢でも見ました?」
「……なんで分かったんだ?」
「目に少し隈がありますし、魔力の流れが若干不安定なので」
「魔力でそこまで分かるのか……」
「はい。内容は覚えています?」
「灰色の場所にいて、変な影がいて……『返せ』って」
そこまで言った瞬間。
優奈の表情がほんの少しだけ固まった。
本当に、一瞬だけ。
「……優奈?」
「あ、いえ。なんでもないです」
だが、その声は少しだけ硬かった。
「原石と完全同調した影響かもしれませんね。今後も様子は見ます」
そう言いながら、優奈はすぐにいつもの表情へ戻った。
「それより、今日は魔成杖の訓練ですよ」
「ついにか」
「はい。魔成杖は魔術を扱う上でかなり重要ですからね」
優奈は自分の杖を軽く回した。
三日月の中心に星のような装飾が浮かぶ、美しく神秘的な杖。
「いいですか?魔成杖は、ただの武器ではありません」
優奈の声が少しだけ真面目になる。
「自分の魔力を最も安定して扱える“器”です」
「器……」
「なので、無理に形を作ろうとしてはいけません。まずはイメージです」
そう言いながら、空の魔石を差し出してくる。
「まずは魔力を循環させましょう」
訓練は思った以上に難しかった。
魔力を出す。
戻す。
循環させる。
それだけなのに上手くいかない。
「うわっ?!」
手元の光が暴発して散る。
「惜しいですね」
「惜しいで済ませていいのか今の?!」
「天界の子供達も最初はこんな感じですよ」
「まじか……」
「ちなみに先輩はかなり上手い方です」
「そうなのか?」
「はい。普通はもっと時間かかりますので」
褒められているのか分からない。
何度も繰り返していくうちに、少しずつ魔力の流れが分かってきた。
体の奥から何かを引き出す感覚。
血液とは違う、熱のような流れ。
「……こんな感じか?」
手のひらに集まった光が細長く伸びる。
一瞬だけ。
杖の輪郭のようなものが浮かび上がった。
「……!」
優奈の目が見開かれる。
だが次の瞬間、光は霧のように崩れた。
「あー……消えた」
「今のです!!」
珍しく優奈が少し興奮していた。
「かなり良い感じですよ!」
「え、そうなのか?」
「はい! 輪郭がかなり安定していました!」
なんだか嬉しそうに話す優奈を見ていると、こっちまで少し嬉しくなる。
その後も訓練は続き、気づけば外はすっかり暗くなっていた。
「……疲れた」
「お疲れ様です。今日はここまでにしましょうか」
部屋へ戻る途中。
優奈がふと思い出したように口を開いた。
「あ、そういえば」
「ん?」
「調べ物をしていたら良いおまじないが載ってる本があったんです」
「おまじない?」
「はい。良い夢を見るための魔術です」
「そんなのあるのか……」
「昔は子供相手によく使われていたみたいですよ」
部屋へ戻ると、優奈は小さな魔導書を開いた。
淡い光の魔術陣が空中に浮かび上がる。
「では、少し失礼しますね」
優奈は俺の額へそっと触れた。
柔らかな光がじんわり広がる。
不思議と身体の力が抜けていく感覚。
「これで少しは楽になると思います」
「……ありがと」
「どういたしまして」
優奈はふわりと笑った。
「今宵、眠りを司る神モルペウスの羽が穏やかな眠りを運びますように。」
その声を最後に。
俺の意識は静かに沈んでいった。




