第九十九話 まだない指輪
病院を出たのは、第七獣舎から戻って三日目の昼だった。
左肩には新しい保護材が入り、背中の打撲も黒紫から黄色へ変わっている。HPとMPは戻ったが、腕を真上へ上げると噛まれた場所が引きつった。
右目は変わらない。
真竜人になって変わったのは、傷が消えることではなく、身体の奥で熱が暴れにくくなったことだった。歩くだけで汗をかいていた竜脈が、今は息を整えれば背骨の内側へ収まる。
帰還した日の処置が終わってから、残していた能力値を配った。増えた最大値まで戻るのに、食事と二晩の睡眠が要った。
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名前:大月在真
種族:真竜人
種族ランク:上位種
レベル:50
HP:3,940/3,940
MP:1,240/1,240
筋力:1,380
耐久:1,680
敏捷:1,350
器用:680
感覚:420
精神:875
未配分能力値:0
スキルポイント:46
称号:
《第零迷宮初踏破者》
《隻眼の攻略者》
《黒狼の盟友》
《沈降駅踏破者》
《世界杭攻略者》
固有スキル:
《継承》Lv.7
継承能力:
《断界》Lv.1
《衝撃分散》Lv.1
《空歩》Lv.1
《座標記録》Lv.1
《係留》Lv.1
《道標共有》Lv.1
《記憶固定》Lv.1
一般スキル:
《呼吸合わせ》Lv.1
《境目抜け》Lv.1
《足場読み》Lv.1
種族特性:
《真竜鱗》
《真竜脈》
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千紘も二百四十ポイントを残さず配った。
筋力百六十、耐久四百十、敏捷五百四十、器用六百六十、感覚九百二十五、精神七百六十。HPは二千八百八十、MPは千二十まで上がっている。
「感覚には、今回は三十なんだな」
「四十にしようとしたら、廊下の自販機がずっと鳴ってたからやめた」
「鳴ってないぞ」
「在真にはね」
迎えに来た父の車で祖父の家へ戻る間、千紘は何度か左手を開いていた。能力値へ慣れていないせいではない。薬指の根元を親指で触り、そのたび何もないことを確かめている。
家の前には知らない白い車が停まっていた。
千紘の両親が先に来ている。
「もう来てるじゃん」
「一時って言っただろ」
「今、十二時五十七分」
「三分前だ」
「着替える時間がないって言ってるの」
千紘は病院を出た時のシャツのまま、自分の袖を嗅いだ。消毒薬の匂いしかしないと思う。
「俺も同じだ」
「在真はそのままでも気にしないでしょ。私は嫌」
父が運転席から降り、トランクを開けた。
「玄関で続けろ。荷物持てるのか」
「左なら」
「聞いてない。持つな」
退院したばかりの息子に対する言い方は、真竜人になっても変わらなかった。
玄関を開けると、焼いた魚と味噌汁の匂いがした。母は昼飯を軽くすると言っていたはずなのに、座敷の机には皿が七枚並んでいる。
妹の結衣が廊下から顔を出した。
「角、ちょっと伸びた?」
「たぶん変わってない」
「触っていい?」
「だめ」
「千紘さんは触ったことあるのに?」
千紘が靴を脱ぐ途中で止まった。
「母さん」
「私、何も言ってないわよ」
台所から返った声は妙に速い。結衣のスマートフォンへ送ったのは母だろう。
隠す話でもない。
ただ、座敷へ入る前に全部済んだ感じがして、用意していた言葉が一度消えた。
千紘の父親は背筋を伸ばして座り、母親は湯飲みを両手で持っていた。何度か会ってはいるが、二人が揃ってこの家へ来るのは初めてだった。
父が俺の隣へ座る。
母と結衣は台所へ戻らず、空いている側へ詰めた。
千紘が俺を見た。
「先、言う?」
「俺たち、婚約することにしました」
口に出すと短かった。
千紘の母親が湯飲みを置く。底が受け皿へ二度当たった。
「同居のお話までは、聞いてたけど」
「その先も決めました」
千紘が言った。
「大学は?」
「やめないよ」
「遠征は」
「それも、今すぐやめるとは言えない」
