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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十九章 ガルの帰る場所

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第九十八話 帰る方を選ぶ

 ケルベロスの胸から外れた黒い輪が、俺の足元で光った。


 ガルは踏んだまま動かない。


 割れた輪の内側へ、細かな文字が浮かぶ。


――――――――――


回収統括権限が空席になりました。


停止者へ暫定権限を移譲します。


管理対象:

 回収個体07

 第七獣舎所属個体12

 回収統括個体


随伴命令を設定できます。


――――――――――


 表示の下に、《随伴命令》《権限放棄》が並ぶ。


「これを使えば、ガルを連れて戻れる」


 ノアが言った。


「十二番も獣舎から出せるかもしれない」


「命令で?」


「今までの命令とは違う。誰を噛めじゃなく、ついて来いだけ」


「同じだ」


「置いていくよりはいい」


 ノアは焼けた右腕を左手で押さえている。責める声ではなかった。命令される側だったのに、それでも使えるものを捨てきれない声だった。


 随伴命令へ指を近づける。


 ガルがこちらを見た。


 首から血が垂れ、前脚にも黒い線の跡が残っている。牙を見せてはいない。


 俺が押せば、たぶん来る。


 家の裏まで連れて帰り、古い鍋の前へ座らせられる。


 それは帰ったことにはならない。


 指を横へ動かす。


――――――――――


暫定回収統括権限を放棄しました。


管理対象との強制接続を解除します。


解除後、同一権限の再取得はできません。


――――――――――


 黒い輪が砕けた。


「これで、呼んでも戻らないかもしれないよ」


 千紘が言う。


「分かってる」


「本当に捨てた」


「使わないものは持ってても邪魔だ」


「それ、こっちじゃ一番先に死ぬ考え方」


「まだ死んでない」


「今のところね」


 ノアは短く笑ったが、右腕の痛みですぐ顔をしかめた。


 ガルは俺へ近づかない。


 倒れたケルベロスの中央の頭を嗅ぎ、残る二頭の口輪も前脚で外した。三つの頭は互いに違う方向を見たあと、胸の青い核を守るように伏せる。


 俺たちは先に第七獣舎へ戻った。


 ガルには、来いとも待っているとも言わなかった。


 戻る途中、千紘が何度も後ろへ耳を向けた。足音は追ってこない。


「気になるなら呼べば」


 ノアが言う。


「呼んだら、来ようとするかもしれない」


「それが嫌?」


「今は」


 千紘はそれ以上答えなかった。


 七番の檻には、水皿と旧回収標識だけが残っている。


 右耳のない獣は処置した布へ顎を載せていた。床下の青い線が弱く脈打ち、呼吸はさっきより遅い。


 ノアが水を飲ませ、俺は崩れた格子を戻す。


 千紘は壁へ背を預け、端末の動かない時計を見た。


「あと四時間半」


 帰還路を待つ時間は、休息にはならなかった。


 肩の裂けた防具を外し、傷を洗う。牙は鱗を貫いていないが、周りが紫色に腫れていた。背中の打撲も残り、壁へ座ると呼吸のたびに痛む。


 ノアは自分の腕へ薬を塗ろうとして、二度瓶を落とした。


「貸して」


 千紘が受け取る。


「自分でできる」


「できてない」


「角、触らないで」


「腕に塗るのに触らないよ」


 言い合いながら、千紘が黒い帯を少しずつ剥がしていく。下の皮膚は青く透け、細い文字が骨の近くまで入り込んでいた。


「これも迷宮固定?」


「半分。全部焼いたら右腕が落ちる。残したら継続局に拾われる」


「どっちにするの」


「まだ決めてない」


「じゃあ今日は外だけ」


 千紘は薬を薄く塗り、新しい布を巻いた。


 答えを急がせない代わりに、今日できる処置だけをする。


 俺はそれを見ながら、未配分の能力値を開きかけて閉じた。三百二十も残っている。けれど、今の身体で何が足りないかを、戦闘直後の痛みだけで決めたくなかった。


 四時間半が過ぎても、ガルは戻らなかった。


 ノアが水皿の旧回収標識を拾う。


