第九十六話 三つの命令声
閉じた扉には、取っ手がなかった。
肩を当てても動かず、隙間へ指も入らない。向こうから黒い鎖が擦れるたび、薄い鉄板がこちら側へ膨らんだ。
「壊す」
「その前に離れて」
ノアが短剣の柄で扉を二度叩く。
返った音は一つではなかった。
重い唸りが三方向から重なり、鉄板が細かく震える。
「三首が起きてる」
「ケルベロス?」
「そう呼んでた。回収猟犬をまとめて命令する管理個体」
「最後に動いたのは?」
「十二年前。私が右腕を焼いた日」
ノアは自分の腕を見ず、来た通路へ戻り始めた。
「逃げるのか」
「別の入口を探す。正面から開けたら、三つ全部こっちを向く」
判断は早いが、声の端が固い。
千紘が閉鎖板へ耳を近づける。すぐに顔を離し、左耳のイヤホンを外した。
「一つはガルの近く。あとの二つは、壁を回ってる」
「本体が三ついる?」
「同じ音。離れた場所から聞こえるようにしてる」
ノアが振り返る。
「それ、技能?」
「今は耳だけ」
「便利だね」
「そうでもない」
千紘はイヤホンを首へ下げた。扉から漏れる低音だけで、耳の下が赤くなっている。
俺たちは保管区を二部屋戻った。
ノアが壁の管理図を剥がすが、裏はコンクリートで塞がれている。俺が隣の格子を持ち上げても、錆が落ちるだけだった。
「下」
千紘が言う。
「四番の檻。床の下だけ風が抜けてる」
四番には、空の革袋と小さな骨が残っていた。
踏まないよう端へ寄せ、床板の継ぎ目を探す。右側の角だけ、指を入れる前に二度空振りした。
ノアはそれを見ていたが、手を出さなかった。
「右目、ないんだ」
「今気づいたのか」
「前から変な向き方するとは思ってた」
「本人にそれ言う?」
千紘が呆れた声を出す。
「見えない方から手を出すよりいいでしょ」
ノアは俺の左へ回り、床板の端を短剣で起こした。
俺が両手を掛ける。
竜人になってから、力を入れた瞬間に道具を壊すことが増えた。少しずつ持ち上げるつもりだったのに、錆びた留め金がまとめて飛ぶ。
床板が壁へ当たり、大きな音がした。
三方向の唸りが止まる。
「静かになった」
「気づかれた?」
「たぶん」
千紘は穴を覗かず、先に小さなボルトを落とした。二秒ほどして金属へ当たり、右奥へ転がっていく。
「深さ二メートルくらい。下に細い通路」
ノアが先に降りた。
俺は千紘を支えようと手を出し、避けられる。
「先に在真が下りて」
「受けるためだけど」
「右肩、まだ上がりきってないでしょ」
忘れていた。
腕を下ろし、自分から穴へ入る。
下は配管用の溝だった。膝をついたまま進むと、天井の格子越しに青い光が見えてくる。
ガルがいた。
円形の広間で、三本の黒い鎖に引かれている。
一本は首。二本は前脚の古傷へ食い込み、それぞれ別の壁へ続いていた。
広間の奥から、巨大な獣が出てくる。
黒灰色の胴に、犬の頭が三つ。
中央の頭だけがガルと同じ黒毛で、左右は灰色と赤茶。三つの口には鉄の口輪がはまり、喉から出た鎖が一つの胸部金具へ集まっていた。
ケルベロス。
ただの三つ首ではない。
右の頭が吠える。
『追跡』
ガルの鼻先がノアのいる方向へ上がる。
左の頭が吠える。
『拘束』
前脚が床を掻き、黒い鎖が短く巻かれる。
最後に中央。
『帰還』
ガルの身体が、ケルベロスの方へ引かれた。
三つの命令を同時に押しつけている。
ガルはノアを追おうとせず、前脚で床を削ってその場へ残っていた。首の血が胸まで流れている。
「下へ出る場所は」
俺が聞くと、千紘は格子へ指を当てた。
「右前、五メートル。格子が一枚だけ薄い」
ノアが短剣を握り直す。
「私が先に出る」
「標的だろ」
「だから三つとも私を見る」
「噛まれたことあるって言ってたな」
「あるよ。それでも、今ここで見てるだけよりはまし」
止める言葉を探している間に、ノアは右腕の黒い帯を歯で引いた。
青い火が肘まで広がる。
「待って」
千紘が打音器を取り出した。
「三つの声、胸で一回重なってる。命令が出てるのは頭じゃないかも」
「確かめられる?」
「近くで一回だけなら」
俺は薄い格子へ手を掛けた。
ノアが目立つ場所へ出る。千紘が音を拾う。その間に俺が胸部金具へ近づく。
ノアは右腕の火を伏せ、千紘は打音器を構えた。目が合っても、誰も頷かなかった。
格子を持ち上げる。
ノアが広間へ転がり出ると、三つの頭が同時に向いた。
千紘が格子の隙間から打音器を鳴らし、《音界地図》を広げた。MPが二十減る。
「胸の輪! 三つの喉から入って、奥で一本になってる!」
俺は床を蹴り、《空歩》を使った。MPが四十減る。一歩目を格子の上、二歩目を何もない空中へ置く。
ケルベロスの中央の頭を越え、胸元へ落ちた。
着地する前に、後ろから太い尾が来る。
避けきれない。
腕で受けるより先に《衝撃分散》を使い、衝撃を足元と広間の床へ逃がした。MPが二十減る。
床が円形に割れた。
逃がしきれなかった重さが背中へ入り、息が抜ける。HPが三千百五十まで落ちた。
それでも胸部金具は目の前にある。
手を伸ばすと、中央の頭がこちらを見た。
『未登録回収対象』
左右の頭も、ノアから俺へ向き直る。
『現行世界種』
『竜人』
三つの声が重なった。
『回収を開始する』




