第九十五話 回収対象ノア
ガルが消えた穴へ身体を入れる。
肩が両側の石へ触れ、ヘルメットの縁が天井を擦った。右側は壁に近すぎて、顔を向けても距離が分からない。
「在真、待って」
後ろから千紘の声がする。
「ガルを見てくる」
「一人で見える?」
足が止まった。
暗い穴を、片目で追えると思っていたわけではない。止める言葉が先に口から出ただけだ。
「来てくれ」
「うん。ノア、傷は」
「洗い終わった。布を巻けば動ける」
千紘が穴へ入り、その後ろからノアも続く。右耳のない獣は連れてこない。格子の扉を開けたまま、戻れる場所だけ残していた。
「この先、知ってるのか」
「途中まで。十二番を運んだ時に一度だけ」
「帰還対象の保管区って何を置く場所?」
「人とか、魔物とか。回収したもの」
「物みたいに言うな」
「ここの呼び方」
ノアの声が近くなった。言い返したのか、謝ったのかは分からない。
穴は十メートルほどで広がり、コンクリートの通路へ変わる。
迷宮の石ではない。壁には剥がれた塗装が残り、天井を細い配管が走っていた。ところどころに漢字と見たことのない文字が並んでいる。
最初の部屋に、折れた角が積まれていた。
次には子供用の靴と、刃の欠けた剣。
その先の格子では、緑色の小さな手が床から伸びている。骨だけになった指の先に、錆びた工具が残っていた。
「ゴブリン?」
「たぶん。ここへ来た時には、もうこうだった」
ノアは止まらない。
保管されたのは魔物だけではない。人間の服、獣人用らしい穴のある上着、片方だけの長い耳飾り。どの檻にも番号はあるが、名前はなかった。
一つの檻には、学校で使うような黄色い帽子と、オークの太い腕に合わせた革籠手が同じ棚へ押し込まれていた。
何を基準に回収したのかは分からない。危険な魔物を閉じ込めた場所には見えず、逃げ遅れたものを、名前を外して並べたように見える。
第一層で最初に殺したゴブリンの顔が、急に近くなった。
あれがここから来た個体だったとは思わない。それでも、迷宮にいたというだけで敵の側へまとめたことはある。
足元の骨を踏まないよう、通路の中央へ寄った。
ガルの足跡が埃の上へ続いている。
呼んでも返事はない。
「鈴、近くなってる」
千紘が左耳を押さえた。
「一つじゃない。前から鳴って、後ろでも同じ音がする」
「挟まれてる?」
「追われてる感じじゃない。通った場所が順番に鳴ってる」
俺たちの位置を知らせている。
走ろうとして、左肩が壁へ当たった。狭さを忘れたわけではない。ガルの足跡ばかり見て、身体の幅を見ていなかった。
痛みで一度息を止める。
「急がないで」
「急がないと、あいつが」
「在真が倒れたら、ガルを追う人が一人減る」
千紘は俺の前へ出た。
打音器は使わず、靴先で床を二度擦る。少し進んでは左手を上げ、右壁が張り出す場所を知らせた。
俺はその背中を追う。
先に行かれるのが嫌なのではなく、見える人の後ろへ入ることを、まだ毎回少し遅れて選んでいる。
通路の終わりに、丸い部屋があった。
ガルは中央へ立っている。
その前に、子供ほどの大きさの光像が浮かんでいた。
短い角が一本。痩せた腕。首には、金属の輪。
今より幼いノアだった。
額に角はまだない。片方を折った跡ではなく、そこには普通の皮膚しかなかった。
『対象N―01、東区画で再捕捉』
天井から平坦な声が流れる。
『回収個体07を投入』
光像の中で、黒い獣が廊下を走る。
ガルより小さい。首輪から三本の鎖が伸び、天井の溝へつながっていた。
幼いノアが転び、壁際へ追い詰められる。
黒い獣は飛びかかった。
けれど、噛まなかった。
ノアを越えて背後の巻き取り機へ身体をぶつけ、三本の鎖を絡ませる。遅れて来た灰色の猟犬二頭が転び、その間に幼いノアが横の扉へ逃げた。
『命令不履行』
『回収個体07、再調整』
映像が飛ぶ。
三本の鎖で床へ伏せられた黒い獣が、一度だけこちらを向いた。首輪の下は血で濡れ、前脚の爪が何本か剥がれている。
『再調整先――第零回収経路』
『到着記録なし』
光像が消える。
俺は後ろを振り返った。
ノアは入口に立ったまま、焼けた右腕を押さえている。
「覚えてたのか」
「映像は初めて見た」
「ガルに助けられたことは」
「追ってきた黒いのが、急に別の方へ走った。それだけ。顔なんか見てない」
「第零回収経路は?」
「私が生まれる前に閉じたって聞いた。あの映像がいつのものかも、ここじゃ当てにならない」
ノアは額の角へ触れた。
「この時は、まだ人間だったし」
ガルがノアを見た。
ノアは半歩出かけ、焼けた右腕を胸元へ寄せた。近づかなかった。
「あの時の七番?」
返事はなかった。
「助けられたって、今言われても」
続きは出なかった。ガルも近づかず、光像が消えた場所の匂いを嗅いだ。
天井の鈴が、まとめて鳴る。
ガルの首から血が噴いた。
「ガル!」
踏み出すと、黒い線が床から立ち上がる。細い鎖の形になり、ガルの首の古傷へ巻きついた。
『未帰還対象N―01を確認』
『回収個体07の再接続を開始』
ガルの前脚が床へ沈む。
目はノアへ向いた。
ノアが腰の短剣を抜く。
「来るなら斬る」
「待て」
「待って噛まれたことがある」
声が震えていた。
ガルが一歩、ノアへ進む。
俺は首へ手を伸ばした。
前脚が胸へ当たる。
爪は立っていない。それでも押された勢いで入口まで下がり、千紘とぶつかった。
「何する――」
ガルは俺たちとノアの間へ身体を入れた。
ノアへ向いたまま、後ろ脚で俺の足を押す。
「出ろってこと?」
喉の奥から、途切れた音が返る。
肯定には聞こえない。
けれどガルは、ノアへ近づく代わりに、自分から奥の扉へ後退していく。
黒い鎖も一緒に引かれた。
「ガル、待て」
一度呼ぶ。
耳は動かなかった。
二度目を口にする前に、千紘が俺の腕をつかんだ。
「今は呼ばないで」
命令の声と重なる。
ガルは奥の扉へ入り、自分の身体で閉鎖板を押した。
最後に見えたのは、こちらを見ない横顔だった。
扉が閉じる。
黒い鎖の音だけが、その向こうへ遠ざかっていった。




