第九十三話 ガルが開けた門
第七獣舎の観測は、その場では開かなかった。
追跡信号が完全に止まってから一時間。記録室へ残ったのは俺と千紘、東條さん、レオン、それにガルだけになっていた。
職員は階段の上へ退き、外部回線を外したカメラとロープを置いている。
「押せば開く、ではないんですね」
東條さんが溝の上に浮かぶ文字を見る。
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観測候補:第七獣舎
旧回収標識の保持者による接続承認を待機しています。
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「保持者はガルか」
俺が聞くと、表示は変わらない。
ガルは金属片を前脚の下へ隠したまま伏せている。人間が何人で相談しても、そこだけは動かなかった。
「開けたいなら待つしかない」
「あなたにしては珍しく穏当ですね」
レオンが言う。
「さっき靴で踏んだからな」
「穏当ではありませんでした」
千紘に直される。
東條さんは少しだけ息を吐き、階段の方へ手を上げた。上で待つ職員が持っていた接続準備の札を下ろす。
「今日は開かない可能性も含めます」
その言葉に反応したのか、ガルが頭を上げた。
金属片をくわえ、細い溝へ置く。
今度は前脚を離さなかった。
割れた輪の刻印から光が広がり、壁に黒い四角が現れる。祖父宅裏を映した門より小さい。人が一人、肩を縮めて通れるくらいだった。
向こうは暗い。
錆びた格子と、床へ敷かれた黒い藁だけが見える。
「第七獣舎?」
千紘が問いかけても返事はない。
代わりに、画面の外から荒い呼吸が近づいた。
灰色の鼻先が格子の下へ出る。ホルン岬で助けた三頭より小さく、右耳が途中からない。首には金属の輪ではなく、何重にも巻かれた布があった。
ガルが立つ。
灰色の獣も顔を上げた。
二頭は門越しに鼻を近づけたが、表面へ触れる直前で同時に止まった。
「七番?」
奥から声がした。
若い女が、格子の陰から出てくる。
煤で黒くなった上着。左の額から短い角が一本だけ伸び、右腕には焼けた黒い帯を巻いている。第九十話の映像で、青い光を横へ逸らした腕と同じだった。
「ノアか」
俺が言うと、女の足が止まる。
「薫から聞いた?」
「閉じる前に呼んでた」
「聞こえてたんだ」
「全部じゃない」
ノアは俺より先に千紘を見て、それからガルへ目を戻した。
「その名前、七番じゃないの」
「ガル」
千紘が答える。
「本人がそれで振り向くから」
ノアは何か言いかけ、右腕の帯を押さえた。布の隙間から青い火が細く漏れている。
「薫と子供は」
「まだ生きてる。第三地下へ移した」
「灰色の連中は?」
「継続局。観測線は一回切れたけど、久世のどこかまでは絞られた」
後ろでレオンの鉛筆が動く。
「継続とは、世界上書きの継続ですか」
「そう。こっちを残すために、そっちを空き地にする人たち」
「全員で移住するつもりではない?」
「人を運ぶんじゃない。街ごと、迷宮ごと、上から置き換える」
ノアは格子へ背を預けた。右腕から漏れた青い火が、巻いた布の下へ戻っていく。
「逃げたい人もいる。止めたい人もいる。止めたら身体が崩れる人もいる。三十一年もあれば、同じ側なんて残らないよ」
説明の続きを待っても、ノアは黙った。
右耳のない獣が咳き込み、黒い藁へ顎を落とす。ノアはすぐにしゃがみ、その首の布を緩めた。
「その一頭は」
「管理から外した。外したら、獣舎から出られなくなった」
「治療できる人を送れる」
東條さんが言うと、ノアは首を横へ振る。
「まだ人を増やさないで。継続局は人数を数える」
「では、何を求めていますか」
「薬と水。それから、七番――ガルが通るなら、三人まで」
ノアは言い直したが、ガルの耳は動かなかった。
「なぜガルが条件になる」
「第七獣舎の帰還路は、回収標識がないと物を通さない。私の標識は焼いた」
黒い帯を少し持ち上げる。その下に、割れた輪と数字を削った痕があった。
「そっちから開けば、追跡されないのか」
「される。だから九十秒で切る。こっちの線は私が途中で焼く」
「信用できると思う?」
「思わなくていい。でも、久世の門をもう一度開けるよりはまし」
ガルが門の前へ一歩出た。
ノアは手を伸ばしかけ、途中で止める。ガルも鼻先を近づけない。
「覚えてる?」
ガルは答えず、前脚で金属片を押した。
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第七獣舎から帰還路の再起動要求を受信しました。
接続時間:90秒
通過上限:旧回収標識保持者を含む四体
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「四人じゃなく、四体」
千紘が言いながら立ち上がる。もう補助索を腰へ回していた。
「行く気か」
「在真だけ行かせる気はない」
「まだ何も言ってない」
「言う前に分かる」
東條さんは止めなかった。代わりに床のカメラを拾い、細いロープへ結ぶ。
「先にこれです」
ノアが門の向こうで格子を開ける。
カメラを押し込むと、黒い表面に抵抗はなかった。ロープを一メートル送り、すぐ引き戻す。映像は途中で一度乱れたが、機材もロープの印も変わっていない。
「三人目は」
東條さんが聞く。
「今から増やさない」
「では、在真さん、千紘さん、ガル。接続が乱れたら即時帰還。現地側の住民をこちらへ通す判断はしないでください」
「患者が死にそうでも?」
東條さんは答えるまでに少し時間を使った。
「通せばこちらの場所が確定する状況なら、現地処置を優先してください。私がそう決めたと伝えて構いません」
綺麗な命令ではなかった。
俺はロープの端を腰へつなぐ。千紘が結び目を確かめ、余った端を自分の金具へ通した。
ガルは待たない。
金属片をくわえたまま黒い面へ入り、向こう側の藁を踏んだ。
残り八十一秒。
千紘が先に境界へ片足を入れ、床の音を確かめる。
「立てる。右に壁、左に檻」
俺も続く。
鼻の奥へ、獣の匂いと古い消毒薬が同時に入ってきた。
こちら側より三十一年長く使われた獣舎で、ガルは振り返らなかった。




