第九十八話 帰る方を選ぶ
ケルベロスの胸から外れた黒い輪が、俺の足元で光った。
ガルは踏んだまま動かない。
割れた輪の内側へ、細かな文字が浮かぶ。
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回収統括権限が空席になりました。
停止者へ暫定権限を移譲します。
管理対象:
回収個体07
第七獣舎所属個体12
回収統括個体
随伴命令を設定できます。
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表示の下に、《随伴命令》《権限放棄》が並ぶ。
「これを使えば、ガルを連れて戻れる」
ノアが言った。
「十二番も獣舎から出せるかもしれない」
「命令で?」
「今までの命令とは違う。誰を噛めじゃなく、ついて来いだけ」
「同じだ」
「置いていくよりはいい」
ノアは焼けた右腕を左手で押さえている。責める声ではなかった。命令される側だったのに、それでも使えるものを捨てきれない声だった。
随伴命令へ指を近づける。
ガルがこちらを見た。
首から血が垂れ、前脚にも黒い線の跡が残っている。牙を見せてはいない。
俺が押せば、たぶん来る。
家の裏まで連れて帰り、古い鍋の前へ座らせられる。
それは帰ったことにはならない。
指を横へ動かす。
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暫定回収統括権限を放棄しました。
管理対象との強制接続を解除します。
解除後、同一権限の再取得はできません。
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黒い輪が砕けた。
「これで、呼んでも戻らないかもしれないよ」
千紘が言う。
「分かってる」
「本当に捨てた」
「使わないものは持ってても邪魔だ」
「それ、こっちじゃ一番先に死ぬ考え方」
「まだ死んでない」
「今のところね」
ノアは短く笑ったが、右腕の痛みですぐ顔をしかめた。
ガルは俺へ近づかない。
倒れたケルベロスの中央の頭を嗅ぎ、残る二頭の口輪も前脚で外した。三つの頭は互いに違う方向を見たあと、胸の青い核を守るように伏せる。
俺たちは先に第七獣舎へ戻った。
ガルには、来いとも待っているとも言わなかった。
戻る途中、千紘が何度も後ろへ耳を向けた。足音は追ってこない。
「気になるなら呼べば」
ノアが言う。
「呼んだら、来ようとするかもしれない」
「それが嫌?」
「今は」
千紘はそれ以上答えなかった。
七番の檻には、水皿と旧回収標識だけが残っている。
右耳のない獣は処置した布へ顎を載せていた。床下の青い線が弱く脈打ち、呼吸はさっきより遅い。
ノアが水を飲ませ、俺は崩れた格子を戻す。
千紘は壁へ背を預け、端末の動かない時計を見た。
「あと四時間半」
帰還路を待つ時間は、休息にはならなかった。
肩の裂けた防具を外し、傷を洗う。牙は鱗を貫いていないが、周りが紫色に腫れていた。背中の打撲も残り、壁へ座ると呼吸のたびに痛む。
ノアは自分の腕へ薬を塗ろうとして、二度瓶を落とした。
「貸して」
千紘が受け取る。
「自分でできる」
「できてない」
「角、触らないで」
「腕に塗るのに触らないよ」
言い合いながら、千紘が黒い帯を少しずつ剥がしていく。下の皮膚は青く透け、細い文字が骨の近くまで入り込んでいた。
「これも迷宮固定?」
「半分。全部焼いたら右腕が落ちる。残したら継続局に拾われる」
「どっちにするの」
「まだ決めてない」
「じゃあ今日は外だけ」
千紘は薬を薄く塗り、新しい布を巻いた。
答えを急がせない代わりに、今日できる処置だけをする。
俺はそれを見ながら、未配分の能力値を開きかけて閉じた。三百二十も残っている。けれど、今の身体で何が足りないかを、戦闘直後の痛みだけで決めたくなかった。
四時間半が過ぎても、ガルは戻らなかった。
ノアが水皿の旧回収標識を拾う。
「私が押しても承認しない」
「押す前に止める」
「観測だけ開ける。長くは保たない」
彼女は壁を二回、少し間を変えて三回叩いた。
一分ほどして、黒い四角が浮かぶ。
向こうには東條さんとレオンがいた。千紘が時刻を確かめると、こちらとほとんどずれていない。
「三人とも無事ですか」
「ガルがいない」
