第九十四話 七番の檻
「ロープを外して」
ノアは、俺たちが獣舎へ入りきる前に言った。
「閉じる時に挟まる」
「これが帰り道だ」
「つないだままなら、向こうの場所まで残る」
黒い門の向こうで東條さんがこちらを見ていた。
残り七十六秒。
「東條さん」
「聞こえています。ロープを回収します」
即答され、腰の金具へ手を掛ける。指が少し止まった。
これを外せば、第零迷宮とつながっている物はなくなる。
千紘は自分の金具を先に開いた。ただしロープをすぐには放さず、端を俺の左手へ渡す。
「戻る?」
「ガルが戻らない」
「うん」
それだけで決まった。
「外すぞ」
向こうへ声を掛け、二本の金具を外す。東條さんがロープを引き、黒い面の向こうへ消していった。
「次に開けられるのは?」
俺がノアへ聞く。
「早くて六時間後。ここが見つかったら開けない」
「六時間連絡がなければ、こちらから観測を試します」
東條さんの声が届く。
「勝手に開けるなって言ったでしょ」
「観測だけです。物理接続はしません」
「それも追われる」
「では、六時間後にあなたから二回、三回で合図を。完全に同じ間隔なら応答しません」
ノアが黙る。
「分かった。二回、三回。急いでない音で」
残り五十三秒。
門の向こうから水の箱が押し込まれた。次に消毒液、抗菌薬、包帯、縫合具の入った救急袋。東條さんは人を増やさず、ノアが最初に求めた物だけを送ってくる。
「種類は現地側で判断してください。使用記録は後で」
「後があればね」
「作ってください」
ノアは返事をせず、箱を格子の内側へ蹴り入れた。
レオンが最後に紙の束を差し出す。
「継続局の外套、胸元に何か見えました。粗いですが」
灰色の人影と、青い印だけを鉛筆で写した絵だった。右下に、レオン自身の字で《能力不使用》と書いてある。
「そこまで書かなくても覚えてる」
「私が忘れます」
門が縮み始める。
東條さんはもう指示を足さなかった。
「生きて戻ってください」
「そっちも場所を隠し通して」
黒い面が細くなり、最後にレオンの紙だけがこちら側へ落ちた。
門が閉じる。
さっきまで続いていた記録室の照明がなくなり、獣舎の臭いが濃くなった。
アンモニアと血、湿った藁。消毒薬は古すぎて、蓋を開けていないのに甘い匂いがする。
腰だけが急に軽い。ロープを外した感覚は、装備を一つ減らしたというより、家の裏へ続く手を自分で放した感覚に近かった。
隣を見ると、千紘も空いた金具へ一度触れている。
「怖い?」
「今さら聞く?」
「俺はちょっと怖い」
「私も。だから先に薬見る」
「手伝う」
千紘はヘルメットを外し、救急袋をノアへ渡した。
「使える?」
「そっちの薬は初めて」
「説明は読める?」
「日本語なら」
二人は床へ袋を広げた。ノアが右耳のない獣の首布をほどき、千紘はライトを持って傷を照らす。
俺が近づくと、獣は格子へ身体を押しつけた。怯えているのに、逃げる先がない。
「押さえる?」
「脚だけ。首は触らないで」
ノアに言われ、後脚の上へ手を添える。
力を込めた途端、獣の全身が固くなった。
押さえつけるのをやめる。代わりに手の甲を藁へ置き、逃げるなら踏み越えられる位置にした。
獣はしばらく鼻を鳴らし、俺の腕を一度嗅いだ。
前脚が手の甲へ載る。
「それでいい」
ノアは布の下から、黒く焼けた留め具を抜いた。
傷は首輪の形ではなく、身体の奥へ向かって枝分かれしている。細い青線が皮膚の下で脈打ち、格子の床へ続いていた。
「管理から外したんじゃなかったのか」
「命令だけ焼いた。生命維持まで切ったら、この子が先に死ぬ」
迷宮固定者。
人間だけの話ではなかった。
千紘が薬の説明書をノアへ向ける。
「これは傷の外だけ。青いところには入れない方がいい」
「分かった」
「名前は?」
「十二番」
獣の耳が動かない。
千紘は一度ガルを見た。けれど、新しい名前を勝手につけなかった。
「呼ぶ時も?」
「今は、呼ばない。私の声で管理音まで拾うから」
ノアが傷の周りを洗い始める。
ガルは治療を見ていなかった。
獣舎の奥へ進み、七つ並んだ格子の前で止まっている。
一番から六番までは扉が外れ、中は空だった。
七番だけが閉じている。
錆びた札に、ガルが持つ金属片と同じ割れた輪が刻まれていた。
「ここが」
ガルは格子へ牙を掛けた。
「待て。中を見てから――」
金具が音を立てて外れる。
命令を止めるためではない。ガル自身が、扉を開けた。
中には小さな水皿と、壁へ固定された太い鎖が残っていた。鎖の端は食いちぎられ、黒く変色している。
床には無数の爪痕があった。
祖父宅で使っているのは、父が物置から出した古い鍋だ。ガルは水を飲み終えると鼻で場所をずらし、邪魔なら自分で外へ押し出す。
ここの皿は石床へ埋め込まれ、動かせない。
同じ水皿でも、ガルにとってはまったく別の物だった。
出口へ向かうものではない。壁の一か所だけを、何度も掘った痕だ。
ガルがそこへ鼻を押しつける。
石壁の奥から、遠くで鳴る鈴が聞こえた。
首の古傷から、また血が落ちる。
「ガル」
呼ぶと、耳だけがこちらへ向いた。
振り返りはしない。
爪痕の中央へ前脚を当てると、石壁が内側へ開いた。
その先には、人間が屈んで通れる暗い穴が続いている。
ノアが治療の手を止めた。
「そこ、まだ開いたの」
「どこへ続く」
「帰ってこなかった回収対象の保管区」
ガルが穴へ入る。
「ガル!」
一度だけ止まった。
口にくわえていた旧回収標識を、七番の水皿へ落とす。
そして今度は、耳も向けずに暗闇へ消えた。
帰還路を開くための標識だけが、水のない皿に残った。