「私が押しても承認しない」


「押す前に止める」


「観測だけ開ける。長くは保たない」


 彼女は壁を二回、少し間を変えて三回叩いた。


 一分ほどして、黒い四角が浮かぶ。


 向こうには東條さんとレオンがいた。千紘が時刻を確かめると、こちらとほとんどずれていない。


「三人とも無事ですか」


「ガルがいない」


 東條さんの目が細くなる。


「物理接続は」


「標識の保持者がいないと開かない」


 ノアが金属片を溝へ押し込む。


――――――――――


旧回収標識を確認しました。


保持者照合:不成立


物理接続を開始できません。


――――――――――


「観測を閉じてください」


 東條さんが言う。


「あと一分」


「追跡の危険があります」


「分かってる」


 戻るなら、ガルを置いていくことはできない。


 命令で呼ばないと決めたせいで、全員がここへ残ることになるかもしれない。


 それでも、選んだあとで都合のいい結果だけを求める気にはなれなかった。


「在真」


 千紘が左を向く。


「足音」


 保管区の穴から、爪が石を擦る音が近づいてくる。


 先に現れたのは、右耳のない獣へ続く青い線だった。


 床下から細く伸び、獣の首布へ入る。呼吸が一度だけ深くなる。


 その後ろからガルが出てきた。


 口には、ケルベロスの胸から外した青い金具をくわえている。命令核ではなく、生命維持の脈を分けるための部品らしい。


 ガルは俺たちを見ず、右耳のない獣の前へ金具を置いた。


 青い線が床から金具へ移り、首布へつながる。


 右耳のない獣が、初めて自分で立ち上がった。


 獣舎の出口までは来ない。ガルと鼻を触れ合わせ、格子の前で止まる。


 ノアが何も言わず、旧回収標識を床へ置いた。


 ガルは前脚で踏む。


――――――――――


第七獣舎から帰還路の再起動要求を受信しました。


接続時間:90秒


――――――――――


 黒い面が広がる。


 千紘が先に現実側の床へ片足を入れ、東條さんのいる位置を確かめた。俺はノアへ水と薬の残量を聞き、次の合図を決める。


 ガルは最後まで右耳のない獣を見ていた。


 それでも、残り三十二秒でこちらへ身体を向ける。


 俺たちに従ったのではない。


 ノアのところへ帰ることもできた。第七獣舎に残ることもできた。そのうえで、自分から黒い面を越えた。


 俺も続く。


 第零迷宮の床へ足が着いた瞬間、胸の奥で熱が跳ねた。


――――――――――


上位種族進化条件を満たしました。


《真竜人》へ進化できます。


進化を保留しますか?


――――――――――


 権限を捨てた時には出なかった表示だ。ガルが戻ったからなのか、それを待ったからなのか、条件は書かれていない。


 ガルは見上げもしなかった。


 表示の向こうで、千紘が俺を見ている。


「保留する?」


「しない」


 《進化》へ触れた。


 背骨に沿って、熱が一気に上がる。


 膝をつく前に千紘が左腕を取り、ガルは近づかず少し離れたところで座った。


――――――――――


種族:竜人 → 真竜人

種族ランク:一次進化種 → 上位種


《竜鱗》が《真竜鱗》へ進化しました。


《竜脈》が《真竜脈》へ進化しました。


種族補正により、表示能力値を再計算しました。


筋力:800 → 1,200

耐久:960 → 1,440

敏捷:705 → 1,175

器用:300 → 600

感覚:250 → 375

精神:465 → 775


進化によって現在HP・MPは回復しません。


――――――――――


 右目は暗いままだった。


 肩と背中の痛みも消えない。


 ただ、暴れていた熱が竜脈の中へ戻り、呼吸をするたび身体の奥で同じ方向へ流れ始める。


「帰ったら、能力値を配る」


「その前に病院」


「病院から行く」


「そのあと、両方の家に話す」


「同居のこと?」


 千紘は俺の腕を支えたまま、少しだけ眉を上げた。


「その先のこと」


 返事をする前に、腹が大きく鳴った。


 真竜人になって最初に増えたのは、たぶん空腹だった。

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