「結婚したら、やめるの?」
千紘は答える前に、膝の上で指を組み直した。
「結婚したからって理由では決めない。行く場所と、その時の私で決める」
母親の眉が寄る。
隣で父が息を吸った。俺へ何か言う前に、千紘の父親が口を開く。
「それは、二人で決めたことか」
「私は私で決めました」
「在真君は?」
「同じです。千紘が行くかは、千紘が決める」
父がこっちを見る。前なら、守ると言え、と口を挟んでいたかもしれない。
今日は膝へ置いた手を動かさなかった。
「戻ったばかりで決めたわけじゃないんです」
千紘が続ける。
「灰海へ行く前から、一緒に暮らす話はしてました。帰れたら、でもなくて。そのあと大学をどうするかとか、家賃とか、鍋が二つあるのをどうするとか」
「鍋?」
千紘の父親が初めて少し顔を崩した。
「同じ大きさのが二つあって」
「一つでいいだろ」
「在真が両方使えるって言うから、まだ決まってない」
「使える」
「使うかどうかの話」
結衣が吹き出し、母も口元を押さえた。
張っていたものが全部ほどけたわけではない。千紘の母親はまだ娘の手を見ている。向こう側で鼻血を出し、知らない魔人の腕へ包帯を巻いた手だ。
「指輪は?」
結衣が聞いた。
「今日、見に行く」
「まだないのに報告したの?」
「物を買ってから許可を取りに来たみたいにしたくなかったから」
千紘が答えると、今度は俺の母が立ち上がった。
「じゃあ、ご飯にしましょう。冷めるから」
賛成とも反対とも言わないまま、味噌汁を運び始める。
俺も立とうとしたが、父に肩ではなく皿を押さえられた。
「お前は座ってろ」
「もう動ける」
「左肩、上がってないだろ」
言われて持ち上げると、保護材の下が引きつった。
「上がる」
「それで皿を持てるのか」
結局、魚の皿は結衣が配った。
食事の途中で、千紘の母親がもう一度だけ聞いた。
「怖くないの」
誰に向けたのか分からなかった。
俺が答えかけるより先に、千紘が箸を止める。
「ずっと怖いよ」
母親はその続きを待った。
千紘は何も足さず、冷めかけた味噌汁を飲んだ。
午後、俺たちは駅前の小さな店で銀色の指輪を選んだ。
宝石はなく、内側へ名前と日付を刻むだけのものだ。受け取りは一週間後になる。
「今日つけて帰れないんだ」
店を出てから千紘が言った。
「別のにするか」
「これがいい」
「じゃあ待つしかない」
「分かってる。言っただけ」
祖父の家へ戻ると、結衣が作った家族用の通話画面に神崎さん、灯、直人が映っていた。
「なんで三人いる」
『おばさんから聞いた』
直人が答える。やはり母だった。
『大月、婚約したなら最初に言うことがそれか』
神崎さんは消防署らしい白い壁の前にいた。灯は救急車の横で紙パックの飲み物を持ち、直人は大学の作業室にいる。
「今から言うつもりだった」
『その言い訳、指輪の受け取りにも遅れそう』
灯が言った。
千紘は俺の横から画面を取り上げる。
「一週間後だから。時間はまだ決まってない」
『おめでとう』
神崎さんが先に言い、直人がそれへ重ねた。灯だけは少し遅れた。
『今度、傷のない時に見せて』
「努力する」
『在真じゃなくて千紘に言った』
通話の向こうで笑い声が重なる。
ガルが縁側で頭を上げた。
画面の音ではない。
物置の方へ耳を向け、立ち上がる。
次に聞こえた音は、居間にいる俺にも分かった。
床下から二回。
間を置いて、三回。
千紘の顔から笑いが消える。
「ノアだ」
通話を切らず、俺たちは物置へ走った。
左肩が遅れる。千紘は先に木戸を開け、ガルがその脇を抜けた。
第零迷宮の観測門には、すでに黒い四角が浮かんでいる。
映ったノアは第七獣舎にいなかった。背後の壁が揺れ、天井から白い粉が落ちている。右耳のない個体十二を連れ、狭い階段を下りていた。
『第三地下が落ちた』
「薫と蓮は」
『中枢へ逃げた。継続局も追ってる』
ノアが振り向く。
遠くで、鐘に似た音が三度鳴った。
『中枢迷宮が、向こうから開く』
黒い画面の縁へ青い線が集まり始める。