東條さんの目が細くなる。
「物理接続は」
「標識の保持者がいないと開かない」
ノアが金属片を溝へ押し込む。
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旧回収標識を確認しました。
保持者照合:不成立
物理接続を開始できません。
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「観測を閉じてください」
東條さんが言う。
「あと一分」
「追跡の危険があります」
「分かってる」
戻るなら、ガルを置いていくことはできない。
命令で呼ばないと決めたせいで、全員がここへ残ることになるかもしれない。
それでも、選んだあとで都合のいい結果だけを求める気にはなれなかった。
「在真」
千紘が左を向く。
「足音」
保管区の穴から、爪が石を擦る音が近づいてくる。
先に現れたのは、右耳のない獣へ続く青い線だった。
床下から細く伸び、獣の首布へ入る。呼吸が一度だけ深くなる。
その後ろからガルが出てきた。
口には、ケルベロスの胸から外した青い金具をくわえている。命令核ではなく、生命維持の脈を分けるための部品らしい。
ガルは俺たちを見ず、右耳のない獣の前へ金具を置いた。
青い線が床から金具へ移り、首布へつながる。
右耳のない獣が、初めて自分で立ち上がった。
獣舎の出口までは来ない。ガルと鼻を触れ合わせ、格子の前で止まる。
ノアが何も言わず、旧回収標識を床へ置いた。
ガルは前脚で踏む。
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第七獣舎から帰還路の再起動要求を受信しました。
接続時間:90秒
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黒い面が広がる。
千紘が先に現実側の床へ片足を入れ、東條さんのいる位置を確かめた。俺はノアへ水と薬の残量を聞き、次の合図を決める。
ガルは最後まで右耳のない獣を見ていた。
それでも、残り三十二秒でこちらへ身体を向ける。
俺たちに従ったのではない。
ノアのところへ帰ることもできた。第七獣舎に残ることもできた。そのうえで、自分から黒い面を越えた。
俺も続く。
第零迷宮の床へ足が着いた瞬間、胸の奥で熱が跳ねた。
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上位種族進化条件を満たしました。
《真竜人》へ進化できます。
進化を保留しますか?
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権限を捨てた時には出なかった表示だ。ガルが戻ったからなのか、それを待ったからなのか、条件は書かれていない。
ガルは見上げもしなかった。
表示の向こうで、千紘が俺を見ている。
「保留する?」
「しない」
《進化》へ触れた。
背骨に沿って、熱が一気に上がる。
膝をつく前に千紘が左腕を取り、ガルは近づかず少し離れたところで座った。
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種族:竜人 → 真竜人
種族ランク:一次進化種 → 上位種
《竜鱗》が《真竜鱗》へ進化しました。
《竜脈》が《真竜脈》へ進化しました。
種族補正により、表示能力値を再計算しました。
筋力:800 → 1,200
耐久:960 → 1,440
敏捷:705 → 1,175
器用:300 → 600
感覚:250 → 375
精神:465 → 775
進化によって現在HP・MPは回復しません。
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右目は暗いままだった。
肩と背中の痛みも消えない。
ただ、暴れていた熱が竜脈の中へ戻り、呼吸をするたび身体の奥で同じ方向へ流れ始める。
「帰ったら、能力値を配る」
「その前に病院」
「病院から行く」
「そのあと、両方の家に話す」
「同居のこと?」
千紘は俺の腕を支えたまま、少しだけ眉を上げた。
「その先のこと」
返事をする前に、腹が大きく鳴った。
真竜人になって最初に増えたのは、たぶん空腹だった。




